最終話 つながる欠片、新しい形
騒がしかった嵐のような夜から、数週間。
笠間の町は、いつも通りの穏やかな日常を取り戻していた。
「くるみさん、この錆漆、少し粘りすぎですか?」
工房の片隅で、不器用な手つきで漆を練るのは小椋くんだ。
少し前まで造園業で重い石を運んでいたその大きな手は、繊細な金継ぎの道具を前にすると、まるで生まれたての子鹿のようにぎこちなく震えている。
あの日、朝日の中で狐白に赦された彼は、間もなくして造園会社へ辞表を出した。
その数日後、わたしの前に現れた彼は、土下座せんばかりの勢いで頭を下げたのだ。
「……くるみさん。お願いです。俺を、あなたの弟子にしてください」
そのまっすぐすぎる瞳に射すくめられ、わたしは手に持っていた筆を落としそうになった。
「えっ、弟子⁉ ちょっと待って、小椋くん。本気なの?」
「本気です。俺は……くるみさんを傷つけた。でも、くるみさんが直してくれた。あの金色の線を見ていたら、俺も、誰かの壊れたものをつなぎ直せる人間になりたいって……心の底から思ったんです」
必死に言葉を選ぶ彼を前に、わたしは困ったように笑って首を振った。
「気持ちは嬉しいけど……ごめんね。それは無理だよ」
「……やっぱり、俺みたいなヤツじゃダメですか」
小椋くんの肩が目に見えて落胆に沈む。
わたしは慌てて言葉を継いだ。
「違うの、そうじゃなくて! ……わたし自身がまだ埴安さんに師事している身だから。自分の修行も終わっていないのに、弟子を取るなんて、そんなおこがましいことできないよ」
すると、それまでわたしのすぐ後ろに影のように控えていた狐白が、わたしの肩にそっと手を置いた。
そのまま、見下ろすような視線を小椋くんへと向ける。
「くるみの言う通りです。彼女の時間は、僕や、彼女を待っている器たちのためにある。君のような素人に割く暇など、一分一秒たりともありません」
言い方は辛辣だけれど、その手つきは驚くほど優しい。
狐白にとって、わたしの技術はもはや未熟などではなく、自分を現世につなぎ止めた“至高のもの”なのだ。
「ですが……そうですね。埴安さんには話をつけておきました。瞬、今日からあなたは、くるみの弟弟子としてここに通いなさい。くるみの仕事を一番近くで見て、学ぶのです」
狐白はいたずらっぽく口角を上げ、わたしの髪を一房、愛おしそうに指で弄んだ。
くぅぅ、色仕掛け系つくも神め!
「ただし。僕のくるみを煩わせるような真似をすれば、即座に追い出しますよ。いいですね?」
「……っ、はい。ありがとうございます、兄貴!」
深々と頭を下げた小椋くんの背中を見ながら、わたしは「兄貴って……」と思わず吹き出してしまった。
それからというもの。
わたしは実家を出て、工房近くの小さな平屋で狐白との二人暮らしを始めたのだけれど、そこには頻繁に弟が顔を出すようになった。
「……失礼します。兄貴、言われていた庭の掃き掃除、終わりました」
「遅いですよ、瞬。そんな手際では、漆を乾かすための湿度の管理など一生任せられませんね。……それと、お茶。今度は温度に気をつけるように」
「……っ、はい! すぐに!」
小椋くんは、修行の一環(と狐白が言い張る雑用)のために、時折うちに遊びに来ては、いいようにこき使われている。
元・造園業の体力がある彼にとって、庭仕事は朝飯前のはずなのに、狐白のつくも神基準のこだわりは凄まじい。
少しでも落ち葉が残っていればやり直し、お茶の淹れ方が甘ければ説教。
端から見れば完全なパワハラ(?)だけれど、当の小椋くんは「兄貴の指導は深い……」と、キラキラした目でメモを取っているのだから救えない。
「……狐白、小椋くんにあんまり無理言っちゃダメだよ?」
「無理など言っていません。弟の教育をしているだけですよ、くるみ」
狐白は平然とした顔で、わたしの隣に陣取る。
二度の金継ぎを経てからの彼は、以前よりもずっと独占欲が強くなった気がする。
小椋くんをこき使うのも、半分くらいはわたしと二人きりの時間を邪魔させないための遠ざけなんじゃないかと、わたしはひそかに疑っている。
***
「しゅーん。いるー?」
工房の入り口から、どこか弾んだ声がした。
振り返ると、そこには大量のいなり寿司を手にしたあかねが立っている。
「あかね! また差し入れ?」
「お父さんが、あんたたちちゃんと食べてるか見てこいってうるさいのよ。特に、そっちの大型犬」
あかねが顎でしゃくった先で、小椋くんが真っ赤になって立ち上がる。
「……あかね。悪い、いつも」
「別に。あんたが会社辞めてここに来るって言った時は正気を疑ったけど……。でも、今の顔の方がマシね。前のあんたは、いつか壊れちゃいそうで見てられなかったから」
あかねはぶっきらぼうに小椋くんの隣へ歩み寄ると、彼が必死に練っていた漆をのぞき込んだ。
恋人である彼が、姉であるわたしを傷つけた。その事実は消えないけれど、今の二人の間には、壊れたものを一緒に繕い直そうとする、静かで確かな熱量がある。
「おねーちゃん、あんまりこのバカをこき使わないでよね。一応、あたしの大事な人なんだから」
「わかってるよ」
笑い返すと、あかねは少しだけ照れくさそうに、けれど満足そうに目を細めた。
険悪になっていた姉妹の仲も、彼女の恋路も、呼び継ぎの跡のように、新しい形となってつながったのだ。
***
その日の夕方、あかねと入れ替わるように宇賀野さんが顔を出した。
「あら、瞬くん。ヘラの角度が甘いですね。それじゃあ漆が泣きますよ」
瞳を光らせ、宇賀野さんがいつもの調子で茶化す。
父との間に入り、狐白や埴安さんの荒唐無稽な話を完璧な理論武装で納得させてくれたのは彼女だ。
「宇賀野さん、父のこと、本当にありがとうございました。なんて説明したんですか?」
わたしの問いに、宇賀野さんは悪戯っぽく微笑んだ。
「秘密ですわ。ただ、あなたのお父上も、あなたが選んだ家族の形を見て、最後には黙ってうなずいてくれました。……金継ぎ師というのは、ものだけでなく、人の心もつなぐ仕事ですからね。あなたはそれを証明してみせたのです」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
宇賀野さんのあたたかい視線に、わたしが言葉を返そうとした、その時だった。
「瞬。やり直しです」
「……はい、兄貴」
「狐白ぅ、ちと厳しすぎやしねぇか?」
「埴安さんが甘すぎるのです。師匠ならきちんと躾けてください」
「それは兄貴の領分だな」
夕暮れの工房に、狐白、小椋くん、埴安さんのやり取りが響く。
狐白は兄として、弟を厳しく、けれどどこか楽しそうに導いている。
その胸元で輝く黄金の筋は、今では彼の一部として、誇らしげに夕日を反射していた。
元通りには、ならない。
けれど、欠けた部分に新しい命を呼び込み、金でつなぐことで、器は前よりも強く、美しく生まれ変わる。
「……よし」
わたしは筆を執り、新しい依頼品の欠けにそっと漆を乗せた。
わたしたちの物語は、ここから始まる。
壊れてしまった誰かの思い出を、丁寧に、大切に繕って。
そんな繕い手としての毎日が、笠間の空の下で、静かに続いていく。




