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取引1件目 拭いきれない絶望の夜

 幻中夢都はオフィス備品の販売、レンタルを行っている会社――株式会社クイックビジネスに勤めている。


 そこの営業部で日々研鑽を重ねてきた。そして今日は、最終試験とも言える実践営業の日だった。

 今まで積み重ねた知識や、これまでに同席させてもらった上司のプレゼンの法則性などを駆使し、実際に客先へ行ってプレゼンする。


 同席してくれた上司から及第点以上をもらえれば、俺は晴れて一人前の営業として認められ、給料が上がる。


 そんな最終試験は、なんとか及第点で受注まで持っていけた。


「よくやったな、幻中くん。今回の成果は上席に報告済みだ、来月から昇給おめでとう」

「あざす、百鬼さんの指導のおかげっす」

「私はそんな砕けた敬語を教えたことはないんだがな」


 ジトっと俺を見るこの女上司――百鬼天音。


 艶のある黒髪をシンプルにまとめるその姿は、小顔だからこそより映える。


 誰もが一目を置くような美形で、立ち居振る舞いもとても優雅だが、鬼のようにスパルタで厳しい。


 だが百鬼さんにいくら注意されても、この口調はなぜか直る気配がない。

 が、一応取引先では丁寧に振る舞えている……はず。だからま、いっか。


「ちょうどいい時間だ、ご飯でも食べて帰ろうか」

「はい、そうすね」


 現時刻は定時退社の時間を一時間程度すぎた頃。

 当然直帰する予定だったため、時間に余裕がある。そして明日は休日、つまりサシ飲みのお誘いだろうな。


「幻中くんと飲むのは新歓以来か」

「そうすね、サシでは今日が初めてですけどね」

「確か酒豪だったな? 私も強い方でな、今日は久しぶりに楽しめそうだ」

「お手柔らかにおねしゃす」


 心の底から嬉しそうに言葉を弾ませる百鬼さんは、いつものクールなポーカーフェイスをクシャリと壊して笑う。


 こういうとこずるいんだよなぁ、この人。


 細い腕につけられた腕で時間を確認する百鬼さんは、「気になっている店があるんだ」と言って俺を導いた。


「一人ではどうしても行きづらくてな」

「百鬼さんそういうの気にするんすね」


 人の目なんて気にせず、堂々と入りづらそうな見せ物入る人だと思っていたから、少し意外な一面を知れた気がする。


「私だって一人の女だ、無闇に酔っ払いの群れに入って行くのは避けたい」

「へぇ」


 どう反応するのが正解だろうか。百鬼さんはたとえどんな酔っ払いが絡んできても冷静に対処しそうなんだよな。


「店の場所どこだったかな」

「調べましょうか?」

「いやいい。大丈夫だ、ありがとう」


 言うと百鬼さんは、自らのカバンから手帳を取り出してパラパラとページを進めて行く。

 仕事で使う黒のシンプルなものではなく、青のカバーが少し緩い印象を与える手帳。百鬼さんはスマホより手帳を溺愛している。


「スマホの方が便利じゃないすか?」

「君はまだまだ分かっていないな、手帳ほど優れたものはない。キチンと記していれば、ほら。すぐに知りたいことが分かる」


 手帳に店の場所を見つけた百鬼さんは、パタンとそれを閉じて俺を導く。

 スマホの方が絶対優勢だと思うけどなぁ。


「早く向かおう。楽しみなんだ」

「職場以外だとニッコニコっすね百鬼さん」

「プライベートでは張り詰める必要がないだろ? 当然表情筋は緩む」


 ビジネスとプライベートをしっかりと切り分けることが出来る人間は優秀だとはよく聞く。まさに百鬼さんは優秀そのものだ。


「かっけぇ。一生ついて行きます」なんてふざけながら、先導するように歩く百鬼さんの後を追っていると――


「――百鬼さん!」


 タイヤを削る摩擦の音と、ガードレールが役目を全うしきれず粉砕する音が周囲に絶望を与えた。


「選択肢を見誤るな幻中くん!」


 減速することなく歩道に侵入する車から守るために掴んだ百鬼さんの腕は、百鬼さんによって強く振り解かれる。


「どうして……!」


 俺の目には、百鬼さんが自ら車に突っ込む姿が見える。

 仕事に疲れたから……? 自殺志願者だったのか……?

   

 いや違うだろ。俺の的外れな推理は、幼い少女の泣き声でかき消される。


「私なら大丈夫だ! 君と飲みに行く約束を反故にはできないからな!」


 そういう百鬼さんの表情には、死ぬことなんて一切恐れていないような曇りなき笑顔だった。


「ふぇ……?」


 気の抜けるような声で驚く少女は、俺の腕の中で涙を流している。

 正直俺も驚いている。助けるためとはいえ、普通投げるか? いや、人間って投げれるもんか?


 少女を受け止めた直後、百鬼さんは周囲から好奇の目に晒されながら体を強く宙に舞わした。


「百鬼さん!」

   

 ほんの一瞬。

 ほんの一瞬俺が状況を飲み込めていれば。

   

 ほんの数ミリ。

 ほんの数ミリ俺の手が長ければ。

   

「百鬼さん! 百鬼さん! 目を開けてくださいよ!」


 ほんの少し。何かがほんの少し足りないだけで、人はこんなにも容易く絶望に身を焼かれる。


 百鬼さんの腕を引いて、こっちへ避難させれていれば、百鬼さんの体に車が当たることはなかった。

 子供が危険に直面していなければ、吹き飛ばされ壁に打ち付けられることもなかった。


 俺が……しっかりこの手で百鬼さんを掴み続けることが出来ていれば……。一度掴めた手を離しさえしなければ……。


「頼むよ百鬼さん……俺はまだまだ未熟なんだよ……百鬼さんがいなきゃもう育たねぇぞ? なぁ……頼むよ……」


 吹き飛ばされ、呼吸をするのさえ精一杯な百鬼さんに俺の声が届いているかは分からない。


 痛々しい傷がたくさんついた百鬼さんの手を優しく握り、傍観者が呼んでいた救急車の到着を待つことしかできない。


「やば……がち事故じゃん」

「あの男の人ガチ泣きしてる。彼氏かな」


 響き渡る喧騒。

 誰かの不幸も、誰かにとってはエンタメになる。そんな現象を俺は今目の当たりにしている。


 その証拠に、無数のシャッター音やフラッシュが俺と百鬼さんを囲んでいる。


「見せもんじゃねぇぞ……」


 俺の小さな声は当然傍観者に届くことなく、街の喧騒に掻き消され虚しく散ってゆく。

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