第36話 歪んだ正義の暴走
ホームセンターの駐車場を包む湿った熱気は、わたしの苛立ちを増幅させるようだった。
アスファルトからはゆらゆらと陽炎が立ち上り、強烈な西日の照り返しが網膜を焼くように刺す。
あまりのまぶしさに、わたしは手でひさしを作るようにして、逃げるように車へと急いだ。
胸の奥で渦巻く得体の知れない焦燥感が、呼吸を浅くさせる。
早くこの場所から離れたい。
その一心で足早に歩くわたしの背中に、アスファルトの熱がじりじりとまとわりついた。
「くるみ、そんなに急いでは転びますよ。車は逃げませんから」
背後から響く狐白の穏やかな制止も聞かず、わたしは荒い足取りで車へと向かった。
砂利を踏み締めるジャリッという乾いた音が、今のわたしの乱れた心音を代弁しているよう。
助手席のドアを乱暴に開け、狐白がいつもの優雅な動作で乗り込むのを待ってから、わたしは運転席に滑り込む。
ドアを閉めた瞬間に、車内の密閉された空気がわたしを包んだ。
シートベルトを力任せに引き寄せると、金具がカチリと鋭い音を立てて噛み合う。
その小さな金属音さえ、今のわたしには神経を逆撫でする不快な音に感じられた。
エンジンをかけると、エアコンから生ぬるい風が吹き出す。
それが冷気に変わるのを待つ余裕もなく、わたしはシフトレバーをドライブに入れた。
アクセルを慎重かつすばやく踏み込み、急いで駐車スペースから車を滑り出させる。
「……何なのよ、もう! いきなり現れて、狐白の胸ぐら掴んで……。あいつ、ヤンキー時代から何も変わってないじゃない。暴力で解決しようとするなんて、本当に最低だわ」
ハンドルを握る手に力がこもる。指の節が白くなるほど強く。
小椋くんのあの、勝手に「正義」を背負ったような瞳が、どうしても頭から離れない。
彼はいつだってそうだ。自分の信じた正しさを疑わず、その熱量で周囲を焼き尽くそうとする。
それが、どれほど土足で人の心を踏みにじる行為なのか、あいつはこれっぽっちもわかっていないのだ。
助手席に座った狐白は、困ったような、けれどいつも通り静かな表情で正面のフロントガラスを眺めていた。
視界の端に入る彼の横顔は、沈みゆく夕日に照らされて、磨き上げられた白磁のような滑らかさと冷たさを帯びている。
あまりに美しく、あまりに浮世離れしたその姿を、小椋くんは異常だと判断したのだろうか。
普通とは違う、得体の知れない不気味なものとして。
「くるみ。彼は彼なりにあなたを案じているようでしたよ。……ただ、彼が見ている世界と、わたしたちのいる世界が、あまりに違いすぎるだけです」
「彼をかばうの? 狐白を傷つけたのに?」
「傷ついてはいませんよ。服が少し皺になった程度です。それより、くるみの心がささくれている方が、僕にはつらい」
狐白がそっと手を伸ばし、ハンドルの上に置かれたわたしの左手に、自身の指を重ねた。
生きている人間とは明らかに異なる、わずかな冷たさ。鼓動も、熱も、湿り気もないその感触。
けれど、そのひんやりとした無機質な質感が、わたしの沸騰しかけていた頭を少しずつ、凪のような静けさへと引き戻していく。
わたしは前方の安全を確認しながら、その冷たさに縋るように、わずかに指を絡めた。
けれど、胸の奥にこびりついたドロリとした不快な予感だけは、どうしても拭い去ることができなかった。
信号待ちの隙に、ルームミラーを調整するふりをして、背後のホームセンターを振り返った。
そこには、まだ立ち尽くしている小椋くんの姿。
彼は追いかけてくる様子もなく、ただじっと、こちらが走り去るのを凝視している。
夕闇に沈みかけたその影は、不気味なほどに微動だにしない。
その瞳に宿っていたのは、以前の彼が見せていたような気まずさや申し訳なさではなかった。もっと暗く、粘りつくような決意の色。
(……小椋くん、ずっとこっちを見てる。俺がなんとかしなきゃって、思っているのかも)
何かするつもりなのかもしれない。
小椋くんの性格は、あかねから嫌というほど聞かされている。
彼は一度思い込んだら周囲の言葉が一切耳に入らなくなるところがある。
昔、理不尽な先生に反抗して教室に立てこもった時も、あんな目をしていたとあかねが笑っていた。
あの時は、居場所のない自分をどう表現していいかわからず、周囲に助けを求める術を知らないだけの、不器用な少年の暴発だったけれど――。
今の彼は違う。
妹のあかねという守るべきものができ、家族という枠組みを強く意識し始めた彼は、自分の行動をすべて正しいことだと信じ込んでいる。
誰かのために自分を犠牲にすることさえ厭わないその歪んだ正義感ほど、今のわたしにとって厄介で恐ろしいものはない。
「ねぇ、狐白。……ごめん。引っ越し、もっと急げるかな?」
前方の道路に視線を固定したまま、わたしは震える声で言った。
対向車のヘッドライトが、にじんで見える。
「ええ。くるみが望むなら」
「うん。そうする。あそこなら、小椋くんも来られないよね」
自分に言い聞かせるように言葉を継いだ。
雑貨屋を辞めるつもりはない。お父さんたちと縁を切るつもりもない。
ただ、狐白と二人だけで、誰の目も気にせずに息ができる場所が必要なだけだ。
市街地を抜け、郊外の道へと差し掛かる頃、西日は完全に地平線の向こうへと沈んでいった。
世界が濃い紫色の薄明に包まれていく。
バックミラーの中の小椋くんの姿はもう見えない。
けれど、彼が静かにスマホを耳に当てたあの瞬間から、何かが決定的に壊れ始めたのだという確信だけが、足元から冷気のように立ち上ってくる。
帰宅してからも、わたしの心は落ち着かなかった。
リビングで夕食をともにする気分になれず、逃げるように自室へ戻り、引っ越しのための段ボールを組み立て始める。
ガムテープを引き出す「バリバリ」という乾いた音が、静かな部屋に無機質に響く。
まるで、この家との縁を無理やり引き剥がしているような、嫌な音だった。
棚に並んだ金継ぎの道具を一つずつ、緩衝材で丁寧に包んでいく。
いつもなら、筆一本、漆一滴にさえ愛着を感じ、楽しくてたまらない作業なのに、今はまるで、大切な思い出を慌てて葬っているような錯覚に陥る。
自分の居場所を自分で奪っているような、そんな感覚。
ふと視線を上げると、狐白が入り口のところで静かに立っていた。
薄暗い部屋の中で、彼の白髪だけが月の光を反射しているように淡く光って見える。
「くるみ、あまり根を詰めないように。明日の移動に差し支えます」
「……わかってる。でも、こうして動いてないと落ち着かなくて。小椋くんのあの顔……絶対にお父さんたちに何か言いに来る」
わたしは、狐白の本体であるあの豆皿を手に取った。
白く、滑らかで、完璧な円。
これを守ることだけが、今のわたしの存在理由のような気がした。
これさえあれば、狐白はわたしのそばにいてくれる。
これさえ無事なら、なんとかなる。
わたしたちの居場所は、この小さな皿の中に凝縮されているのだ。
わたしは豆皿を、これでもかというほど丁寧に、最高級の真綿と厚手の布で包み込んだ。
それはまるで、壊れやすい自分の心そのものを包んでいるかのようだった。
階下から、母の話し声が微かに聞こえてくる。テレビの笑い声。食器が触れ合う日常の音。
けれどそのすべてが、今のわたしには薄い膜を隔てた遠い世界の出来事のように思えた。
わたしの愛するささやかな日常が、音を立てて崩壊していくためのカウントダウン。
その秒針の音が、静かな夜の底で、確実に、刻一刻と刻まれている。
本当は、すぐそこまで危機が迫っていることに気づいているのに、わたしはまだ、それを一時的な嵐だと思い込もうとしていた。
「大丈夫ですよ、くるみ。僕は、あなたのそばにいますから」
狐白の優しい声が、不吉な予兆をかき消すように耳元でささやかれた。
わたしはその言葉を命綱にするように噛み締め、真綿に包まれた豆皿を、壊れないように、強く、強く抱きしめた。




