第7話 豆皿を繕う ~錆漆~
「昨日は急すぎてもてなせなかったからな。今日はちゃんと用意したぞ」
工房を訪れたわたしに、埴安さんはエッヘンと胸を張った。
昨日と違い、今日は作務衣をきちんと着ている。
隣で宇賀野さんが「やればできるじゃない」と言っていたから、もしかしたら指導が入ったのかもしれない。
「ワークショップについて調べてみたんだが、茶を飲んだり菓子を摘んだりしながらやることもあるそうじゃないか。というわけで、今日は茶と菓子を用意してみた」
埴安さんは美青年なのに、内面はどこか残念だ。
でもおかげで気負わず工房に通えそうで、安心する。
「今日も特等席を譲ってあげよう」
作業台の上にはすでにお茶の用意がされていた。
チョコレート色の湯呑み茶碗から立ち上るのは、玄米の香ばしいにおい。
(わたし、玄米茶好きなんだよねぇ)
幼稚園へ通っていた頃、お昼は玄米茶が定番だった。
家で飲むことはなかったけれど、飲む機会が訪れると懐かしい気持ちになる。
お茶請けに出されたのは、門前通りで売られているバター饅頭。
焼きたてを買ってきてくれたのか、まだほんのりあたたかい。
「準備するから、お嬢さんはそれを食べながら待っていてくれ」
「ありがとうございます、埴安さん」
「どういたしまして」
お言葉に甘えて湯飲み茶碗に手を伸ばす。
炒った米の香ばしいにおいが、とても落ち着く。
一口飲んでほぅっと息を吐いたタイミングで、宇賀野さんが「食べてね」と皿を寄せてきた。
「いいのでしょうか?」
「いいのよ。埴安がやりたくてやっているのだから。くるみさんみたいなお客様は初めてだから、浮かれているみたいね」
「わたしみたい?」
宇賀野さんはぱちりとまばたきを一つすると、頬に手のひらを当てて「あらあら」と微苦笑を浮かべた。
「ワークショップはあなたが初めてってことよ」
うっかり秘密を話してしまった。
そんな感じがしたのだけれど、気のせいだったみたい。
たぶん、宇賀野さんのミステリアスな雰囲気に飲まれたのだろう。
「お客様で思い出したんですけど……。そういえばわたし、まだお代を支払っていませんでした」
「ここは埴安が道楽でやっている店だから、気にしなくていいと思うわ。それに……あなたが豆皿を繕い終えるまで、答えは出ないから……」
「答え?」
「急に決めたことだったでしょう? 埴安は弟子もいないし、くるみさんを指導しながら決めるつもりなのではないかしら」
「そうですよね。わたしの腕次第で予想より費用がかかるかもしれないですし」
昨日はたまたまうまくいったけれど、毎回うまくいくとは限らない。
失敗すれば何度も通う必要がでてくるかもしれない。
そうなれば、材料費だってかさむだろう。
「そうね。わたくしとしては、豆皿が完治したあともこうして一緒にお茶を飲めたら嬉しいのだけれど」
宇賀野さんはそう言って、バター饅頭を二つに割った。
中身はあんこだ。一口サイズにしたそれを、宇賀野さんは上品に食べた。
バター饅頭を食べ終えたところで、埴安さんから準備完了の声がかかった。
工房の端にある手洗い場で身支度を調えて、作業台へ向かう。
用意されていたのは、生漆、ガラス板、ゴム手袋、何かを拭うような布の切れ端。
ここまでは昨日と同じだけれど、新たにテレピン油、プラスチックヘラ、竹ヘラ、ノズルがついた水差し、スプーン、砥之粉と書かれた小さめの入れ物が増えていた。
「昨日も言ったが、今日は欠けた部分を埋めていく作業をする。最初に、穴埋め用の錆漆を作るぞ」
「さびうるし」
頭の中で「侘び寂び」という言葉が浮かんで消える。
おそらく、関係はないだろう。
「俺が先行してやるから、まねしてみてくれ」
「分かりました。よろしくお願いします」
ゴム手袋をはめると、早速作業が始まった。
埴安さんは砥之粉と書かれた小さめの入れ物を手に取り、ゆっくり開けた。
中に入っていたのは、きな粉のような薄橙色をした粉だ。
「これは砥之粉と言って、石を粉末状にしたものだ。飛散しやすいから、吸い込まないように」
どれだけ飛散しやすいか分からなくて、わたしは口を閉ざしてコクコクと頷いた。
わたしは真面目に答えたのに、埴安さんはクツクツと笑う。
「ん~~、なんか、いいな。先生と生徒って感じ」
噛み締めるようにほわほわと表情を緩める埴安さんに、宇賀野さんの厳しい視線が突き刺さる。
埴安さんは宇賀野さんへの文句をぶつくさ言いながら、ガラス板にスプーン一杯分の砥之粉を出した。
「円状に土手を作ったら、ノズルがついた水差しで真ん中に少しずつ水を加える」
「なんだか、もんじゃ焼きが食べたくなってきました」
「似てるもんな。水を加えたら、ヘラで練ってくれ」
プラスチックヘラを手に取り、そろそろと混ぜてみる。
なるべく失敗しないようにしたくてゆっくりやっていたら、「もっと適当でも大丈夫だぞー」と埴安さんに笑われた。
「まだ少し水が足りないみたいだな。ほら、つぶつぶして粉っぽいだろう?」
「このまま水を足して混ぜればいいですか?」
「ああ、そうしてくれ。逆に照明の灯りでテカテカしているようだったら水が多いってことだから、その場合は砥之粉を足すようにな」
ヘラで練っていくうちに、からしくらいのかたさになった。
テカテカしていないし、粉っぽくもない。
埴安さんに見せると、「お嬢さんは筋がいいな」と褒められた。
(褒められるなんて何年ぶりだろう。久しぶりすぎて、なんだかくすぐったいな……)
思い返せば、大人になる前からあまり褒められたことはなかった。
家では、お姉ちゃんなんだからできて当たり前。
学校でも職場でも、くるみさんは真面目だからできて当然。
甘え上手で手先が不器用なあかねは、わたしと違って褒められることが多かった。
改めてみると、損をしているなって思う。
どうすれば良かったのかは、分からないけれど。
「お嬢さん、次の作業を説明してもいいか?」
「えっ。ああ、すみません。お願いします」
声を掛けられて、はたと我に返る。
わたしは慌てて、埴安さんの手元に注目した。
「次は、練った砥之粉に生漆を加える。割合は、練り砥之粉が十だとすると生漆は六くらいかな。生漆を出す時、練り砥之粉の隣へ出すのがコツだ」
「重ねると割合が分かりづらくなるからですか?」
「その通り。さっきと同じようにつぶつぶが残らないように練ったら、錆漆の完成。錆漆は空気に触れると変色してしまうから、ふたをするようにプラスチックヘラを置いておく」
言われた通りに作業をすることしばし。
プラスチックヘラでふたをして、わたしはホッと息を吐いた。
「この作業はクッキーの生地作りに似てますね。バターを練って、砂糖を加えてまた練ってって……」
バター饅頭のにおいが残っているせいだろうか。つい、そんな感想が出る。
クッキーと似ていると言ったわたしに、宇賀野さんは楽しげに目を細めた。
「くるみさんはお菓子作りをするの?」
「休みの日にはよく作りますね」
「なるほど。だからそんなに上手なのね」
プラスチックヘラの下にある錆漆を見つめて、宇賀野さんは「ふふ」と笑った。
《前処理》は消毒で、《錆漆》はクッキー作り。
身近なものと類似しているおかげか、作業は順調だ。たぶん。
「錆漆は乾きやすいから、すぐに次の作業へ移るぞ。お待ちかねの、豆皿の穴をふさぐ作業だ」
「待ちかねていたのはあなたではなくって? 埴安」
「まぁな。お嬢さんは本当に筋がいい。次はどんな風に応えてくれるんだろうってワクワクするんだ」
「分かりますわ。初めてだからぎこちないのは当然としても……それを補って余るくらい、一つ一つの所作が洗練されていますもの」
「そ、そんな……お二人とも、褒めすぎでは?」
褒めちぎったそのあとに、法外なワークショップ代を請求されてしまうのではと心配になる。
ぎこちない笑みを浮かべるわたしに、宇賀野さんは「本当のことなのですけれど」と頬に手を当てて首をかしげた。
「でもきっと……もうすぐ分かるはず」
宇賀野さんの予言めいた言葉が気になったけれど、急かすように埴安さんから豆皿を渡されて、作業に戻った。
竹ヘラで錆漆を取って、欠けた部分を大まかに埋める。
その次は、はみ出た錆漆をすくように竹ヘラでカットする。
この作業は今までの中で一番むずかしかった。
思うように欠けが埋まらず、何度も繰り返す。
「仕上げは指でさっと撫でるか、テレピン油を含ませた布で周りを拭き取るのでもいいな。お嬢さんはどっちがいいと思う?」
「どっち……?」
埴安さんに問われて、ふと昨日聞いた言葉を思い出した。
――繕うものの声を聞いて繕っていく。
それってつまり、わたしの選択によって金継ぎのできあがりが変化するということ。
これから先、繕った豆皿──狐白と一緒に過ごしていくのはわたしなのだ。
埴安さんでも、他の誰でもなく。
指で撫でるか、それとも布で拭き取るのか。
どちらを選ぶかはわたし次第。
(どんな気持ちで、どんな風に繕うのか。どんな狐白と過ごしていきたいと思うのか。すべてはわたしに、委ねられているんだ)
手の内にある狐白をじっと見つめる。
キツネの窯印は、身を委ねるようにわたしを見返していた。
僕を癒やすのはあなただけ――と言っているようだ。
「うん、そうだね。そうしよう」
痛いところを撫でるのは、癒やすためだ。
だからわたしは、指でさっと撫でて仕上げた。
「うん。いい選択だ」
「そうね。とてもいいと思うわ」
覗き込んだ埴安さんと宇賀野さんが、嬉しそうにうなずき合う。
わたしはくすぐったくなって、目を細めた。