罪
森で倒れていた男が住んでいるという庵は、粗末なものだった。
たった一つの狭い部屋にあるのは、小さな竈と、積み重ねた枯草の上に古びた布と毛布が敷いてある寝床らしきものだけだ。
カレヴィたちの手によって寝床に横たわった男は、安堵したように息をついた。
「ありがとうございます……」
男が、苦しげに息をしながら申し訳なさそうに言った。何か病を患っているのかもしれないと、カレヴィは思った。
「なに、大したことないよ」
男を背負ってきたティボーが、そう言って笑った。
「ああ、また、こうして誰かと話すことがあるとは思っていなかった……」
「ずっと、ここで一人暮らしをされているんですか?」
リーゼルの言葉に、男は頷いた。
「そうですね……もう、二十年近くになります」
「こんなところじゃ、ロクな食い物もないんじゃないか? 見るからに栄養状態が良くないぜ」
そう言うイリヤの顔は、どこか悲しげだった。
「少し離れたところに川があるから、そこで魚を獲ったりしていたんですが……最近は億劫になってしまって……」
男は遠くを見るような目をしていたが、不意にリーゼルを凝視した。
「お嬢さん……顔を、よく見せてもらえないか」
「え……こうですか?」
リーゼルが、横たわる男の傍に屈んだ。
「白に近い金髪に……菫色の目……お嬢さん、もしかして、歳は二十歳くらいでしょう? そして……あなたの左手には五芒星のような痣がありませんか?」
想像だにしていなかったであろう男の言葉を聞いて、リーゼルが自身の左手を反対側の手で押さえた。
「ど、どうして……それを……?」
リーゼルの顔から血の気が失せ、その場の空気が張り詰める。
「ああ……生きていてくれたのですね」
男の落ち窪んだ青い目から、一筋の涙がこぼれた。
「一体、どういうことだ」
カレヴィは、そう問いかける自身の声が、ひどく掠れているのを感じた。
「だ、誰かに話しておきたいと思っていた……だが、本人に会えるなんて……」
男はオンニと名乗り、言葉を絞り出すように話し始めた。
「私は、若い頃……先代国王陛下のお傍に仕えていました。陛下が亡くなられた後、あの魔女……モルティスが即位してからは、彼女の身の回りの世話をさせられていました」
オンニの言葉に、カレヴィは息を呑んだ。
「女帝になったモルティスは、自分の欲望を満たす為か、次々に周辺諸国へ戦争を仕掛けていたということを……あなた方も知っているかもしれませんが……ある時、彼女は……偶然にも遠征先で、生き別れになっていた娘を見つけたのです」
「生き別れの……? たしかに、モルティスには子供がいると聞いていたけど」
ティボーが、ぽつりと呟いた。
「詳しい事情は分かりませんが……その娘は母であるモルティスと折り合いが悪く、モルティスがタイヴァスへ来る前に、行方をくらませてしまったと聞いています」
そこまで話すと、オンニは息切れしたのか、少しの間沈黙した。
「娘は、その夫と共に流行り病で亡くなった直後だった為、モルティスは彼女と生きて再会することは叶わなかった……だが、代わりに……娘と夫との間に生まれた赤ん坊が残されていました。もちろん、モルティスは、孫にあたる赤ん坊をタイヴァスへ連れ帰りました」
オンニの言わんとしていることを察したカレヴィは、傍らのリーゼルを見やった。
リーゼルは、大きな目を更に見開き、身動ぎもせず、オンニの言葉を聞いているように見えた。
「綺麗な白い髪と菫色の目をした赤ん坊は、とても愛らしかった……しかし、突然モルティスは、その赤ん坊を『災いをもたらす者』と言い……私に、殺せと命じたのです」
「『星を掴む者』……ってやつか?」
イリヤが言うと、オンニは弱々しく頷いた。
「そう……そんな言葉も聞きました……何の罪もない……生まれて数か月の赤ん坊を殺すことなど、とてもできない……でも、逆らえば自分の命はないと思いました。モルティスは、意に沿わぬ者と見做せば、虫でも潰すように殺してしまうのですから……」
深いため息をついてから、オンニが再び口を開いた。
「考えた末に、私は……赤ん坊を小舟に乗せて海に流し、モルティスには殺して埋めたと報告したのです。だが、自分で手を下さないというだけで、赤ん坊が生きていけないだろうことは明白だった……結局は、私が殺したのと変わらない……罪の重さに耐えられず、私は王宮から逃げ出し、この森に身を隠しました」
オンニは、震える手でリーゼルの左手を指差した。
「何度も赤ん坊を海に流す夢を見て、死にたいと思っても死ぬ勇気すらなく、私は長い間苦しんできた……しかし、その手の痣が……私を救ってくれました。あの日……海に流した赤子の手にも、同じ『印』があったのです……」
リーゼルが、びくりと肩を震わせた。
次の瞬間、彼女は身を翻し、庵を飛び出していった。
「リーゼル!」
カレヴィも、慌てて彼女の後を追った。
木々の入り組んだ森の中、リーゼルを見失いそうになりつつも、カレヴィは何とか彼女に追いついた。
一本の木に寄りかかり、息を切らせているリーゼルに、カレヴィは、ゆっくりと近付いた。
彼の姿に気付いたリーゼルは、はっとしたように顔を上げた。
カレヴィを見つめるリーゼルの目には、悲しみと怯えとが入り混じっている。
「……来ないで」
一歩踏み出したカレヴィに、リーゼルが低い声で言った。
「私は、モルティスの娘の子……孫なのよ」
そう言ったリーゼルの唇は、小刻みに震えている。
「……だから、どうした」
カレヴィが、もう一歩踏み出すと、リーゼルは後退った。
「君は、何を恐れている?」
「だって……だって、あなたはモルティスを両親の仇と恨み、憎んでいるでしょ? その孫の私のことも、憎くなったでしょ? 嫌いになったでしょ?」
膝から崩れ落ち、リーゼルは子供のように泣きじゃくり始めた。
カレヴィは、そろそろと彼女に近付き、その傍らにしゃがみ込んだ。
「……オンニ殿の話を聞いて驚きはしたが、私に君を嫌悪する気持ちなど微塵もない」
彼の言葉を聞いたリーゼルは激しく首を振った。
「嘘よ! カレヴィは優しいから、そう言わないだけって分かってるわ……」
溢れる涙を何度も拭うリーゼルの姿に、カレヴィは胸が痛くなった。
「どうすれば、分かってもらえるのだ」
カレヴィは、リーゼルを抱きしめた。細く柔らかな身体の感触と、鼻をくすぐる甘い匂いが、カレヴィの中に彼女への愛おしさをかき立てた。
リーゼルは一瞬抵抗する様子を見せたものの、カレヴィの胸に顔を埋めると、啜り泣いた。
「……私、悪い人になっちゃうのかな……モルティスみたいに……」
カレヴィの腕の中で少し落ち着いたのか、リーゼルが、おずおずと顔を上げた。
「モルティスと君は別の人間だ。どう生きるかは、自分で決めればいい」
そう言いながら、カレヴィは、ぎこちなくリーゼルの背中を撫でた。
「……庵に戻ろう。ティボーとイリヤも、きっと心配しているだろう」
カレヴィの言葉に、リーゼルは、こくりと頷いた。