第8話 豆皿を繕う ~研ぎと中塗り~
次の日、わたしは仕事終わりに工房を訪れた。
退勤時間を気にしながら仕事をするなんて、ここ最近ではなかったことだ。
工房で過ごす時間が待ち遠しくて仕方がない。
まだ通い始めて三日目だけれど、我ながらいい人たちと巡り会えたと思う。
宇賀野さんはわたしが無事に到着したのを見ると、安心した顔をしていた。
初めて一人で工房へ来ることになったから、迷うかもと心配してくれたみたい。
用事があってすぐ帰ってしまったけれど、気にしてもらえて嬉しかった。
「うん、よく乾いている」
漆風呂で一晩寝かせた狐白を見せると、埴安さんは満足そうにうなずいた。
良かったなぁと狐白を見る目は、猫の子をあやすようだ。
埴安さんの目に、狐白はどんな風に見えているのだろう。少し気になる。
昨日のうちに到着予定時刻を伝えていたからか、作業台の上にはずらりと道具が並べられていた。
ガラス板、ゴム手袋、ザラザラした紙──紙やすりだろうか──と、水が入った小皿、細い筆、黒呂色漆と書かれたチューブ。
紙やすりがあるせいか、作業が仕上げの段階に入った気配を感じる。
(もうすぐ終わっちゃうのかな)
そう思うと、途端に寂しくなった。
だってここは、食器を繕う場所だ。
金継ぎが終わったら、ここへ来る理由もなくなる。
狐白が治るのは嬉しいことなのに、素直に喜べない。
それどころか今日の作業が難航すればいいのになんて考えが浮かんできて、わたしは怖くなった。
「日が延びているとはいえ、帰りが遅くなるのはよろしくないからな。さっさと準備して、作業時間を確保するぞ」
埴安さんの声にハッとなる。
わたしは今、何を考えていたんだろう。
「そう、ですね……」
悪い気持ちを封じるように、わたしは準備に取りかかった。
三回目ともなると、少しは慣れてくる。
棚に置かれていたエプロンと腕カバーを身につけ、ゴム手袋をはめながら席に着いた。
「今回の作業は、研ぎと中塗りだ。研ぎはこの──」
言いながら、埴安さんは紙やすりらしきものを手に取った。
ザラザラの面の裏には、『P400』とスタンプが押されている。
「耐水性のサンドペーパー四百番で、昨日埋めた錆漆を整える」
埴安さんはサンドペーパーを筒状に丸めると、小皿の水につけた。
硬化した錆漆部分に当て、ザリザリとサンドペーパーを動かす。
「サンドペーパーを筒状に丸めるのは、器が傷つかないようにするためだ。こうして小刻みに動かして、磨く」
埴安さんの手元を十分に見てから、作業を始めた。
細く丸めて水をつけたサンドペーパーで、かたくなった錆漆を磨いていく。
「削りすぎて元の高さより低くならないように注意してくれ。まぁでも、気楽にな。削りすぎたら錆漆でまた埋めればいいだけだ」
「元の高さより低くならなければ、ふっくらしていてもいいんですか?」
「ああ、それは好みの問題だ。段差がないフラットな状態にしてもいいし、少しふっくらとした状態で止めてもいい」
狐白は、どちらが似合うだろうか。
キツネで想像するのはしなやかな体つきだけれど、ふっくらとした尻尾も持っている。
(な、悩ましい……)
散々悩んで、フラットな状態にした。
その方が彼らしいと思ったからだ。
水気を拭うと、つるりとまろやかな面になっていることがより分かる。
色こそ違うけれど、形は前と同じ。
まだ終わりではないのに感動してしまって、鼻の奥がつんと痛んだ。
「……よかった」
まろやかな円が戻ってきたことが、嬉しくてたまらない。
「お嬢さんは本当にその豆皿が好きなんだな」
「はい。物心ついた時から大好きでした。もともと、神棚にお供えする時に使われていたお皿だったんですけど……。そんなに好きならって、七歳の時に祖母から譲り受けたんです。それから使っていくうちに、もっともっと好きになりました」
「じゃあ、しっかり愛情込めて繕ってやらないとな。いい男にするんだろ?」
「もちろんです」
「それじゃ、次の作業に移るぞ」
「中塗りですね」
その通り、と埴安さんはもったいぶった様子でうなずいた。
偉そうな態度も、彼がすると様になっている。
「中塗りには、この黒呂色漆を使う。黒呂色漆は、漆の成分ウルシオールと鉄分を反応させて精製した黒色の上塗り漆だ。いろいろな名前の漆があるが、すべては生漆をもとにしていて──」
白状すると、わたしは理科が苦手である。
特にカタカナの言葉が苦手で、聞いているうちに思考がどこかへ旅立ってしまう。
埴安さんには申し訳ないけれど、理解しきれない。
一生懸命聞こうと努力はしたけれどできなくて、首振り人形になるしかなかった。
「──というわけだ。よし、それじゃあ実践するぞ」
長い話が終わり、ようやく作業開始だ。
校長先生の話よりも長かったと内心ため息を吐きながら、わたしは埴安さんの手元に注目した。
「黒呂色漆をガラス板に出したら、この筆で取る。そうしたら、さっき研いだ錆漆の上に塗っていくんだ」
置いてある筆は、鉛筆の芯のように細い。
根気の要る作業になりそうだ。
「薄く、ムラなく、均一に。ああ、お嬢さんは筋がいいな」
少しずつ黒く染まっていく様子は、刺繍にも似ている。
ひと針ひと針刺すように、急がず丁寧に塗っていく。
そうしてすっかり塗り終わると、顔を上げた。
集中が切れたのか、頭がぼんやりしている。
少し休憩しようと窓越しに空を眺めていたら、グギュルル〜とおなかが盛大に鳴った。
工房は静かで、作業中だった埴安さんが手を止めてブフッと吹き出す。
恥ずかしくって顔から火が出そう。
プルプルと震えるわたしに、埴安さんは言った。
「夕飯時だもんな。俺も腹が減ったし、送りがてらどっか寄っていくか」
「いいんですか?」
「いいから誘ってる。作業は……よし、終わっているな。それじゃ、さっさと片付けて行くとしよう」
よっこらしょと立ち上がる埴安さんがなぜか老人に見えて、わたしはギョッと目を見開いた。
椅子から中途半端に立ち上がった状態で硬直するわたしに、埴安さんが首をかしげる。
「どうした?」
「いえ、その……」
あれっと思って目を擦る。
再び見た埴安さんはてきぱきと道具を片付けていて、とても老人には見えない。
(うーん、目を使いすぎたのかも)
今夜はしっかり目を休めようとわたしは思った。