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正しい夢

作者: 川島 銕矢

 新しい朝の光が、カーテン越しに部屋を照らしている。

 スマホのアラームで起こされたカズミは、あくびを一つするとカーテンを開け、快晴であることを確認した。

「ようし、今日も元気に行きますか!」

 気合いを入れたカズミは顔を洗い、服を着替え、食卓へと向かう。

「おはよう」

「あら、おはよう。よく眠れた?」

 カズミが挨拶すると、母が笑顔で答えてくれた。

「まあまあ眠れたかな。それよりヨシキまだなの? いつも遅いなあ」

「あの子には、あの子のペースがあるからねえ」

 ヨシキとは、カズミの二つ歳下の弟である。カズミよりも少しルーズな性格だ。大方夜遅くまでテレビゲームでもしていたのだろう、未だに寝ていると見える。起こしに行こうかとも思ったが、別に小学生でもないんだし、やめて朝食をとることにした。

 カズミの朝食はいつも、ご飯、味噌汁、納豆と決まっていて、そこにもう一品母の手料理がプラスされる。

 ほうれん草、菜の花、時には煮豆。いつもご飯が進むように考えて作ってくれる母の手料理が、カズミは大好きだ。

 カズミが朝食を丁度終えた頃、階段を降りる音が聞こえてきた。ヨシキが起きてきたようだ。

「ふう、おはよう」

「ヨシキ遅いよ」

 眠そうに挨拶するヨシキに、カズミは檄をとばした。

「まだ大丈夫だよ」

 確かにまだ時間はある。だがヨシキはまだ着替えてもいない。よくこんなので志望校に受かったなと、カズミは疑問に思っている。

 ヨシキの朝食はいつもシリアルだ。牛乳をかけるだけで食べられるという手軽さは、ヨシキに向いている。

 朝食の準備をしながら、ヨシキはテレビを付けた。丁度ニュースで、最近起きた失踪事件のことをやっている。

 この事件は、カズミが通っている高校でも話題になっていて、カズミも気になっているところだった。

「親は嘸かし心配でしょうね」

 一緒に見ていた母が言葉を漏らした。

 そしてカズミも「どんな気持ちかな。多分じっとしていられないだろうね」と言葉をかけた。

「あたしにはもうアンタ達だけなんだから、いなくなんないでよ」

「心配しなくても、そんなことなんねえよ」

 ヨシキは食べながらも聞いていたようだ。

「そうだよ母さん、大丈夫」

 カズミの家には、母と、カズミと、ヨシキの三人だけだ。

 父はいない。死別している。

 カズミが十一歳の時だった。

 死因は胃癌だった――見つかった時には他に転移しており、末期という状態だった。薬で進行を遅らせることしか出来なかったが、父はあまりめげなかった。仕事もいつも通り頑張り、カズミ達ともなるべく笑顔でいるよう心掛けた。

 そんな努力家だった父が、カズミは誰よりも好きだった。父が死んだ日、カズミは母とともに泣いた。母はこんなに泣くことがあるのかというぐらい泣いていた。胸にぽっかりと穴が開いたような喪失感。母はこれから、カズミとヨシキ二人を自分一人で育てて行かなければならないという不安で一杯だったろう。そしてなにより、もうこれ以上なにも失いたくないと思っているに違いなかった。だからこそ、どんな形であれ一人の人間がいなくなったという家族の哀しみに、共感しているのだった。

 ――そしてカズミは、思い出して時計を見た。

「あっ、あたしそろそろ行くね」

 鞄と弁当を持ち「行ってきます」と言うと母が「気を付けて」と答えてくれた。

 カズミは最後に「ヨシキも遅れちゃダメよ」と一言。

「だから大丈夫だって」

 ヨシキも素っ気ない。だがこれも、彼の良いところである。


 家を出たカズミは、最寄り駅まで歩き出した。

 風が冷たく感じる。そういえば先週、木枯しが吹いたばかりだ。スカートを穿いている女子には、厳しい季節がやって来る。そもそも女子はスカートだと誰が決めたのかわからなかったが、カイロやハイソックス、あとマフラーと手袋も用意して、冬支度せねばと思った。

 駅に着いて電車に乗り込んだ頃、同級生のリエコからLINEが来た。

 リエコ【おはよう 今日もいい天気だね、今日体育あるよ 嫌だなぁ】

 カズミ【おはよう、少し寒くなってきたね またお昼に図書室で】

 カズミとリエコは、必ずと言っていいほど図書室で弁当を食べる。時には後輩などを呼んで四~五人で食べることもあるが、リエコと二人だけの時のほうが多い。

 二人は友達以上の掛替えのない心友だ。リエコとの出会いは小学生の時。カズミが十一歳で父を亡くした後の頃だった。気落ちしているカズミにそっと近づき、優しく声を掛けてくれたのがリエコだった。

「しっかりと前を向いて、亡くなったお父さんの分もちゃんと生きて行こう」

 リエコの言葉に、初めはあまり反応しなかったカズミだったが

「あたしも……お父さんいないんだ」

 この言葉で、先が開けたような気がした。

 リエコも八歳の時、父親と死別している。

 死因は交通事故だった――相手は飲酒運転者、しかもひき逃げだ。犯人は捕まったが、裁判で死刑どころか無期懲役にすらならなかった。

 当時、父は仕事で帰りが遅かった。家にいるリエコ達に電話を掛けてこう言った。

「すまん遅くなって、これから帰るから。リエコとハルカはいい子にしてるか? ちょっと変わってくれ」

 ハルカとは、リエコの四つ歳下の妹だ。その時二人は電話越しに元気な声を聞かせた。

「パパ、気を付けて帰って来てね、ちゃんと待ってるから」

「そうかそうか、じきに帰るから、いい子で待ってるんだぞ」

 これが最後の会話となった。この時の時刻は、夜の九時半を回っていたとリエコは記憶している。いつまで経っても帰ってこないので、警察に連絡して事件が発覚した。

 何の罪もない父が死に、加害者はのうのうと生きている。他に悪いことをしている人はたくさんいるのに、なぜウチが、なぜ自分たちがこんな目に会わなければならないのか、リエコは悔しかった。まだ四歳だったハルカに関しては、父との記憶など殆どない。物心ついた時から、父はこの世にいないという現実を突きつけられ、生きてきた。

 しかし、どんなに悔いたところで犯人に報復することも出来ず、父が帰ってくるわけでもない。次第にリエコは現実を受け入れなければならないと心に決めて、前を向くようになっていった。そして母を励まし、ハルカを励まし、父の分まで懸命に生きていくことを、胸に誓ったのだった。

 カズミもリエコには随分と励まされた。リエコがいなかったら、今の自分はないと本人も思っている。同じ中学に通い、今では同じ高校にも進学して、共に勉学に励み、大人になっても友達でありたいと思っている。

 ――電車の後は歩いて登校する。十五分も掛からずに着くので、それほど苦だとは思わない。

 カズミが最寄り駅から歩いていると、校門に入った辺りで、いきなり誰かが後から飛び掛かってきた。

「カズミおっは~!」

 びっくりして振り向くと、リエコだった。

「もうリエコ、びっくりさせないで! 好きだね、そういうの」

「いやぁ、ごめん、ごめん」

 リエコはニヤついたままだ。

 下駄箱で靴を履き替えた時、カズミはふと気になってリエコに尋ねた。

「ねぇリエコ、今日は朝食摂った?」

 カズミが時々気になることだった。リエコは時間がない時など、度々朝食を摂らないことがある。

「ううん、食べてない」

 やっぱり。

「そんなのダメよ、判断力や集中力に関わってくるんだから」

「大丈夫よ。昼にしっかりチャージするから。それじゃ、昼休みに」

「はい、はい」

 頑張ってね、リエコ。



 今日のお昼はリエコと二人きり。話すことはいつも、たわいもない世間話だ。カズミは今朝ニュースで見た失踪事件のことを切り出した。

「ねぇ見た? 失踪事件のニュース」

「ああ見たよ。最近多くない?」

「うん、またかって感じ。なんか誘拐とかかなあ」

「その可能性も否めないね」

「なんか怖いなぁ。もしそうだったら、こっちまで来るかもしれないじゃん」

「まぁそんな過度な心配いらないと思うけど」

「でも家族は心配だろうね」

「だろうねぇ。あたしなんかこれ以上誰か失ったらおかしくなるよ」

「あたしも」

 ここでリエコは話題を変え、カズミに質問した。

「ところでカズミさぁ、最近見てる?」

「見てるって何?」

「ほら、正夢」

「ああそれ? うん見るよ。最近も見たかな」

「最近っていつ?」

「えっとね……、先週だったかな、電車乗ってる時」

「相変わらず多いんだね、一つの才能だよ」

 夢で見たことが現実に起こる、正夢。カズミはそれをよく見る。

 幼い頃はそれほどでもなかったが、十代に入ったぐらいから頻度が増していった。原因ははっきりわからなかったが、父を亡くしたことによるショックかもしれないと、自分で考えるようにしている。今では月に一回か二回というペースで見るようになった。これは大分多い。

 このことは、家族やリエコに何度か相談したこともあった。しかし、家族やリエコも確かに正夢を時々は見るが、カズミほどではない。カズミ自身、一時期は自分はどうなっているのか不思議に思うほど、正夢は奇妙な体験なのだ。

「別に要らないけどね、こんな能力。大して意味ないし」

 カズミはぼやき始めた。透かさずリエコがフォローする。

「でもカズミって頭いいじゃんか、それで他の人とは感覚が違うのかもよ」

「ありがとうリエコ。そう言ってもらえるとほっとする。でも頭いいなんて思ってないよ」

「とか言って、この前のテストも良かったんでしょ」

「それはリエコも同じでしょ」

「まぁね」

 カズミは謙遜しているが、リエコの言う通りだった。

 カズミの成績は学年でもトップだ。しかしたかが成績だ、そんなことで正夢を見易くなるなど、聞いたこともない。


「ごちそうさま」

 二人一緒に手を合わせて昼食は終わった。

「さて、今日は何を読むかな」

 誘われるようにカズミは本を探し始める。

 カズミは自他ともに認める読書好きである。今日も毎日恒例の「食後の読書」をするつもりだ。毎回図書室で昼食を食べるのも、この目的があるからである。

 自分の部屋にも沢山の本が並んでいる。その数なんと二千冊以上。母親からも度々片付けるように言われているが、なかなか暇がない。リエコも、元々読書好きではなかったが、カズミの影響で読書好きになった。

 カズミは地図を手に取った。それは時事解説がついている地図だった。世界地図と一緒に、社会情勢のことも載っていて、なかなか勉強になる代物だ(因みにカズミは、地図を見ていると、なんだか旅行に行ったような気分になるちょっと変わった性格をしている)今日はこれを読むことに決めた。

 カズミは読書をしていて時々思うことがある。

「読書が出来るのは幸せだ」ということを。

 世の中には恵まれない人々が大勢いる。経済的事情で読み書きが出来ない人や、戦争難民で本に触れることすら出来ない人など、世の中には溢れている。

 書を読むということは、知識がその分増えているということだ。

 人生経験の中でそれがないということは、不幸なことではないだろうか? とカズミは自問したことがあった。「本を開けば世界が変わる」ということを、未だに知らずにいる子供たちが沢山いることにカズミは胸を痛めている。


 机に戻ると、リエコは既にどうやら川端康成? の本を開き、目を走らせている。カズミもリエコの前に座り、本を読み始めると、いきなりリエコが口を開いた。

「ねぇカズミ、帰りにウチ来ない?」

「えっ、いいの?」

 唐突に聞かれたので、カズミは少し言葉が詰まった。

「別にいいよ、いつ来てくれたって。ハルカも久しぶりに会いたがってんだよね」

 カズミは背凭れに上半身を委ねながら

「ハルカちゃんかぁ、そう言えば、半年ぐらい会ってなかたっけ」

 カズミが小学生の頃、リエコの家に何回か遊びに行ったことがあり、その時ハルカとも初めて出会った。人見知りしない性格からか、ハルカもすぐに懐いてくれ、仲良くしてくれた。最後に会ったのは、カズミが高校三年生、ハルカが中学二年生に上がった春頃だ。それから早いもので、今はもう晩秋も近い。

「それじゃあ、お邪魔しちゃおうかな」

 カズミもまた「久しぶりに会いたい」という気持ちになり、話は決まった。

「よし、じゃあ決まり。カズミ、今日一緒に帰ろう」

 リエコが言うのと同じぐらいのタイミングで、チャイムが鳴った。昼休みが終わったのだ。

「じゃあカズミ、また放課後に」

 リエコは本を片付けに立ち上がった。カズミもそれに続く。

「うん、また連絡するね」

 二人は図書室を後にした。



 放課後。下校時刻――

「もしもしリエコ? 今どこ?」

 下駄箱付近から、カズミは電話を掛けた。部活に行く者、下校する者、いろんな人間が行き交う中で、リエコ一人を見つけるのは至難の業である。

 すると不意に背後から、低く不気味な声が飛んできた。

「あなたの後よ……」

 カズミがびっくりして振り向くと、声の主はリエコだった。

 普段歌の時は、ソプラノを担当する彼女が、こんな声も出せるというのにもびっくりした。

 リエコが嬉しそうにニヤついている。余程カズミのリアクションが良かったのだろうか。

「よし、それじゃ、あたしの家まで行きますか」

 リエコはニヤついたまま歩き出した。

「あっ、ちょっと、驚かしたの謝ってよ」

「バスに遅れちゃいますよ~」

 カズミの通学は電車だが、リエコはバスを使っている。二人とも帰宅部なので、授業が終われば帰るだけだ。

 二人でバスを待つ間に、カズミは今日遅くなりそうなのをヨシキにLINEで連絡した。(向こうからは、了解と返事)暫くしてバスが到着し、リエコが先に乗り込んだ。カズミは整理券を受け取り後に続き、後ろの席が空いていたので二人で座った。

 十分ほど経っただろうか。カズミが妙な質問をする。

「ねぇ、リエコはさぁ、このまま何もかも捨てて、どこか遠くへ行ってみたいって思ったことある?」

 リエコは、こういうことを聞かれるのは初めてだったので少し考え込んだ。

「う~ん……まぁ旅行にはいろいろ行ってみたいと思うけど、何もかも捨ててっていうのはなんかちょっと違う気がする。なんで? なんでそんなこと聞くの?」

 カズミは真顔になった。

「いやさぁ、毎日同じことの繰り返しでしょ。あたしリエコと違って電車だから、長い線路見てると、時々なんとなくそういう気分になるんだよね」

「カズミって昔からそういうとこあって面白いよね」

 リエコはくすくすと笑った。

「でも、そういう感覚って大事だと思うよ。カズミの個性って言うのかな、違う角度から物を見てるっていうか、いいことだと思う。でも本当にどっか行かないでね」

 今度はカズミが失笑した。

「ありがと。さすがにそこまではないと思う」

 そんな話をしている内に、リエコの家の最寄りのバス停に着いた。

 二人はバスを降り、そこからまた十分ほど歩く。

 リエコは元々、カズミの家の近くに住んでいたのだが、生活費のためと、母が違う町に住みたいとの意思で家を売却。リエコが高校生になった頃、市外へ移り住んできた。

 リエコの家は、少し年季の入ったアパートで、家と言うより部屋なのだが、家賃はお手頃で、間取りも狭すぎず結構気に入っている。

 玄関の鍵を開けて「ただいま」と言ったが返事がない。母もハルカも、まだ帰っていないようだった。

 カズミは「お邪魔します」と言ってから、真っ先に仏壇に向かい手を合わせた。こうやってリエコの父にも挨拶するのが、決まり事のようになっている。リエコもカズミの家に来た時は、同じようにしてくれる。お互いに、亡くなった人を尊ぶ気持ちは同じだ。

 それから食卓でくつろぎ、二人で話し込んでいる最中、玄関から鍵を開ける音がして、視線を向けると、外から背の低いセーラー服の少女が入ってきた。

「ただいま」

 少女は足元の靴が一足多いので、少し眉間に皺を寄せたが、奥にいるカズミを見て満面の笑みに変わった。

「あっ、カズミ姉ちゃん久しぶり!」

 カズミも少女に対し、笑顔で返す。

「ハルカちゃん久しぶり、びっくりしたでしょう」

 ハルカは急いで靴を脱いでカズミにすり寄った。

「なんで、なんで? いきなりじゃん」

「ちょっとリエコに誘われてね」

「あんた会いたがってたでしょ、だから誘ったの」

 奥からリエコが、お茶とお菓子を持ってきた。

「でもホント久しぶり。良かった、これで勉強見てもらえる」

 ん? カズミはハルカの言葉に疑問を持った。

「えっ、リエコ、普段見てないの?」

 リエコの発言を遮るように、ハルカが割って入る。

「全然ダメ。お姉ちゃん自分のことで精一杯みたいで、ちっとも見てくんないんだよね」

「それは悪うございましたね」

 リエコも悪態をつく。

「あんただって遊んでばっかいるじゃんよ」

「まあまあ、ケンカしないの」

 カズミは仲裁に入った。せっかく遊びに来たのに、姉妹喧嘩をされてはなんのために来たのかわからなくなる。

 と、いうことで、早速勉強を見てやることにした。二人で食卓より北東に位置するハルカの部屋に行き、リエコ一人が取り残される。

「あたし一人ですか……」

 お菓子を食べながら、リエコは寂しそうに呟いた。


 カズミはハルカの勉強を見てやったり、三人でゲームをしたり、時間も忘れて遊んでいると、やがて日も暮れ、すっかり辺りは暗くなった。

「あたし、そろそろ帰るね」

 カズミがこう言うと、ハルカは「え~、もうちょっといいじゃん」と駄々こねたが、

「ハルカあんたねぇ、またいつでも会えるんだから、カズミのこと困らせないの」

 リエコもハルカを諭し、三人の楽しい時間はあっという間に終わった。

「それじゃあ二人とも、また今度」

「帰り道わかる? 送ってこうか」

「ううん、大丈夫。ありがと」

 リエコは気を利かせたが、カズミは一人で帰ることにした。ハルカがカズミを名残り惜しそうに見ている。

「じゃあハルカちゃん、またね」

「カズミ姉ちゃん、今度いつ会えるかな」

「もう、そんなに残念がらないで、また近い内に会いましょ、それじゃね」


 カズミは帰りの電車内で、少し考え込んだ。

 リエコの家を出て、バスと電車を乗り継ぎ、もう一時間弱も経つ。時計を見ると、七時半を過ぎていた。このまままっすぐ家に帰るかどうか迷っている。なぜなら、本屋へ寄る予定があったからだ。リエコ達との遊びを早々に引き上げたのも、この理由があったからである。

 カズミの本屋通いは、もう日課のようになっていた。

 カズミは読書も好きだが、本屋の雰囲気も好きだった。あの本が一杯並んでいる感じ。多少立ち読みしていても、文句は言われないし、自分が落ち着く憩いの場だ。将来は本屋に勤めるのも悪くないとも思っている。

 多少遅くなっても大丈夫だろう……。

 電車に揺られながら考えたが、やっぱり行くことにした。自分の趣味にかける時間は、惜しまないのが人間というものである。しかし時間に余裕もないので、十五分で済まそうと考え、いつもの駅で降りた後、最寄りの本屋まで一気に駆け出した。


 本屋に着いたカズミは、少し上がった息を整えながら、どの本を読もうかと店内を巡った。あまり時間がないので悠長なことはできない。暫くしてカズミの目に止まったのは、ある科学雑誌だった。

「次元とは何か」

 手に取り少し読んでみる……。

 面白そうなので買うことにした。普段から物理学には興味がある。宇宙関係のことも好きだし、今のこの現実の世界は、次元とどう関係するのか気になっていた。

 カズミは会計を済ませると、足早に帰路についた。



 カズミが自宅前まで着いたとき、向こうから歩いてくる人影があった。目を凝らして見ると、なんとヨシキだった。こんな時間までいったいなにをしていたのだろう? 時刻は八時を優に過ぎている。

「あっ、姉ちゃん、偶然だね」

 先に声をかけたのはヨシキだった。

「どうしたのヨシキ、こんな時間まで。先に帰ってると思ってた」

「いやぁ、ちょっと……デートでさ」

 照れ笑いをしているヨシキを見て、カズミは(ああ、なるほど)と思った。

 実はヨシキには恋人がいる。以前紹介してもらったが、なかなか可愛く、活発で、明るい良い子だった。ただ、一つ納得できないことは、こんなずぼらなヨシキに恋人ができて、なぜ自分のところには寄ってこないのだろうということだ。少し気難しすぎるのだろうか。

「姉ちゃんはなに? また本屋? 熱心だね」

 ヨシキが茶化すように言ってきたので、カズミは少しイラッときた。

「あんたも少しは興味持ちなさいよ」

「因みにどんなの? 見せて」

 ヨシキは奪い取るように本の中身を見る。

「科学雑誌か……次元とは何かねぇ……なかなかいいんじゃないの」

 言いながら本を突き出し返してきた。

「あんた本当にそんなこと思ってる? まぁいいや、取り敢えず上がろ」

 玄関の鍵はカズミが開けた。

「ただいま」

 挨拶するものの、こちらもリエコの家同様返事はない。母は生活費を稼ぐため(リエコの母も同じだと思うが)夜八時を過ぎても働いてくれている。こんなことは日常茶飯事なので、二人とも慣れっこだ。


 ということで、今日の夕食はカズミが作ることになった。後の洗い物はヨシキの担当だ。カズミが冷蔵庫の中を物色すると、じゃが芋、人参、玉葱、糸蒟蒻、牛肉がある。肉じゃがが出来そうだ。

 カズミがパパッと作って、ヨシキと一緒に夕食を摂っていると、そこへ母が帰ってきた。

「ごめん、ごめん、遅くなって、あら、もう済んじゃった?」

 カズミは箸を止め、笑顔を見せる。

「ううん、今食べ始めたとこ。母さんも一緒に食べよ」

 カズミは今日、ハルカに会いに行ったことや、ヨシキがデートに行ったらしいことなどの話を弾ませていった。カズミはこの団欒が大好きだった。本当は父が居てくれれば最高なのだが、この三人の時間だけでもとても大切に感じている。母はまだ死ぬような歳ではないが、いつお別れが来るかわからない。ここまで女手一つで育ててくれた恩を、いつか返したいという思いを胸の中にしまい、三人で笑い合った。



 先にお風呂を済ませたカズミは、自分の部屋に戻り、今日買ったばかりの本を読むことにした。

「次元とは何か」

 読書家のカズミにとって、新書を買った時ほどワクワクするものはない、と言っても過言ではない。

 ページを捲るとまず最初に「次元の科学を徹底的に紹介します。どうぞお楽しみください」という文言から始まった。


 まず我々がいるこの世界は、三次元だというのはもう常識であるが、次元というのはまず「零次元」から始まる。どの方向にも動くことができない「点」から次元は始まるのだ。そして一次元の「線」二次元の「平面」三次元の「立体」と数が増えていく。そしてなんと次元の概念は、紀元前からあるようだ。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは言った「立体は完全であり三次元を超える次元は存在しない」と。のちの幾何学者ユークリッドはそれに習い、書物「原論」で、次元をこう定義した。

 立体(三次元)の端は面(二次元)である。

 面(二次元)の端は線(一次元)である。

 線(一次元)の端は点(零次元)である。

 一見単純だが、この理論はなんと二千年以上に渡って人類に支持された。だが現在では四次元という概念がある。これはいつ生まれたのだろう。

 それは十九世紀のフランスの数学者、アンリ・ポアンカレが始まりであった。

 彼はユークリッドの定義を逆手に取り、次元を次のように定義し直した。

 端が点になるものを一次元と呼ぶ。

 端が線になるものを二次元と呼ぶ。

 端が面になるものを三次元と呼ぶ。

 端が立体になるものを四次元と呼ぶ。

 このようにポアンカレの考えでは、低い次元から高い次元へと昇っていく。この方法であれば、いくらでも多くの次元を定義でき、ユークリッドの考えに勝るのである。つまり、幾何学で無限の次元を表すことが出来るようになったのだ。これにより、幾何学は大きく発展したと言われている。

 それにしても、四次元空間とはなかなか理解しにくいものだな、とカズミは思った。だがそれは、我々が三次元の存在だからということに他ならない。つまり、低い次元から高い次元への理解は、無理だということだ(想像することはできても、解明することは不可能)

 だが逆に、低次元で不可能なことでも、高次元なら可能になる。例えば平面の檻に入ったウサギを描いたとする。そしてその檻からウサギを出したくても、二次元では四方を囲まれているため、出すことはできないが、三次元の我々ならば、高さを用いて上に摘まみ上げ、出すことが出来る。これと同様、三次元で檻に入っているウサギを檻に触れずに出すには、どんな方法かはわからないが、四次元の力なら可能だという理屈になる。


 ――面白い。カズミは時間も忘れてページをどんどん捲っていった。この若さ故に未開拓の世界が拓かれ、無知だったところに新しい知識が吸収されていく感覚。これぞ読書の醍醐味だ。

 だがここで、カズミの頭に疑問符が浮かんだ。

 低次元で不可能なことでも、高次元なら可能……。

 この時カズミはハッとした。高次元と低次元は常に「表裏一体」で、高次元が低次元を生み出しているとは考えられないだろうか?

 不意にTVゲームをしている自分やヨシキの姿が目に浮かぶ。画面を見つめ、コントローラーを持ち、二次元を操作する三次元の存在……。もしかすると、三次元が二次元を操っているように、三次元も四次元によって操られているのかもしれない。まるで漫画やTVゲームのように……。

 いろんな考えが、頭の中を駆け巡る。

 カズミの脳裡に頻繁に浮かぶのは、あの正夢だった。人間が正夢を見るというのは、第六感のような超感覚的なものが働いて、四次元によって定められた運命を垣間見ているのかもしれない。

 だがしかし、カズミがよく正夢を見るのはなぜだろう……。リエコの言う通り、他の人と感覚が違うのか、それとも父との死別のショックが原因なのか、それはいくら考えてもわからなかった。

 カズミはふと時計を見た。なんともうすでに日付が変わっているではないか。

 カズミは本を閉じ、日課のストレッチをしてから床に就いた。


 その夜――

 カズミの脳裡に奇妙な現象が起きた。

「……さん。……カズミさん」

 誰かの呼ぶ声が躰中を包み込む。

「ん……? 誰なの?」

「私は異次元管理局の者です。お迎えに参りました」

「え? 異次元管理局? なにそれ。お迎えってどういうこと?」

「残念ですが、あなたは処分の対象となってしまいました」

「だからそれどういう意味よ? あなた、なにがしたいの?」

 カズミの躰は眠っているのだろう。金縛りにあったように動かない。

「カズミさん、説明しますので落ち着いてください。我々は異次元空間の真実を知ってしまった者を、処分する役割を担っています。高次元が低次元を操っているという異次元空間の真実に、あなたは気が付いてしまった。このことを放置すれば、時空に歪みが生じ、世界は破滅へと向かってしまいます。ですから、あなたを処分しに来た次第です」

 この人は一体なにを言ってるの? 処分ってどういうこと? 異次元空間の真実?

 カズミは落ち着こうとしているが、なかなか頭の中の混乱は治まりそうにない。そしてこの状況を理解するのにも時間がかかった。だが、この異次元管理局なる者の言っている真実について、自分が考え気付いたことが、徐々に思い起こされていった。

「真実って、あれが真実なの? 四次元が三次元を操っているというのが? それにあたしは気が付いた……。そんな……信じられない……!」

 カズミは驚きを隠せないでいた。それと同時に、この使者が言う処分という言葉が妙に引っかかり、恐る恐る尋ねた。

「それで……あたしはどうなるの?」

 使者は答える。

「はい。あなたを処分するために、二つの選択肢を選んで頂きます。まず真実を知ってしまったあなたの、今迄の記憶をすべて消し『記憶喪失者』となって現世に留まる。もう一つは、この現世から消え『行方不明者』となって、我々に同行するかです。それ以外に道はありません」

 なんだそれは!?

 カズミは絶望的な気持ちになった。どちらも受け入れるには、難しすぎる内容だ。

「なにそれ、ふざけないで! 納得できるわけないでしょ! もう嫌っ、こんな夢早く覚めてよ!」

「カズミさん。この状況を理解できないのは大変よくわかります。しかし残念ですが、これは夢ではなく現実です。勿論すぐにとは言いません。今からあなたに十日という時間を与えますので、それまでにお考え下さい。また数日後に様子を見に来ますから、そのつもりで。ではご機嫌よう」

 それっきり、使者の声は消えた。

 カズミは飛び起きた。すごい寝汗を搔いている。緊張していたのか、全身がもの凄くしんどい。

 部屋から出て、台所の水を飲む。

 一体、あれなんだったんだろう……。

 こんな体験は、カズミにとって初めてだった。

 夢だったのだろうか? 夢であってほしいと願う。

 使者の声が耳から離れない。

「記憶」を消すか「姿」を消すか、二つに一つ……。

 十日後か……。

 カズミは溜息を混ぜながら呟き、重い足取りで部屋へと戻って行った。



 翌日、食卓にて――

「……ちゃん。お~い、ねえちゃん」

 カズミがヨシキの声で我に返った時、ヨシキはカズミの顔の前で手を振っていた。

「あっ、ごめん、なに?」

「どうしたよ一体、なんかぼーっとして上の空だけど」

 その時カズミは、ろくに食事も進んでいないことに気が付いた。

 急いで掻き込む。

「熱は……ないみたいね」

 母がカズミの額に手を当てる。

「いろいろ頑張り過ぎてんじゃないの?」

 ヨシキも流石に心配そうに様子を窺った。

 なにせカズミが、こんな風になるのは初めてのことだったので、二人とも不思議がっていた。

「調子悪かったら休みなさいよ」

「ううん、ごめん、ありがと。ちょっと考え事してただけだから、へへ」

 あまり不安にはさせられない。そんな思いがカズミの中にはあった。

 カズミの脳裡は昨晩のことで支配されている。

 あれをなんと説明すればいいのだろう。なんと話を振り向ければいいのだろう。いっそのことなにも語らず、終わってしまえばいいのだろうか……。

 ふと時計を見た。なんと電車を一本乗り損なってしまっている。時間を忘れてしまっていたようだ。

「えっ、もうこんな時間! あたし行かなきゃ!」

「あっ、いいわよ、後片付けとくからから」

「ごめんね母さん、お願い!」

 カズミは急いで鞄と弁当を持ち、玄関へと駆けて行く。

 その後をヨシキが追った。

「あっ、姉ちゃん待って、俺も行くよ」

「二人とも気を付けるのよ、しっかりね」

 母は本当に心配そうな眼差しで二人を見送った。



 駅まで歩いている最中でも、カズミの頭の中は一杯だった。後から付いて来たヨシキが、なにか喋っているようだったが、あまり耳には入って来なかった。

 下りの電車を利用するヨシキと、駅のホームで別れ、上り電車に乗り込むカズミ。電車に揺られながら、昨晩のことを思い出す……。

「記憶喪失者」となって現世に留まる……。

「行方不明者」となって異世界に行く……。

 どちらを選んでも、みんなとさよならすることになるの……?

 カズミの葛藤は続いた。

 しかし待てよ? 夢なのかもしれない。

 異次元の真実? そんなものが本当にあるのか?

 それに触れたから処分するというのは、あまりに酷いように思える。

 そう考えると、カズミは冷静さを取り戻せた。いや、逆に言えば、そう考えないと平常心を保てないと言っていい。

 だが夢じゃなかったらどうする?

 異次元の真実とやらを、もっと詳しく聞くべきだったか……。

 いろんなことを考えている内に、いつの間にか学校の最寄り駅についていた。一瞬そのことに気が付くのが遅れ、慌てて電車を降りる。

 リエコに連絡でもしようと、鞄からスマホを取り出すと、もうすでに向こうからLINEが来ていた。そのことに気付かないほどに、あの夢のことに集中していたらしい。

 リエコ【おはよう。今日は曇ってるね。少し寒くなるらしいよ】

 カズミ【うん、知ってる。カイロとか持ってくるの忘れちゃった】

 リエコ【なによカズミ、今日は返事遅いじゃん。カイロはあたしの分あげる。それじゃまた昼休みに】

 この日の朝は、リエコと会うことはなかった。


 カズミは授業中でも、しばしば上の空で、授業がなかなか頭に入って来なかった。こんなことは滅多にないのだが、なにせカズミにとって、あんな体験は初めてだったので、とても強い印象を受けた。

 それにしても、なんて具体性のある夢だったんだろう……。

 とにかくあの使者の声は、躰中を包み込み「聞こえる」というより「感じる」と言ったほうが近かった。未だにカズミの躰には、あの時の不思議な感覚が残っている。

 やはりあれは本物だったのか……?

 カズミは再び葛藤する。

 もし本物だったならば、十日後にまたあの使者が現れ、難しい選択を迫られることになる。

 あまり考えたくはない……絶望的な気持ちになる。

 そんなことを考えている間にも、時間は過ぎ、ふと気付くと授業終了のチャイムが鳴っていた。



 この日のお昼は、リエコと後輩二人を誘って、四人で囲うこととなった。

 カズミは、もうあのことはなるべく考えないようにしていたのだが、それでも時々無意識の内に思い起こされ、態度が「上の空」になってしまっているようだった。

 そんなカズミの状態を見て、リエコは不審に思ったのだろう、心配そうに声を掛けてきた。

「カズミどうしたの? なんかあった?」

 リエコはカズミの顔を覗き込んだ。なにせ長い付き合いだ。お互い雰囲気を見ただけで違いがわかる。

 リエコが問いかけたことで、他の後輩二人も、楽しいお喋りをやめカズミを見た。

「疲れてるんですか? 先輩?」

「ごめん、ごめん。大丈夫。ちょっと考え事してて」

 カズミは頑張って平静を保とうとした。単なる夢の話だ。あまり気を遣わせる訳にはいかない。

 しかしリエコはなにか感づいている。

「ご飯も大して進んでないみたいだけど?」

 カズミはハッとした。

 いかん、いかん。

「なにか悩みがあるなら言いなよ、二人の仲でしょ」

「珍しいですね、先輩がこんな風になるの」

 後輩も少し気を遣い出した。

「だから大丈夫よ。ほら、食べよ、食べよ」

 カズミの様子に、少し面喰った三人だったが、まぁカズミがそう言うならといった調子で、また再び楽しい談笑が始まった。



 昼食が終わり、互いに読書に耽るリエコとカズミ。後輩二人は、カズミに気を遣って、一足先に図書室を後にした。

 読書をしながらリエコは考えていた。そしてカズミを気遣っていた。

 なにかあったのだなと感づく……。

 もしかして、また正夢のことか? いやしかし、今迄正夢のことで、こんなに悩んだことがあっただろうか。

 それを確かめるため、リエコは唐突に問いかけた。

「カズミ、なんかあったんでしょ。どうしたの?」

 カズミは面喰って、暫くフリーズした。

 あのことを話すべきなのか、深く迷った。厄介なのは、あれが夢ではなく現実であった場合だ。もし現実であったならば、事の経緯をリエコに話してしまうと、リエコもまた異次元の真実を知ってしまい、カズミ同様「記憶喪失」か「行方不明」のどちらかを選択しなければならなくなる。そんなことは絶対に避けなければならない。カズミと同じ運命を、歩ませる訳にはいかないのだ。

「いや、あの……ちょっと……変な夢、見ちゃって……」

 カズミは愛想笑いで答えた。いつも通りに見せなければ。

「夢って、また正夢?」

 リエコはとても心配そうだ。

「いや、正夢じゃないんだけど……なんて言うか……自分が現実の世界から引き離される夢」

「引き離される夢? ああ、なるほど。それで本当に現実の世界から消えたらどうなるか、考えてた訳だ」

「あっ、そうそう、それ、それ」

 カズミは内心ホッとしつつ、申し訳ない気持ちになる。

 リエコごめん、本当にごめん。本当のこと言えなくて……。

 カズミは心の中で謝罪した。リエコに対して、こんな気持ちになるなんて。

「それでねリエコ、因みに訊くけど、もしあたしがこの世から消えたら、リエコどうする?」

 あれが現実だったらという前提で、カズミは一応訊いてみた。しかし相手の気持ちは決まっている。

「そりゃ嫌に決まってるでしょ。とことん捜すよ、そうなったら。あたしこれ以上誰か失うの嫌だからね」

 リエコは語気を強めて言った。カズミはもう一つ続ける。

「それじゃ、もしあたしが記憶喪失になったら?」

「え? 記憶喪失?」

 リエコは腕を組んだ。

「う~ん、それはそれで面倒で困るけど、でもそうなったらあたしは、全力でカズミのことサポートするよ」

 それを聞いて、カズミは少し安心した。本当に良い友人を持ったなと思う。

「ありがとうリエコ。そう言ってくれるだけで嬉しいよ」

「あのさぁ、カズミ」

 リエコはカズミの肩をポンと叩いた。

「なにか知らないけど、気にし過ぎだよ。それはカズミの個性かも知れないけど、ちょっと悪い癖だよ」

 カズミは苦笑する。

「そうだよね。ごめんね、心配かけて」

 今はただ、あのことが夢であってほしいと願うばかりだ。



 その夜、カズミは自分の部屋で、ぼ~っとしていた。

 母とヨシキは、食事の時も「今日は大丈夫だった?」と心配してくれたが「大丈夫」と答えるしかない。

 カズミは今日の過ごし方を、なんとなく後悔した。リエコの「気にし過ぎ」と言う言葉は、ある程度正しいように思える。無駄なことを、ずっと考えていたのだろうか……? でもあれが現実だったらと思うと、また不安が込み上げてくる。

 ああダメだ、ダメだ。また堂々巡りだ。

 カズミは自分が嫌になった。部屋のベッドにふて寝する。

 もうこのまま眠ってしまおうか。もうあの次元についての本の続きも、あまり読む気がしない。

 そう考えながら横になっていると、昨日あまり眠れなかったことや、今日だいぶ精神的に疲れたせいもあって、部屋の電気を消すのも忘れ、深い深い眠りに入っていった。



 翌朝、その日はよく晴れていた。だが晴れている分、朝の空気は冷たい。

 部屋の暖房の、入タイマーをセットしておくのを忘れたカズミは、スマホのアラームで起きたのと同時に、今のこの晩秋の寒さを肌で感じとった。

 アラームを止め、上半身を起こすと、なんだかこの日は体調が良いように思えた。夢を見ることもなく、ぐっすり眠ったせいもあるのか、昨日のような精神的な重だるさは、すっかり解消されていた。

 よし、これなら行ける。

 カズミの躰に元気が漲ってきた。服を着替え、軽い足取りで階段を下りていく。

「おはよう!」

 先に起きていた母に挨拶すると、母は、昨日とはまるで違うカズミの様子を見て、驚きつつも嬉しそうだった。

 モリモリと朝食を食べるカズミを見るや否や、

「どうしたの、今日は元気そうね」

 母は安堵の表情を見せた。

「母さんごめんね、心配かけて。もう大丈夫だから」

 母はカズミの「大丈夫」が、昨日の「大丈夫」とニュアンスが違うのを感じとった。

 暫くして、後から起きて来たヨシキに対しても「おはよう」と笑顔で挨拶するカズミ。

「あれ? 姉ちゃん、今日は元気そうだね」

 ヨシキはキョトンとした。カズミは頭を掻く。

「うん、なんか吹っ切れたみたい。悪かったね、心配かけて」

「そうそう、それだよ。それがいつもの姉ちゃんだよ」

 ヨシキは感嘆の声を漏らした。

「昨日はどうしたかと思ったね。ぼけ~っとしてなんも喋らないし、抜け殻みたいだったぜ」

 カズミは笑って頷く。そして母が優しい声を掛けてくれた。

「でも、そんな日もあるわよねぇ。毎日が絶好調って訳にもいかないでしょ。カズミは本当によく頑張ってるわよ」

「それじゃあ、あたし行くね」

 時間になったので、カズミが荷物を持つと「姉ちゃん、頑張れよ」と、ヨシキがガッツポーズをして見せた。

 また生意気言って……。そう思いつつも、少し心が温かくなるのを感じ、ニッコリ笑って家を出た。


 駅へ向かう足取りも、軽いように思えた。あっと言う間に駅に着いたのでそう感じる。

 リエコにLINEをした。またいつもの一日が始まる。

 そしてこの日、カズミはいつも通りの生活を送ることが出来た。授業もそこそこにこなし、昼はリエコとお弁当。リエコもカズミの様子に、安心したようだった。家に帰れば家族と夕食。不調など微塵も感じさせず、明るく楽しく、笑って過ごせる日々が続いた。

 次の日も、その次の日も――。

 しかしカズミは、あの「異次元の真実」については、誰にも語ろうとしなかった。やっぱりあれが「現実」だったら、という思いが頭の隅にあったからだ。

 このまま忘れられたらな……。ふと、そんなことを思った。

 そしてあの夢を見てから、五日が過ぎた――。

 この日の夜、カズミは自室で本を読んでいた。

 もうすでに夕食とお風呂を済ませ、歯も磨いているので、あとは時間が来れば寝るだけである。

 今読んでいる本も、次元の本ではなく、小説を開いていた。あの本は暫くお休みにしようと思っている。最近そこそこ、楽しく過ごせているとは言え、まだ本調子とは言い難い。カズミ自身、なんとなくそれを実感していた。なのでもう少し、気持ちの整理がついたら、また手に取るだろうと思っている。

 何気なく、次元の本に視線を移す……。

 あのことはもう忘れたいけれど、これを読んだら、また思い出しちゃうんだろうな。

 もういいか。気にしても仕方がない。折角ここまで調子が戻って来たんだ。早くあの日の分を取り返さなければ。

 そんなことを考えていると、不意に眠気が襲ってきた。

 もうこんな時間か……。

 カズミは、いつも通りのストレッチをしてから、電気を消し、暖房の入タイマーもしっかりセット。それから床に就いた。



 ――深い眠り。それは、夢を見ない場合が殆どだとされる。

 睡眠には、レム睡眠とノンレム睡眠があるのはもう常識だが、レム睡眠は躰の疲労を、ノンレム睡眠は脳の疲労を取ると言われている。

 カズミも深い眠りに入っていた……。

 深い深い闇の中。夢で彩らなければ、脳内も心も闇で支配される。そんな闇の中で、奇妙にも、また誰かの声が響いてきた。それは、聞いたことがあるような声……。

「カズミさん……カズミさん……」

「ん……? なに? またあなた?」

 あの使者の声だった。

「暫くですね、カズミさん。あれから五日が経ちましたが、決心はつきましたか?」

 カズミはこの言葉を聞いた時、とても遺憾な気持ちが、心の底から湧き出してきた。もう心を誤魔化すことも、この場から逃げることも、出来ないことを悟った……。

「決心って……またあなたが来たってことは、やっぱり夢じゃなかったのね」

「はい、残念ながら。もう期限も迫って来ています」

「わかったわ。わかったから、幾つか質問させてほしいの、異次元の真実について」

 カズミは、かつてのように取り乱すことなく、冷静であった。

「わかりました。私に説明出来ることなら、なんでもお聞きください」

 カズミは切り出した。

「まず、高次元が低次元を操っているのが真実みたいだけど、四次元は三次元をどうやって操ってるの?」

「操作している方法ですか。そうですね……カズミさん、あなたはメタバースをご存じですか?」

「メタバースって、仮想空間でアバターを操作する、コンピュータゲームみたいなやつ?」

 メタバースとは、1992年にニール・スティーブンソンという人物が発表したSF小説「スノウ・クラッシュ」に登場する言葉で「超越」を意味するメタと「世界」を意味するユニバースを合わせた造語である。

 利用者は、自分の分身となるアバターを作り、コンピュータ上に作成された仮想空間を通じて、他のいろんな利用者と交流を図ることが出来る、SNSの一種だ。カズミはゲームという認識を持っているが、メタバースは一般的なTVゲームと違い、決められたルールや目的がなく、自由な人々との交流に重点を置いた、二十一世紀の新しい娯楽分野である。

「わかり易く言えばそれです。三次元のあなた方が、二次元の物体を作り出し操作しているのと同じように、四次元も三次元の物体を作り出し、それを操作しているのです」

「え? でも、二次元は意思を持ってないけど、あたしたちは確りと意思を持って行動してるわ。操られてるって感覚は全然ないけど」

「それは大きな勘違いです、カズミさん。本当はあなた方に、意思などないのです。自分で行動『している』のではなく『させられている』のです。高次元によって」

「じゃあ、二次元を三次元が操作して、三次元を四次元が操作しているとなると、順番通りに行って四次元を操作しているのは……」

「はい、五次元ということになります。そして、五次元を操作しているのは六次元。その次は七次元と永遠に続きます。と、いうことはつまり」

「つまり?」

「あなた方が、創造主と崇めている『神』も、全知全能ではありません」

「え? どういうこと?」

 カズミは思わず訊き返した。

「二次元からすれば、あなた方三次元は、すべてを創造した絶対の神と崇めていることでしょう。しかしあなた方は、ただの人間です。それと同じことです」

「そう言われてみればそうか……。人間も、不確実なものに縋ってるのね。それじゃあ死んだらどうなるの? 操作は終わり?」

「いいえ。死んでそこから先の未来がなくなっても、操作されたという過去は消えません。従って、同じ生涯をまた、繰り返すことになります」

「え? 同じ人生また生きるの? 人生って一度きりじゃないの?」

「違います。もしそれが、どんなに惨くつらい生涯でも、それは高次元が決めたこと、どうしても抗えない運命なのです」

「それって、酷過ぎると思うけど……。でもそれが真実なら仕方ないか。ところであなたは? あなたも操られてるの?」

「いいえ。我々異次元管理局は、次元の世界とは別の世界に配置されていますので、第三者から干渉は受けませんし、死ぬということもありません。なので延々と異次元空間を管理するのが使命です」

「へぇ、なるほど。ところでさっきから気になってたんだけど、高次元に行動させられているなら、あたしが異次元の真実に気付いたのはなぜ? それだと高次元も真実に気付いていることになって、なんか話がややこしくなるけど」

「ええ。問題はそれなんです、カズミさん。それについては、こちらとしても原因がよくわからないのですが、時々カズミさんのような、バグが次元の中で発生しています」

「バグ? バグ……それってあたしの正夢と、なにか関係ある?」

「そうとも言えますね。カズミさんあなたは今、異次元から完全に独立し、確りと意思を持った状態にあります。不思議なことに」

「……!?」

 この時カズミは、使者の声を聴き逃すまいと、神経を集中させた。

「カズミさんの推測通り、正夢を見るというのは、なにか特別な力が働き、自分の決められたストーリーを、垣間見ていると考えられます。そこからあなたは、異次元の真実に気付いてしまいました。実はここ最近、真実に気付く者が、顕著になってきているのです」

「え? あたしの他にも、真実に気付いた人がいるの? ……あっ、ひょっとして、最近よく起きてる失踪事件て……」

「流石察しがいいですね。はい、その殆どがこちら側に付いた者です。そして真実に気付き、記憶をなくした者も多数います」

 カズミは耳を疑った。そして驚かざるを得なかった。

 世の中の「記憶喪失者」と「行方不明者」の殆どが、真実に気付いた人たちだなんて……!

「こんなことは放ってはおけません。時空の秩序を守るため、こちらとしても全力を持って調査中です。カズミさん、他に質問はありますか?」

「え……? あ、そうね。もう充分わかったわ。ありがとう」

 驚きのあまり、少しカズミの気は逸れていた。

「ではカズミさん、あと五日の内に決めてください。記憶を消すか、姿を消すか、よく考えてくださいね」

「あの……そのことなんだけど……」

 カズミは不意に、使者を呼び止めた。

「もう決めてるの……。決心は、ついてるの」

「そうですか。どちらをご希望でしょう」

「そちら側に……付いて行きます」

「姿を消すということですね。では早速参りますか」

「いや、それはちょっと待って。残りの五日間、悔いのないように生活したいの」

「なるほど、わかりました。では五日後にまた迎えに参りますので、それまで悔いのない様お過ごしください。それでは失礼いたします」

 使者は行ってしまった。

 ゆっくりと目が覚めた。起き上がりカレンダーを見ると、五日後は祝日だった。使者との会話を鮮明に覚えている。やっぱり夢ではないと確信した。

 残り五日をどう過ごそうか。これでみんなとはお別れになる。悲しいが、何故かカズミの心は澄んでいた。心のどこかで「現実を受け入れる」という小さい頃のリエコからの教訓が、そうさせているのかもしれない……。



 翌朝カズミは、アラームが鳴る前に目覚めた。

 起き上がり、カーテンを開けてみる。爽快な青空が広がっている。この晴天を、あと何回見ることが出来るだろうか。

 いつもの一日が始まる。「おはよう」から始まり「おやすみ」で終わる、いつもの一日が。

 この日からカズミは、思う存分楽しい日々を過ごした。休日での時間。学校での時間。家族との時間。友達との時間。悔いの残らないように、いつでも笑顔だった。

 そして最終日。祝日――

 この日はリエコと、アミューズメント施設で遊ぶ約束をしている。

 前日に、カズミはリエコを誘った。

 ねぇリエコ、明日カラオケでも行かない?

 カラオケ? うん、いいね。久しぶりじゃん。

 あたし、奢るからさ、ボウリングもしようよ。

 え? いいの? ありがとう。でも珍しいね、カズミがそうやって誘ってくれるの。

 うん。なんか、思い出作りたくて……。

 え? 思い出?

 ううん。いいの、いいの、気にしないで。

 リエコとの、最後の時間。最後の遊び。素敵な思い出を、胸に刻もう。

 午前十時にアミューズメント施設の、最寄り駅で待ち合わせ、カズミが到着すると、リエコがもう既に来ていた。

「あっ、ごめんリエコ、待たせちゃって」

「大丈夫よ、そんなに待ってないから」

「それじゃあ、なんか食べに行こっか」

 二人で近くの回転寿司屋に寄り、お腹一杯食べた。カズミは十皿も平らげてしまい、リエコを呆れさせたが、カズミの奢りなので遠慮することはない。これで最後なので、カズミは全財産を持ってきた。数万円はあるだろうか。

 続いてアミューズメント施設で、目一杯遊んだ。

 ビリヤードはリエコが勝ち、ボウリングはカズミが百七十本以上倒し勝利。ゴーカートで風を切った後、カラオケで夜になるまで歌いまくった。

「カズミ、そろそろ帰ろっか」

 リエコは言った。カズミも時間を確認すると、もう七時を回っている。

「そうだね、あんまり遅いのも困るし」

 リエコとの、最後の時間が終わった……。


「楽しかったねカズミ。奢ってくれてありがとう」

 駅のホーム。カズミはリエコを見送りに来た。

「うん、別にいいよ。はぁ~楽しかったぁ、久しぶりにお金使ったよ」

 カズミは伸びをした。思う存分楽しんだ実感があり、とても気分がいい。暫くして定刻通りに電車が来たので、リエコはそれに乗り込んだ。

「カズミそれじゃあね、今日はありがとう。明日また元気な顔見せて」

 明日——その言葉にカズミは、少しの動揺を隠せないでいた。だが、応えるしかない。

「うん、そっちも元気でね。また明日」

 カズミはリエコが乗った電車を、見えなくなるまで見送った。

 なんとも複雑な気持ちだ。本当のことが言えない歯痒さが、悔しさが、申し訳なさが、胸を締め付ける。明日、自分がいないとわかった時、リエコはどんな行動を起こすだろうか。

 このまま家に帰って、家族と最後になにを語ろう……。

 カズミは今、微かな虚脱を感じていた。さっきまでリエコと共に遊んだことで、充実感に浸っていたはずなのに……現実を受け入れたつもりなのに……。

 カズミはいろんなことを考えながら、トボトボと、暗い夜道を帰っていった。



「ただいま」

「ああ、おかえり。もう食事済んじゃったわよ。あんたも早く食べなさい」

 家に帰るとヨシキの姿は見えず、母はテレビを見ていた。

「うん、お腹減った。ヨシキは?」

「今、お風呂入ってる。あたしまだだけど、あんた先に入る?」

「ううん、別に最後でもいいや」

 カズミは今、この時がチャンスだと思い、母の隣に座り話しかけた。

「母さん、あたしを産んでくれてありがとう。あたし、母さんの子供で良かったよ」

 母は呆気に取られた。

 いきなりなに言い出すのよこの子。

「カズミどうしたのよ。そう言ってくれるのは嬉しいけど、なんで急にそんなこと言うの?」

 カズミはニッコリと笑った。

「別に。言える内に早く言っとこうと思って。それじゃあ、ご飯頂きま~す」

 そんなカズミの様子を見て、母は思わず吹き出してしまった。

 暫くして、風呂から上がって来たヨシキに対しても、

「おぅヨシキ。お前は自慢の弟だよ」

 ヨシキも呆気に取られた。

「姉ちゃん、なんだよそれ気持ち悪ぃな。変なもんでも食ったか」

「もう、またそういう言い方するぅ」

 母がヨシキにそっと近づき囁きかける。

(今日目一杯遊んで、なんか良いことあったんじゃない?)

(でも、あんなこと言うことあったか? やっぱり前からちょいちょいおかしいんだよ)

(まぁでも、元気でいてくれるなら、それでいいけどね)

 モリモリ食事をするカズミの様子を見て、二人は顔を見合わせ戸惑いながらも、微笑まずにはいられなかった。


 自室に戻ったカズミは本を開いていた。

 それは「次元とは何か」であった。最後にもう一度、続きから読んでおこうと思い、手に取ったのだ。

 もう風呂も歯磨きも済ませてあるので、あとは寝るだけ。別に今夜旅立つので、風呂も歯ブラシも使わなくてもいいのだが、習慣というのは恐ろしいもので、やはり綺麗にしておかないと気持ちが悪い。

 ある程度読んだところで、ふとカズミの目に、リエコの顔が浮かんだ。

 今頃どうしているだろう。もう一度、声が聞きたくなった。

 電話をかけてみる。夜も少し遅いが、出てくれるだろうか。

 何回かコールした後、雑音と共に相手の声が聞こえてきた。

「なに? カズミ、こんな時間にどうしたの?」

「あっ、リエコ? いや、なんか、声聞きたくなっちゃって」

「声って、別にまた明日会えるでしょ、なんで?」

 リエコはクスクスと笑った。カズミの言動が、奇妙でならないらしい。

「いや、なにも深い意味はないよ、気にしないで。ただリエコに、言っておきたいことがあって……」

 カズミは少し間を置いた後、切り出した。

「あたし、リエコに会えて良かった。友達になってくれてホントにありがとう。あたしリエコがいなかったら、どうなるかわからなかった。本当にありがとうね」

 相手は無言。やはり面喰っているようだ。

「ハルカちゃんいるかな? 代わってくれる?」

「え? いるけど、カズミどうしたの?」

「いいから、いいから」

 スマホの向こうで「え? カズミ姉ちゃん? あたしに?」と言う声が聞こえ、ハルカに代わった。

「やっほ~カズミ姉ちゃん、どうしたの?」

「いや、元気かなぁって思って。声が聞きたくなったの」

「あたしも聞きたかったよ、今度また遊ぼうね」

「うん。ハルカちゃん、リエコのこと大事にしてあげてね。たまに喧嘩もするだろうけど、姉妹仲良くが一番だから」

「わかってるよ、そんなこと……どうしたのカズミ姉ちゃん、どっか遠くにでも行くの?」

「ううん別に、気にしないで。またリエコによろしく言っといて。それじゃあ、おやすみ」

「う、うん、おやすみ」

 電話は切れた。

 これでいい。これで思い残すことはない。今迄のことに、本当に感謝したい。リエコ、あたしの最高の友達。今迄ありがとう、そしてさらば、マイ・ベストフレンド。

 母とヨシキは、もう寝ただろうか。カズミは自分の机の上に紙を広げ「お世話になりました。探さないでください」と書き置き、ベッドに横になった。

 なかなか眠れない。お迎えが来るのはいつなのだろう。そもそも眠る必要があるのだろうか。使者との会話は、寝ている時だけだったので、よくわからなかった。なのでこのまま、起きて本を続きから読むことにした。

 暫く読んでいる内に、突如自分を呼ぶ声がした。使者の声だ。時計を見ると、深夜十二時にもうすぐなろうかという頃だった。

「カズミさん、お待たせ致しました」

「あら、起きててもちゃんと来るのね。遅かったじゃない」

「はい、悔いの残らないように過ごしたいと仰っていたので、ギリギリまで待っておりました」

「そうなの? 気遣ってくれてありがとう」

「では、参りましょうか。目を閉じてください」

 カズミは目を閉じ、深呼吸をした。

 すると全身が光に包まれ、やがてそれは、光の球となった。そして目の前に、異次元へ繋がるであろうホールが形成され、光の球は誘われるように、静かに中に入っていった。

 みんな今迄ありがとう。さよなら、みんな……。

 その時カズミは、なにかの気配を感じた。誰かの気配……。

 なんだろう、この感じ。なんか、懐かしいような……これは……! 父さん? 父さんなの?

 遥か黄泉の国から、様子を見に来たのだろうか。暖かい感じ、妙に安心感がある。微笑んでいるようにも感じられた。

 ありがとう父さん。いつかきっと、会いに行くから……。

 みんなとも、また会える時が来るといいな。

 決められたストーリーの中で、みんなは何を願うのだろう? でも操られているとしても、人々との出会い、生命の巡り会わせは、掛け替えのないものではなかろうか。いろんな命が絡み合って、この世は出来ている。無駄な生涯など、ひとつもありはしないはずだ。そもそも生まれてくること自体、奇跡なのだから。

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