第4話 金継ぎ工房 埴安
境内を出ると、門前通りから離れるように反対へ向かって歩いた。
車が一台通れるか通れないかというくらいの細い道を、女性は迷いもなく進んでいく。
わたしは何度も神社に来たことがあったけれど、この辺りを歩くのは初めてだった。
どの庭にも木が植えてあるようで、そこかしこに大きな木が枝を伸ばして日を遮っている。
(木漏れ日が目にやさしい……。でも、一人だったら歩かないかな)
まだ昼間だというのに、黄昏時のように薄暗い。
脳裏に「誰そ彼」という言葉が浮かんで消えて、思わず肩が震えた。
「そういえば、まだ名乗っていませんでしたわね。わたくしは、宇賀野というの。あなたのお名前を聞いてもよろしいかしら?」
わたしの不安を察したように、女性──宇賀野さんは話しかけてきた。
やわらかい物言いなのに、有無を言わせない迫力のようなものを感じる。
(ちょっと、おばあちゃんに似てるかも)
貫禄というか年の功というか。
この人なら何を話しても悪いようにはしない――そんな確信めいたものを感じた。
「ええと、米川くるみと申します」
「くるみ? あら、なんて運命的なお名前なのかしら」
「運命?」
「ねぇ、知っている? 笠間稲荷神社は胡桃下稲荷とも呼ばれているのよ。昔はこの辺りに胡桃の密林があって、そこに稲荷大神さまがお祀りされていたの」
「もしかして、この辺りの木も胡桃なんですか?」
「そうよ、オニグルミ。羽根みたいな大きな葉っぱをしているでしょう?」
見上げると、宇賀野さんの言う通りだった。
青々とした大きな葉が、頭上を覆っている。
わたしはそれを眺めながら、なるほどと納得していた。
(だから、門前通りでは胡桃を使ったお菓子が売られているんだ)
稲荷神社にいなり寿司は分かるけれど、門前通りには胡桃を使ったお菓子やいなり寿司も売られていたから、どんな関係があるのだろうとずっと不思議だった。
長年の謎が解けて、すっきりだ。
「さぁ、着いたわ」
「ここは……?」
宇賀野さんが足を止めた。
どこをどう歩いてきたのか、話に夢中になっていたわたしはここがどこかも分からない。
辺りを見回すと、古い家が立ち並んでいる。
わたしはその中の一軒に、目を引かれた。
古民家カフェのような、懐古的な雰囲気を持つ日本家屋。
一目見ただけでも愛着を持って手入れされていることが伝わってくる、あたたかみを感じられる家だ。
「素敵なおうちですね」
「そう? わたくしも嫌いじゃないわ」
宇賀野さんはそう言うと、蠱惑的な笑みを浮かべた。
相手は女性なのに胸がドキドキして、落ち着かない気持ちになる。
ごまかすように視線を逸らしたわたしは、玄関扉の前に小さな看板があることに気がついた。
器、繕います。
金継ぎ工房 埴安
「器を、繕う……?」
どういうことだろう。
繕うと言われて真っ先に思い浮かべるのは、破れた衣服を直すことだ。
器を繕うなんて聞いたことがない。
だけどわたしは、興味を引かれた。
もしも、器を破れた衣服のように修復できるのだとしたら……。
(豆皿を、治せるかもしれない?)
無意識に、豆皿へ手が伸びる。
宇賀野さんは意味深に微笑むと、つないでいた手をするりと解いた。
そのまま玄関扉へ歩いていって、遠慮なく引き戸を開ける。
戸車が老朽化しているのか、ガラガラと音がした。
「埴安、お客様を連れてきてあげましたよ」
「客だって?」
玄関を入ってすぐの部屋が工房になっているらしい。
もとは土間だったところを板張りにリフォームしたようだ。
学校の床を思わせる市松模様のスクールパーケットに、工作室で見かけた頑丈そうなテーブルと椅子が置いてある。
ガタゴトと椅子を動かす音がして、わたしは目を向けた。
背を向けて作業していた人物が、くるりと振り返る。
「っ!」
その瞬間、わたしは驚いた。
振り返ったその人は、宇賀野さんに負けず劣らずの美形だったのだ。
(歌舞伎役者さんみたい……!)
埴安と呼ばれた男性は、長い髪をうなじあたりで一括りにしていて、藍色の作務衣をゆるっと着ていた。
だらしがない格好だけどそれが妙な色気を醸し出していて、目のやり場に困る。
宇賀野さんが艶やかな花魁風美女ならば、この人は彼女を贔屓にする遊び上手な若旦那といった感じだ。
どちらも和装がよく似合う。
「……わぁ、すっごい美男美女」
「そりゃ、ありがとよ」
うっかりつぶやくと、彼は照れくさそうに苦く笑んだ。
宇賀野さんにもクスクス笑われて、気恥ずかしくなったわたしはへらりと愛想笑いを浮かべた。
「宇賀野、この子が客か?」
「ええ、そうよ。神社で豆皿を治したいってお願いしていたの。わたくしの耳に届くくらい、熱心にね」
(うそ、うそ、うそ! まさか、聞かれていたなんて!)
宇賀野さんの言葉に、頬がカーッと熱くなった。
「きっ、聞こえてたんですか?」
「ええ、しっかりと」
動揺するわたしに、宇賀野さんはにっこりと微笑んだ。
よく聞こえたわよと頭の上に持っていった手をぴょこぴょこさせて、ウサギ──いや、土地柄的にキツネだろうか──お茶目なしぐさが様になっている。
誰もいない境内。
その安心感から、無意識に声に出ていたに違いない。
(恥ずかしい……!)
だけど、聞かれていたからここに来られた。
器を繕うという、金継ぎ工房へ。
「なるほどねぇ……。さて、お嬢さん……おっと、まずは名を名乗るか。俺は工房主の埴安だ、どうぞよろしく」
「米川くるみです。よろしくお願いします」
「さっそくだが……豆皿は今、持っているのか?」
埴安さんに優しく問われて、わたしは悲しくもないのに泣きたくなってしまった。
なんというか、医者から匙を投げられるほどの難病を治す奇跡の名医に出会ったような――そんな気分。
そう。安心したんだ、わたしは。
(金継ぎとか、器を繕うとか、よく分からない。でも宇賀野さんは「特別に案内してあげる」って言った。だからこれは、またとないチャンス……なんだよね)
わたしだけだったら、ここを探し当てられていたかもわからない。
金継ぎという言葉も知らなかったし、神社の近くにこんな場所があることも知らなかったのだから。
これは、笠間稲荷神社のご利益なのだと思う。
わたしは神妙な面持ちでうなずくと、トートバッグから巾着袋を取り出した。
布に包んだ豆皿を巾着袋から取り出す。
そしてそれを慎重に、埴安さんへ差し出した。
埴安さんの手のひらの上で、布が解かれる。
現れた豆皿の痛々しい姿に、わたしはぐっと奥歯を噛み締めた。
「……笠間焼の豆皿か。あぁ、ここがほつれてら……」
男性らしい節くれ立った指が、手当てするように豆皿の欠けを撫でる。
豆皿を見つめるその顔を見た瞬間、彼になら豆皿を預けて大丈夫だと思った。
埴安さんも、わたしと同じように顔を歪めていたから。
「ほつれ? 欠けじゃないんですか?」
「表層が剥がれるような軽い欠けのことをほつれと言う。ほつれにも種類があるんだが、これはハマグリだな。削げた部分が丸い段になっているだろう」
「なるほど……。これを見た時、貝が引っ越していったみたいだなって思ったんですけど、あながち間違いでもなかったんですね」
「はは、そうだな。この程度なら一週間ほどで繕えると思うが……」
そこまで言って、埴安さんは言葉を切った。
聡明そうな眉間に、皺が寄る。
(どうしたんだろう。ほつれ以外にも問題があったとか?)
なにせ古い皿だ。
豆皿を譲ってくれた祖母曰く、明治時代初期に作られたものだとか。
百年をゆうに越える骨董品を日常使いしていたのだから、何があってもおかしくはない。
埴安さんは少し沈黙して、困ったように首の後ろをさする。
「わがままな奴だな。それほどお嬢さんを好いているってことなんだろうが……」
やがて根負けしたようにやれやれと首を振って、困り顔でわたしを見た。
そして、手のひらに乗せた豆皿をわたしへ突き出しながらこう言った。
「どうやらこいつは、お嬢さんの手で繕ってもらいたいらしい。俺の手じゃ嫌だとさ」
「えっ⁉」