呪い
「剣士カレヴィ様をお連れしました」
小姓は扉を開けてカレヴィに入るよう促すと、自身は昇降機に戻り、去っていった。
去り際に小姓が投げかけてきた、どこか憐れむような視線が、カレヴィは気になった。
室内に入ったカレヴィは目を見張った。
硝子の壁で囲まれた広い室内は、モルティスと同じ匂いで満たされている。
魔法の力で灯る魔導灯から生まれた色とりどりの光が、壁に反射して神秘的な空間を作り上げていた。
部屋の奥に設置された、豪奢な天蓋付きの寝台を目にしたカレヴィは、ここはモルティスの寝所ではないかと思い至った。
「よく来た。近う寄れ」
寝台に腰掛けたモルティスが、カレヴィに手招きした。
女に触れたことのない彼とて、その意味を察するくらいはできる。
その時、カレヴィは硝子の壁の中から何者かの視線を感じた気がした。
だが、彼は今こそ目的を果たす時だと気を取り直し、モルティスのほうへと歩み寄った。
あの魔女に関わるな、お前は天命を全うするのだ――一歩ごとに、養父の遺言がカレヴィの胸に去来する。
――養父は私を思って、死の間際まで口を噤んでいたのだろう。しかし、ここまで来たら、止まる訳にはいかない……!
モルティスから三歩ほど離れた場所で、カレヴィは立ち止まった。
「恐れずともよいぞ」
言って、モルティスはカレヴィの目を見つめた。
彼女に目を合わせられたカレヴィは、軽い眩暈に似た感覚を覚えた。
カレヴィは本能的に危険を感じて、咄嗟に目を反らし、視線を壁に移した。
彼は初めて、そこにあるものが何であるか気付いた。
光の反射で分かりにくいが、よく見ると硝子の壁の向こう側には人影がある。
微動だにせず、ずらりと立っているのは、いずれも見目麗しく、ひだ飾りや透かし編みの入った華やかな衣服をまとう若い男だ。
その様は、硝子瓶に保存される標本を思わせた。
更に、彼らが一様に青い瞳を持っているのを見て取ったカレヴィは慄然とした。
「あ、あれは……」
思わず声を漏らしたカレヴィを見て、モルティスは片方の口角を上げた。
「ただの人間は、年を経れば容色が衰えて醜くなってしまうからな。そうなる前に、『保存』してやるのだ。これなら、いつまでも傍に置けるであろう?」
彼女の言葉を理解するのに、カレヴィは数秒の時間を要した。
――分かってはいるつもりだったが、この魔女は人を人とも思っていない……私のことも、弄んだ後は「標本」にするということか。
「私の目を見よ」
立ち上がったモルティスがカレヴィに近付き、両手で彼の顔を挟む。
強制的に彼女と目を合わせる格好になったカレヴィは、再び眩暈に似た感覚に襲われると共に、目の前にいる彼女を抱き寄せたいという衝動に駆られた。
――これは魔女の力だ……気をしっかり持たなければ!
頭の片隅に残った、一片の冷徹な思考が、かろうじてカレヴィを押し留める。
今しかない――カレヴィが、抱きしめるふりをして、モルティスの首に手を伸ばそうとした、その時。
彼を見つめていたモルティスの目に、怒りと狂気の色が浮かんだ。
「せっかく愛でてやろうと思うたのに、なぜ私を拒むのだ。……私を捨てた『あの人』のように」
次の瞬間、カレヴィの全身が、捻じ切られるような痛みと、焼け死ぬのではないかという程の灼熱感に襲われた。
あまりの苦痛に、さしものカレヴィも耐え切れず、床に倒れ伏した。
「魔術師である私になら、懐に入れば丸腰でも勝てると思うたか。甘いな。私のまとう香りと魔力で、既に、其方の力は半減していたのだ」
モルティスが、声すら出せずに身悶えるカレヴィを見下ろした。
「今後、私に服従を誓うなら、その苦痛を解いてやる」
「ふ……ふざけるな……私も武人の端くれ……誇りというものがある……亡き千人隊長アクセリの子として……」
カレヴィは、途切れ途切れに呟いた。
苦痛に苛まれながら、彼は養父ユハンの今際の言葉を思い出していた。
「この名に覚えがあるだろう……父は貴様の悪事を暴こうとして亡き者にされた……母は夫を亡くした心労で私を産んで間もなく亡くなった……」
二十年以上前、宮廷魔術師として王宮に現れたモルティスは、王を篭絡し、その後妻の座に収まった。
実父アクセリは、モルティスの悪事――病死を装い王を殺めた――の証拠を見つけたと、親友のユハンだけに告げたという。
だが数日も経たないうちに、アクセリは自死する如く高所から転落した。
我が子の誕生を心待ちにしていた彼が、そのようなことをする筈はないと、ユハンのみならず、誰もが思った。
周囲の者たちは、アクセリが謀殺されたのを察しても、モルティスを恐れて何もできなかったのだ。
「おや、其方は身元不明の孤児と聞いていたが……あの男の息子だというのか。そうだ、あの男が余計なことを嗅ぎまわるからだ。其方も、あの愚かな男と同じく歯向かうのか」
モルティスの半ば煽るような口調に、カレヴィは全身の血が逆流するかの如き感覚を覚えた。
「父を愚弄することは許さない……! 両親の仇であり……あまつさえ国を蝕む貴様を討つ……!」
怒りに力を与えられたカレヴィは、激痛に耐えながら身を起こした。
「ほう、苦痛を与えられても、其方の心は折れぬと言いたいのか。親子揃って強情なことだ」
モルティスが、これまでになく残忍な笑いを浮かべ、禍々しい呪文を唱え始めた。
何とか半身を起こしたものの、それ以上動くことの叶わぬカレヴィには、もはや打つ手がない。
――私が愚かだったのか……一矢報いることもできず、ここで犬死にしたのでは、産んでくれた両親にも、育ててくれた養父にも申し訳が立たない……
呪文の詠唱を終えたモルティスが、鋭くカレヴィを指差すと、妖しい紫色の光が彼を包んだ。
雷にでも打たれたかの如き衝撃を受け、カレヴィは意識を手放しかけた。
――……生きている?
一瞬の暗転の後、再び意識を取り戻したカレヴィは、全身を苛んでいた痛みと灼熱感が消えているのに気付いた。
疲労困憊した身体を起こし、彼はふと目の前にある硝子の壁を見やった。
そこに映る、見慣れた筈の自分の姿に、カレヴィは酷い違和感を覚えた。
身体全体が一回り以上小さくなっており、着ている衣服が、だぶついている。
胸元の柔らかな膨らみに気付いた彼は、自らの股間に恐る恐る手を伸ばしてみた。
あるべきものが無い――カレヴィの思考が、しばし停止する。
何度見返しても、硝子に映し出されているのは、男らしい力強さが抜け落ちた代わりに、柔らかな輪郭と艶めかしさを持つ女の顔だ。
「驚いたか。肉体の性別を反転させる呪いだ。女の身体では、武人としても今までと同じ力は出せぬだろう。それでも、まだ強情を張るのか?」
嘲笑うモルティスの言葉を、カレヴィは蹲ったまま呆然と聞いていた。
「私のものにならぬというなら、他の誰にも渡すものか。これから先、其方は女を愛しても愛されることはなくなったのだ。だが、今一度だけ機会をやろう。今後は私に服従すると誓えば、その呪いを解いてやる。どうだ?」
――馬鹿な……これまでに積んできた修練も無駄になったというのか? 武人として十分な務めを果たせなくなった私など、無価値ではないか……
服従を誓えば呪いを解いてやるという言葉に、カレヴィの心は揺れた。
――駄目だ。服従を誓うということは、この魔女の手先になるということではないか。それでは本末転倒だ……だが、否と答えれば、モルティスは私を殺すだろう……
お前は天命を全うするのだ――カレヴィの脳裏に、再び養父の言葉が過った。
彼は素早く立ち上がり、脱兎の如く部屋の扉に向かって走った。
幸いなことに、肉体が女に変化しても、敏捷さは、そのままのようだ。
体当たりで扉を破ると、カレヴィは目に入った階段を駆け下りた。