第37話 直せない欠片
走り去る軽自動車のテールランプが、夕闇に溶けて消えていく。
その赤い光が完全に見えなくなるまで、俺はホームセンターの入り口で一歩も動けなかった。
右ポケットの中で、角の取れた陶器の欠片を強く握りしめる。
エッジが指の腹に食い込んで、じりじりとした痛みが走る。
その痛みだけが、今、俺を現実へとつなぎ止めていた。
(……あれは人間なのか?)
さっき、あの白髪の男――狐白とかいうやつの胸ぐらを掴んだ時の感触が、手のひらにこびりついて離れない。
人間なら、胸ぐらを掴まれれば驚きや恐怖、あるいは怒りの拍動が伝わってくるはずだ。
荒くなる呼吸とか、皮膚から立ち上る熱とか、血管を流れる熱い血の音とか。
反抗してくるにせよ、怯えるにせよ、そこには生きてるやつ特有の揺らぎがあるはず。
だが、あの男には何もなかった。
ただ、冷たくて硬い、完成された置物がそこにあるだけだった。
あいつは呼吸すら、形だけ演じているように見えた。
まばたき一つとっても、生き物としての自然さがまったくない……いや、人間じゃないなんて、そんなおかしな話があるわけない。
あいつは、きっと何かの薬でもやってるか、あるいは感情が完全に抜けたプロの詐欺師か何かなんだ。そうに決まってる。
くるみさんは、あんな不気味な男に、骨の髄まで騙されているんだ。
俺は、ポケットの中の欠片に指を這わせた。
それは、俺の記憶の底にずっと沈んでいる、たった一度きりの家族の風景。直しようのない、壊れたままの記憶。
仕事ばかりで俺に関心を持たなかった両親が、子どもの頃、たった一度だけ俺を連れて遠出した先で買った、名のある陶芸家がつくったという皿。
それが、俺にとっての唯一の団らんの証になるはずだった。
だが、その日の帰り道、両親はいつものように激しい口論を始めた。
家に着くなり父さんがその皿を床に叩きつけ、粉々に砕け散った皿の破片は――そのまま俺たちの家族の姿だった。
俺はその時、泣きながら一番大きな欠片だけを拾い上げ、今日までずっと、誰にも言わずに持ち続けてきた。
バラバラになった家族の、唯一の共通体験。
俺にとって、この欠片は「家族とは脆くて、壊れやすくて、けれど執着せずにはいられないもの」という重荷そのものだ。
「……あんな得体の知れないやつに、くるみさんを壊されてたまるか」
俺の脳裏には、最近ニュースで見た『家族と連絡を絶たせる』タイプの特殊詐欺の映像が、何度も再生された。
くるみさんは根が優しすぎる。あんなきれいな顔をした男に優しくされたら、ひとたまりもない。
あの男は、くるみさんの貯金や、米川家の財産を狙っているに違いない。
あかねの大事な姉ちゃんだ。
そして、不器用な俺を「あかねを頼む」と受け入れてくれた、恩義のある米川家だ。
あんな詐欺師に、これ以上くるみさんの人生を滅茶苦茶にさせてたまるもんか。
俺にできることは何だ?
今、直接彼女を説得しようとしても、彼女の心はあの男に完全に支配されていて、俺を拒絶するだけ。
さっきだって、俺をあんなに冷たい目で見た。あんな顔、見たことがない。
ならば、もっと大きな力を借りるしかない。
彼女をこの家に繋ぎ止め、あの男との縁を無理やり引き剥がす力。
彼女が、娘として、姉として、逆らえない「家族」という壁だ。
俺は震える指でスマホを操作し、連絡先を表示させた。
登録名は『米川(父)』。
発信ボタンの上で、親指が止まる。
これを押したら、もう後戻りはできない。
――それでも。
俺は、親指に力を込めた。
「……もしもし。お父さん、ですか。小椋です」
電話に出た相手の声は低く、厳しかった。
俺はごくりと唾を飲み込み、頭の中で作り上げたストーリーを話し始めた。
自分でも驚くほど滑らかに言葉があふれ出す。
くるみさんが怪しい男に騙されていること。
全財産を貢ごうとしていること。
そして、近いうちにその男と一緒に姿を消し、家族との縁を完全に切ろうとしていること。
俺にとって、これは「くるみさんを救うための必要な嘘」だった。
嘘を吐いてでも、彼女を正気に戻さなきゃいけない。
俺みたいな半端者が、まっとうな家族を守るにはこれしかないんだ。
「……そうですか。すぐに帰ります。小椋くん、教えてくれてありがとう」
お父さんの受話器越しに伝わる怒りの振動に、俺は一瞬だけ背筋が凍るような感覚を覚えた。
あの人は本気だ。くるみさんを無理やりにでも引き止めるだろう。
「これでいいんだ。くるみさんは、一時的に俺を恨むだろうけど……いつかきっと、目を覚まして、あの時止めてくれてありがとうって言ってくれる」
俺は、血のにじむような力でポケットの欠片を握りしめた。
それが、愛する人の心と、彼女が大切にしていたものをバラバラに打ち砕く行為だとは、この時の俺は夢にも思っていなかった。
ただひたすらに、自分が信じる正義が、誰かを救うと信じて疑わなかった。




