第38話 守れなかった約束
カチリ、と時計の針が重なる。
……けれど、運命の秒針が止まることはなかった。
一階の玄関が開く、重い音がする。
その音が、背面で何かを閉じた気がした。
「……帰ってきた」
時計を見ると、父が仕事から帰るにはまだ早すぎる時間だ。
小椋くんが何かするという予感は、最悪な形で的中してしまったのだ。
わたしは自室で、息を潜めるようにして荷造りを中断した。
窓の外からは、遠くの幹線道路を走る車の走行音や、どこかの家から漏れるかすかな犬の鳴き声が聞こえてくる。
そのどれもが、今のわたしとは関係のない音に思えた。
階段を上がる、怒りを堪えたような、重く鋭い足音が近づいてくる。
「……準備、もう少しだったのに」
わたしは震える声でつぶやいた。
狐白は、窓際の椅子に腰掛けて、静かにドアのほうを見つめている。
その姿は、この古い実家の一室にはあまりに不釣り合いで、けれど、今のわたしにとっては唯一の真実だった。
「くるみ。そんなに怯えないで。僕は、あなたのそばにいます」
「……うん。分かってる。でも、小椋くんが何を言ったのか……」
ノックもなしに、勢いよくドアが開かれた。
そこに立っていたのは、ネクタイを緩める間も惜しんで駆けつけたのであろう、まだスーツ姿のままの父。その後ろに続くのは、小椋くん。
「お父さん……どうしたの、いきなり……」
「とぼけるな! 小椋くんから全部聞いたぞ。おまえ、外で怪しい男と会っているそうじゃないか!」
父の背後で、小椋くんが苦悶の混じった、けれど「これでいいんだ」と言い聞かせるような複雑な表情でこちらを見ている。
父の視線が、わたしの足元にあった段ボールと、緩衝材で包みかけの金継ぎ道具、そして――真綿に包んで大切に抱きしめていた豆皿へと注がれた。
「今日もその男と家を出るつもりなんだろう!」
「家は出て行くけど、狐白は関係ないわ!」
「いいからその荷物を置け! そのコハクとかいう男はどこだ。小椋くん、そいつを……」
父が荒々しく部屋を見回す。
けれど、その視線は窓際の椅子に座る狐白を完全に通り抜けていた。
「お父さん、何言ってるの。そこに、狐白がいるじゃない」
わたしが指し示した先を、父は気味の悪いものでも見るような目で見つめ、それからさらに顔を真っ赤にした。
「何を言っているんだ! そこには誰もいないだろうが!」
父の声に、心臓が凍りつく。
(……見えてないの? どうして。すぐそこにいるのに)
その瞬間、宇賀野さんの言葉が脳裏をよぎった。
ここは、笠間の外。宇賀野さんの術が及ばない領域。だから――。
(お父さんには、狐白が見えない)
あまりの事実に、指先が冷たく強張る。
けれど、小椋くんは違うはずだ。
彼はホームセンターで狐白の胸ぐらを掴んだ。
その実在を、狐白の冷たさを知っているはずなのに。
「小椋くん、あなたには見えているんでしょ!? そこに、彼がいるのが……!」
縋るような思いで、父の背後にいる小椋くんを見つめた。
小椋くんの視線は、確かに窓際の椅子――静かに座る狐白の姿を捉えている。
その瞳には、隠しきれない嫌悪と恐怖が、ありありと浮かんでいた。
彼はごくりと唾を飲み込み、狐白を睨みつけ、それから隣に立つ父の険しい横顔を盗み見る。
そして、ゆっくりと首を振った。
「……いいえ。くるみさん、何言ってるんですか。そこには、誰もいませんよ」
「嘘よ! あなた、さっきホームセンターで……」
「くるみさん、いい加減に目を覚ましてください!」
小椋くんが、わたしの言葉を遮るように一歩前に出た。
彼の瞳には、恐怖を塗りつぶすような激しい使命感が宿っている。
「俺がホームセンターで見たのは、あなたを執拗に追い回す、あかねが見たっていうあの男ですよ。いかにも女慣れしてそうな、イケメン。……あいつが、あなたを洗脳しているんです」
「……洗脳? 小椋くん、何を言っているの? あかねが見たのは、埴安さん。そこにいるのは、狐白だよ」
「ええ、くるみさんの認識ではそうなんですよね」
(……何を言っているの?)
かわいそうなものを見るような目を向けられて、わたしは息を呑んだ。
「あいつが裏であなたを操っている黒幕なんです。あいつがあなたを洗脳して、家を出るように仕向けて、身ぐるみ剥ごうとしているんだ。そしてあなたは、あいつに植え付けられた『狐白』とかいう幻影を、あろうことかこの家の中にまで持ち込んだ。今、あなたが縋っているものは、その黒幕があなたを支配するために見せている、ただの虚像なんですよ!」
父は、小椋くんの言葉を聞くたびに、深くうなずく。
そのたびに、父の声は少しずつ強くなっていった。
「そうだ、くるみ! おまえはそいつに騙されて、家を捨て、家族を捨てようとしているんだ!」
父の顔が怒りで赤黒く染まっていく。
「違う、狐白は幻なんかじゃない。わたしを助けてくれたのは、いつだって……!」
「いいからその皿をこっちへ渡せ! そんな依代みたいなものを持っているから、付け込まれるんだ。こんなもの、壊してしまえばおまえの目も覚める!」
父の大きな手が、わたしの腕の中から無理やり豆皿を奪い取ろうと伸びてくる。
父には、これが娘を狂わせている呪いの道具にしか見えていないのだ。
「嫌! 触らないで!」
「出せと言っているんだ!」
二階の狭い廊下で、激しいもみ合いになる。
わたしは必死に抵抗したけれど、父の力にはどうしても敵わなかった。
真綿に包まれた豆皿がわたしの指からすり抜け、父の手へ。
「あ――」
音が、すっと遠のいた。
指先から、重さが抜けていく。
慌てて助けようとした小椋くんが手を出したけれど、それが逆にお父さんの肘を弾き、最悪の結果を招いた。 真綿の結び目が空中で解け、中から豆皿が、裸のまま放り出される。
キラリ、と夕陽を反射して、皿が美しく宙を舞う。
家族が馬鹿にした、けれどわたしにとっては世界そのものだったあの豆皿が。
そのまま、階段の下へと一直線に落ちていった。
――ガシャン。
耳を突き刺すような、冷たい破砕音が家中に響いた。
豆皿は無残にも四分五裂し、一階の床で無数の小さな破片へと姿を変えた。
散らばった欠片は、沈みゆく夕日の光を浴びて、虚しく輝いている。
その瞬間だった。
二階の自室、窓際の椅子に腰掛けていた狐白の姿が、ふいに歪む。
お父さんには見えていないのかもしれない。
けれど、わたしにははっきりと見えた。
狐白の姿が壊れかけた映像のように激しく明滅し、ザラザラとしたノイズが走っているのを。
「……くる、み……」
狐白が、椅子から滑り落ちるようにして、その場に膝をついた。
彼の瞳から、光が抜け落ちていく。
その白磁のような肌に、真っ黒な亀裂が走り抜けていった。
「狐白! 嫌、消えないで! お願い!」
わたしはお父さんの手を振り払い、階段を転がるようにして駆け下りた。
一階にたどりつき、泣き叫びながら、バラバラになった破片をかき集める。
鋭い磁器の角がわたしの手のひらを深く切り裂き、鮮血が欠片の上に飛び散った。
けれど、痛みなんてこれっぽっちも感じなかった。
「くるみ」
狐白に呼ばれて顔を上げると、二階の自室から這い出してきた彼の姿があった。
砕け散った本体の痛みに耐えるように、階段の手すりから身を乗り出し、一階にいるわたしを見下ろしている。
「……申し訳……ありません。約束……守れ、なかった……」
狐白は最期に、ふっと、本当に穏やかに微笑んだ。
次の瞬間、彼の体は淡い黄金色の粒子となって、夕闇に包まれ始めた階段の吹き抜けに、音もなく溶けて消えていった。
冷たい床に残されたのは、わたしの血で赤く汚れた数個の大きな破片と、もう二度と形をなさない、粉々になった白い砂の山だけだった。
「…………あああああああああああ‼」
わたしの絶叫が、静まり返った階段に響き渡る。
視界が涙と血でぐちゃぐちゃになりながら、わたしはなりふり構わず床に這いつくばった。
父はそんなわたしの姿を、まるで得体の知れない恐ろしいものでも見るような目で見つめ、階段の上で呆然と立ち尽くしている。
父には理解できていないのだ。
子どもの頃からずっと、この家で孤独だったわたしの傍らで寄り添い、見守り続けてくれた、世界で唯一無二の存在。
その人が今、粒子となって、わたしの目の前で永遠に消え去ってしまったことを。
ふと見上げた二階の廊下。
小椋くんが、自分のポケットを骨が折れんばかりの力で握りしめ、何かに耐えるようにして立ち尽くしていた。
彼が良かれと思ってついた嘘が。彼が信じた歪な正義が。
わたしの人生のすべてだった存在を、取り返しのつかない形で打ち砕いてしまった。
こちらを見下ろす小椋くんの瞳から、血の混じったような涙がこぼれ落ちるのが見えた。
けれど、彼が今さら何を後悔し、何のために泣いているのかなど、今のわたしにはどうでもよかった。
その涙さえ、床に散らばった磁器の破片のように、無機質で冷たいものにしか見えない。
血まみれの手で、わたしは必死に砂をかき集める。
狐白を優しく包んでいたはずの真綿が、わたしの手から流れる血で汚れ、無惨に床へ転がっている。
集めても、集めても、指の間からサラサラと無情にこぼれ落ちていく。
(……待って。行かないで、狐白。置いていかないで……!)
バラバラになったのは、豆皿だけじゃない。
守りたかったものは、もう何一つ残っていなかった。




