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第39話 夜明けまでの猶予

 血のにおいと、冷たい磁器の感触。

 一階の床の上で、わたしはどれほどの間、()いつくばっていたのだろう。


「くるみ、もういい。もういいから……病院へ行こう」


 父の震える声が、遠くのほうで聞こえた。

 けれど、わたしは父の差し出す手を、烈火のごとき勢いで振り払った。


「触らないで!!」


 叫んだ自分の声が、自分のものではないように(かす)れていた。


 狐白(こはく)は消えてしまった。けれど、この破片がある限り、彼はまだ()()にいる。

 そう信じなければ、わたしの心臓はその場で止まってしまっただろう。


 呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす小椋(おぐら)くん、そして言葉を失った父を背に、わたしは拾い集めた破片と砂を抱えて外へと飛び出した。

 後ろから名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、一度も振り返らなかった。


 切り裂かれた手のひらの傷口がズキズキと痛むけれど、そんな痛みよりも、腕の中に抱えた無惨(むざん)な重みのほうが、ずっと鋭くわたしの胸を刺し続けていた。


 どこへ行けばいいのかも分からないまま、夜の闇に飲み込まれた住宅街を走る。

 視界が涙で(ゆが)み、息が切れて足がもつれる。


(狐白、狐白、狐白……助けて……!)


 心の中で、千切れるほどにその名を呼び続けた、その時だった。


 ふいに、鼻先を土と漆のにおいがかすめる。

 それから、どこかで鈴が鳴るような、澄んだ音が響く。


 気づけば、街灯の光は不自然なほどにかき消え、周囲を濃い霧が包み込んでいた。

 やみくもに足を動かし続け、霧を抜けた先――そこに、見覚えのある門構えが浮かび上がる。


「……なんで、ここに……」


 そこは、車で一時間はかかるはずの、笠間にある埴安さんの工房だった。


 ありえない。

 けれど、工房の窓からはあたたかな橙色(だいだいいろ)の光が漏れ、まるで最初からわたしが来ることを知っていたかのように、静かに扉が開いた。


「……お嬢さん、中へどうぞ」


 そこには、寝間着の胸元をゆるめた埴安さんが、ひどくアンニュイな表情で立っていた。

 いつも通りの、どこか人を食ったような笑み。


 彼はわたしの惨状を見ても、驚くことも、慌てることもなかった。

 まるで、わたしがこの時間に、この状態でここへ来ることを、最初から知っていたかのように。


 埴安さんは、わたしの汚れた手を(とが)めることもなく、工房へと迎え入れてくれた。

 そのまま、一番奥の作業台へ座るよう促される。


「埴安さん……狐白が、わたしのせいで……。あんなに大切にしていたのに、わたしが守れなかったから、バラバラに……」


 消えてしまった狐白の姿を思い出し、また涙があふれそうになる。

 その時、埴安さんの低く、地鳴りのような重みのある声が、わたしの震えを止めた。


「……泣くな。お嬢さんのその手は、まだ動く。そうだろう?」


 ドキリとして顔を上げると、埴安さんがわたしの目をまっすぐに見据えていた。

 彼は、わたしの手のひらの深い傷――まだ血がにじみ、磁器の破片でズタズタになったその手を、指し示す。


「金継ぎ師が自分の手を傷つけてどうする。お嬢さんが諦めて手を止めたら、狐白はただのゴミになっちまうんだぞ。でも……お嬢さんがその手で直したいって思うなら、話は別だ」


 それは、酷な言葉だった。

 けれど、今のわたしにとってはどんな優しい慰めよりも救いだ。


 まだ、やれることがある。

 この傷だらけの手で、もう一度、狐白をこの世界につなぎ止められるかもしれない。

 そう、わたし――繕い手ならば。


「……繕いたい。わたしが、狐白を、もう一度……!」


「……いい返事だ」


 埴安さんはそこで初めて、ふっと目元を和らげた。

 彼は、わたしの胸元に凍りついたように固まっていた腕を、指先から一本ずつ丁寧に解いていった。


 わたしが血まみれの手で必死に抱え込んでいた、血に汚れた真綿の塊。

 その中にある、無惨に砕けた破片と砂を、彼は優しい手つきで作業台の上に広げた。


「あーあ、ひどい有り様だな。……でも、命の火はまだ消えちゃいない」


 埴安さんはそう言うと、ようやく傍らに用意していた清潔な布とあたたかい湯に手を伸ばした。


「まずは、その手を洗おうか。話はそれからだ」


 傷口を洗うわたしの手元をじっと見つめながら、埴安さんは静かに、けれど逃げ場のないトーンで続けた。


「……いいかお嬢さん、よく聞け。狐白の記憶がこの欠片の中に留まっていられるのは、夜明けまでだ」


「え……?」


「前にお嬢さんが繕った時とはワケが違うんだよ。ここまでバラバラになったら、本来はもう助からない……。器が割れるってことは、そこに刻まれた時がこぼれ落ちるってことなんだ」


 埴安さんは、作業台の上の欠片を、やるせなげに見つめた。


「夜が明けて陽の光が差し込めば、欠片に残った狐白の意識は完全に洗われて、まっさらな状態に戻る……そうなれば、つくも神として目覚めはするだろう。だがな、それはもう、お嬢さんが知る狐白じゃない。共に過ごした日々も、交わした言葉も、すべて忘れたつくも神になっちまう。奇跡は二度も安売りしてくれないんだ」


 心臓が、氷を突きつけられたように冷たくなった。


 二度目だから。

 わたしが一度つないだ命を、また壊してしまったから。


 狐白と重ねてきたすべてが、消えてしまう。

 そんなの、嫌だ。


「……やり直せるか。お嬢さんの祈りと技術で、夜明けまでに狐白を満たしきれるか。それが、お嬢さんの選んだ道の先だ。神も仏も、繕い手の代わりはできない」


 わたしは、震える手でうなずいた。

 彼が今、この瞬間のために扉を開けて待っていてくれたことだけは、確信できた。


 どんなにバラバラになっても、形を失っても、その心の欠片さえ残っていれば、もう一度つなぎ合わせる。

 それが、狐白と共に歩むと決めたわたしの、唯一の戦い方なのだ。


 数時間が経過した。

 窓の外では夜が深まり、熱を帯びた夜気とは対照的な、静まりかえった闇が工房を包んでいる。


 わたしは息を止め、精神のすべてを指先に集中させて、小さな破片同士をつなぎ合わせた。

 破片と破片が重なるわずかな感触、漆が吸い付くような手応え。

 狐白のあのひんやりとした肌の質感を思い出しながら、わたしは魂を削るようにして作業を続けた。


「……よし。これで、三つ目」


 本来、金継ぎは破片同士をつなぐたびに漆風呂で寝かさないといけない。

 一歩間違えば、完成までに数週間から数カ月はかかるはずの工程だ。

 けれど、埴安さんがわたしの横に置いたのは、見たこともないほど古びた、けれど不思議な熱を宿した木箱だった。


「いいか、これに入れて数分待て。……これは特別製の漆風呂で、普通の漆風呂よりずっと早く乾く。あまり使いたくない手なんだが、今回は緊急事態ってことで、貸してやる。その代わり、お嬢さんの作業も休みなし。夜明けは待っちゃくれないからな」


 埴安さんの言葉通り、その箱に数分入れるだけで、塗ったばかりの漆はまるで一晩経ったかのようにピタリと固まり、次の破片をつなぐ準備が整う。


 ありえない。

 けれど、今のわたしには理由を問い詰める余裕なんてなかった。

 この魔法のような漆風呂だけが、今のわたしの唯一の希望だったから。


 一つ、また一つ。

 狐白の輪郭が、少しずつ形を取り戻していく。

 けれど、無情な現実がわたしの前に立ちはだかった。


「……足りない」


 喉の奥から、乾いた声が漏れた。


 豆皿の右端に扇形の破片がはまるはずなのに、ない。

 あんなに必死に探したのに。どうして。


「どうして……」


 絶望が迫り上がってきた、その時だった。


 工房の入り口のベルが、控えめに、けれど重く鳴った。

 埴安さんが無言で扉を開ける。

 そこには、宇賀野(うかの)さんに導かれて、幽霊のように青ざめた顔で立ち尽くす、小椋くんの姿があった。



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