想起
「魔法絵」の講義は和やかなうちに終了した。
学生たちが実験室から三々五々去っていく。
講師は助手らしき者と共に、実習に用いた器具や資料を片付けている。
「結構な荷物ですね。お手伝いしましょうか」
カレヴィは、講師に声をかけた。
「いや、君はお客さんだし、そんなことをしてもらっては申し訳ないよ」
「だからこそです。見学者に過ぎない私も実習に参加して『魔法絵』まで作成していただいたのですから」
一旦は断った講師だが、カレヴィの言葉を聞いて少し考える素振りを見せた。
「それでは、その資料を運んでもらえるかな。これで、何度も往復せずに済むよ」
「私も、お手伝いします」
リーゼルも、機材の一部を手に取った。
講師と助手について歩いたカレヴィたちは、「資料室」という札が掲げられている部屋に着いた。
部屋にぎっしりと配置された棚には、本や閉じた書類などが詰め込まれており、本来は作業用と思しき机の上にも資料が積まれている。
「それじゃ、荷物はその辺の机の空いているところに置いてくれ。後で私たちが整理するから」
そう言って机を指差そうとした講師の手が、別の資料の山にぶつかった。
端から安定の悪い状態だった資料の山が、あっけなく崩壊する。
「ああ……だから、もう少し整頓しましょうと言ってるじゃないですか」
しっかり者といった感じの助手が、ため息をついて散らばった資料を拾い集めている。
「すまんすまん、何がどこにあるか、自分では把握してるんだが」
きまり悪そうに言う講師と共に、カレヴィとリーゼルも資料を拾い集めた。
「……あっ」
落ちていた紙片の一枚を手にしたリーゼルが、小さく声をあげた。
「どうした?」
カレヴィは、リーゼルの手にしている紙片を見た。
それは、画質から見ると古い「魔法絵」だったが、映し出されている人物の姿に、カレヴィは息を呑んだ。
「おや、それは、かつてルミナスにいたという天才魔術師、モルティスの『魔法絵』だね」
講師が、事もなげに言った。
「魔法絵」の中のモルティスは、カレヴィの知る彼女よりも若い姿ではあったものの、見間違えようがなかった。
「彼女が、まだ魔法大学の学生だった時に作られた『魔法絵』だ。十代で卒業したというから、その凄さが分かるよね。まぁ、私も生まれる前の話だが」
「モルティスって人、今はエテルナ大陸のタイヴァスで女帝になっているんですよね」
講師の言葉を受けて、助手も言った。
「最初は宮廷魔術師として国に仕えていたのが、先代国王の後添えに入って、王の死後に女帝として即位したというが……状況から簒奪者と言われている。少なくとも、ルミナスの民は良く思っていないな」
「平和を旨とするルミナスとしては、他国を乗っ取ったに等しい人物の出身地と言われれば、いい気持ちはしませんよね。あまつさえ、戦争で他国の領土を奪ったりもしていたようですし」
二人の話を聞いていたリーゼルの顔からは、いつしか血の気が失われつつあった。
不意に全身の力が抜けたかのように倒れかけたリーゼルの身体を、カレヴィは咄嗟に支えた。
「貧血かな? 実験棟の近くに、第三医務室があるから、そこで休ませてあげるといい。君、案内してあげて」
カレヴィは、ぐったりとしているリーゼルを横抱きにすると、講師の指示を受けた助手の案内で医務室へ向かった。
医務室に着いたカレヴィは、寝台にリーゼルを寝かせてやり、傍らに付き添った。
「発熱もないし、特に異常な所見はなさそうです。若い女性に多い立ちくらみでしょう。気分が落ち着くまで、休んでいてください」
常駐しているという治癒術師は、リーゼルを診察し終えると別室へ歩き去っていった。
真っ白ではない、生成り色の壁や天井は、しんと静まり返った医務室の雰囲気を和らげているようだった。
「……ごめんね、カレヴィ。面倒かけて……」
寝台に横たわるリーゼルが、弱々しい声で言った。
「面倒などではない。何も気にせず休むんだ」
「あのね……同じだったの。夢で何度も見た女の人と、あの『魔法絵』に映っていた人が……それに気付いたら、気分が悪くなって……」
カレヴィは、リーゼルの言葉を聞いて目を見開いた。
――そういえば、リーゼルは幼い頃から何度も「銀髪で紫の目の女」の夢を見ていると言っていたが……まさか……
「……夢の中の女の顔は、はっきりとは分からなかったと言っていなかったか?」
「思い出したの。たしかに、あの人だった。どうして、私の夢に……モルティスが出てくるのかしら」
不安げな表情のリーゼルが、涙を溜めた大きな菫色の目で、カレヴィを見上げた。
「私は、モルティスに関係があるの? 彼女は、子供を生んだと聞いたけど……」
「落ち着け、それは四十年以上前の話だと聞いた筈だ。少なくとも、君がその子供ということは、ありえない」
カレヴィは、リーゼルの不安を和らげようと必死だったものの、同時に、彼女の言葉に信憑性があるような気もして、半ば混乱していた。
「帰ったら、イグニス殿に相談してみよう。何か分かるかもしれない」
「うん……でも、なんだか怖いな……」
リーゼルが、おずおずとカレヴィに手を差し出した。
「少し、手を握っていてくれる?」
「君が、もう勘弁してくれと言うまで握っているさ」
カレヴィは、リーゼルの白く華奢な手を、そっと握り締めた。今の彼の中には、ただリーゼルの不安を拭い去ってやりたいという思いだけがあった。
それから、しばらくの間、二人は黙って手を握り合っていた。
「……カレヴィ、ありがとう。もう、起きられそうよ」
リーゼルが、そろそろと身を起こした。
「歩けそうか? 今日は、もうイグニス殿の屋敷に戻ろう」
カレヴィが言うと、リーゼルは、小さな子供のように、こくりと頷いた。