第6話 豆皿を繕う ~漆風呂~
「ただいま……」
家に入ると、玄関の床に飛び石のごとく靴が散らばっていた。
「小椋くんの靴……」
靴を脱いだらきちんと並べましょうって教えてもらわなかったのかな。
わざわざ並べてあげる気にもなれなくて、わたしはため息を吐いた。
(この家で気にするの、わたしだけだもんね)
扉の向こうにあるリビングから、和やかな家族だんらんの声が聞こえてくる。
わたしがいなくても……いや、いないからこそ平和なのだろう。
小椋くんとわたしが顔を合わせると、いつも嫌な空気になってしまうから。
君子危うきに近寄らず――ってわけではないけれど、逃げるように階段を上がる。
この家の中で安全を確保できるのは、自室だけだ。もっとも、いつ何時彼に襲来されるかわかったものではないけれど。
ドアに重石をするようにもたれかかる。
「もう限界かも。早めに引っ越し先を探さないとなぁ」
自宅なのにリラックスできないなんて、ここはもう家として機能していないと思う。
人によって考え方は異なるだろうけれど、少なくともわたしはそう思う。
「もう、跡継ぎとか考えている場合ではないかも」
靴を脱ぎっぱなしにするくらいで、神経を逆撫でされるのだ。
決定的な何かが起こる前に距離を置くのが大人の対応というものだろう。
幸い、一人暮らしするのに十分な蓄えはある。
保証人に関しても、おじを頼ればなんとかなるはず。
「休みの日に不動産屋さんへ行ってみようかな。ああでも、明日は工房に行く約束をしているんだった。忘れていてごめんね、狐白」
本当、嫌になる。
大切なものに気を配る余裕もないなんて。
寄りかかっていたドアから起き上がると、トートバッグから豆皿を取り出した。
埴安さんが丁寧に梱包してくれたおかげで、工房を出た時と変わらない姿がそこにある。
――狐白。
それは、豆皿につけた名前だ。
キツネの窯印に、糠白釉。だから、狐白。
「宇賀野さんが自信満々に男性だって言うから……。調子に乗って名前までつけちゃった」
列車で揺られている時間、やることがなくて。
つい、魔が差した。
「そのまんま過ぎるかな。ね、どう思う? 狐白」
キツネの窯印の顎あたりを撫でながら、問いかけた。
光の加減か、どことなく満足そうな表情をしているようにも見えて。
わたしは照れくさくなって、それならいっかと笑った。
「さて。明日のためにも、あなたをお風呂へ入れてあげないとね」
風呂は風呂でも、狐白を入れるのは《漆風呂》だ。
埴安さん曰く、《前処理》で使用した漆を乾燥させるためには調湿した空間が必要──らしい。
埴安さんの工房にあった、木製の箱。
一見すると靴箱のようなそれは、漆を乾燥させるための設備なのだそうだ。
内部に桟を渡して棚を設けられるようになっていて、奥行きのある棚になっている。
「一般では入手が難しいんだけどな。でも、茶箱とか木箱とか……ああ、ダンボールでも代用できるぞ」
「ダンボール……一気に気軽な感じになりましたね」
「そうだろう? そんなに身構えなくても、取って食いやしない」
「埴安、セクハラ? 手取り足取り指導してあげるとか言うつもりじゃないでしょうね」
「違うって。身構えなくて良いぞって言いたかっただけだ」
そんなこともあり、帰り途中にいろいろ買ってみた。
まず、ダンボール。
箱に組み立てたら、内側を霧吹きで湿らせる。
漆は、洗濯物を乾かすのとは訳が違う。
硬化するために必要なのは、温度と湿度。
温度は二十から二十五度、湿度は七十から八十五パーセントが適しているそうだ。
「というわけで、次はこれ!」
ジャジャーンと取り出したるは、温湿度計である。
湿らせた箱の中に入れ、温度と湿度を調整していく。
初夏から梅雨に移り変わる今の時期は、調整が難しくなくて初心者におすすめなのだと埴安さんは言っていた。
温度は特に問題なし!
なので、霧吹きで湿度を上げる。
調湿が終わったら豆皿の下に板を敷いて、ふたをして一晩。
それで一度目の漆風呂は終わり。
「一つ作業をするごとに一晩から数日単位で漆風呂に入れるって言ってたっけ」
作業自体は単純だけど、丁寧にじっくりやるから向き合っているうちに愛着を覚えそうだ。
現にわたしは、名前をつけるほど狐白が愛おしくてたまらなくなっている。
「埴安さんにお願いしなくて正解だったかも。だって、ますます狐白のことを好きになれたから」
明日が楽しみだ。
次回は、欠けた部分を埋めていく作業をするらしい。
「どんな作業なんだろう? 前にモザイクタイルでコースターを作ったことがあったけれど……。あんな風に隙間を埋めていくのかな」
欠けた部分が綺麗にふさがった狐白の姿を思い浮かべる。
きっと今よりもっと好きになるだろう。
そんな自分を予想して、わたしは久しぶりに家の中でわくわくした。