第29話 散蓮華を繕う ~和紙を巻く~
棚へ行って戻ってきた埴安さんの手には、繕い途中のマグカップがあった。
どっしりとした安定感のあるフォルムは、笠間焼の特徴である。
繕っているのは、マグカップの持ち手のようだ。
持ち手の真ん中あたりに茶色の線が見える。
麦漆で接着したあと、余分な漆を削るところまで終わっているのだろう。
いつもの流れだと、錆漆で隙間を埋めるか中塗りと研ぎに進むところだけれど……。
「持ち手がちょっと華奢なんだよな」
埴安さんの言う通り、このマグカップは少しバランスが悪い。
マグカップ本体には笠間焼らしい重厚感があるのに、持ち手が細いのだ。
おそらくだけど、このマグカップは陶芸体験とかで素人が作ったものなんじゃないかな。
ところどころ歪で、それがいい味を出している。
「ところで、お嬢さんはマグカップとコーヒーカップとティーカップの違いって知ってるか?」
残念ながら、コーヒーカップの知識はない。
喫茶マリーのマスターに聞いておけばよかった。
「マグカップは筒状になっているやつですよね? ティーカップは縁が……花みたいにふわっと広がっているイメージです」
両手でチューリップが咲いたようなジェスチャーをすると、埴安さんが笑いをこらえながら「かわいいな」と言った。
「え」
かーっと顔が赤くなる。
そばに控えていた狐白が「からかわないでください」と埴安さんの視界からわたしを隠した。
「悪い、悪い。もう言わないから、許してくれ」
威嚇する狐白に、埴安さんは早々と白旗を上げる。
マグカップの状態を確認しながら、埴安さんは言った。
「持ち手のついた筒状の大きなカップがマグだ。マグカップと呼ぶのは、日本独自の文化だな。コーヒーカップは冷めにくいように厚みがあって、飲み口が狭い。逆にティーカップは紅茶を冷まして飲むために、薄くて飲み口が広くなっている。お嬢さんが言う花みたいっていうのは、あながち間違いでもない」
「なるほど……!」
「くるみ、くるみ。僕だって違いを知っていますよ。紅茶は透明度が高くて内部が透けて見えるので、カップの内側に美しいデザインが施されていることが多いのです」
「確かに。ティーボウルの内側には絵が描いてあったものね」
埴安さんに負けまいと自分の有能さをひけらかしてくる狐白は、とてもかわいい。
見た目は胡散臭いけれど、中身は真摯でひたむきなあやかしなのだ。
「さて。雑談はこれくらいにして、作業を始めるとするか」
埴安さんはマグカップをいったん作業台の上へ置くと、棚から和紙といくつかの道具を持ってきた。
「まずはこの和紙をくいさきにして引き裂く」
「くいさき?」
初めて聞く言葉だ。
想像するに、緊急時に包帯が必要で服を噛んで裂く――みたいな感じだろうか。
(食い裂き?)
首をかしげているわたしの前で、埴安さんは和紙の端を細く折りだした。
折り目に筆で水をつけて湿らせてから、ひも状にちぎっていく。
「……これが、くいさきですか?」
「なんだ、知らないのか。くいさきっていうのは水でふやかしてから引き裂く切断方法だ。継ぎ目がなだらかでやさしくなる」
カッターで切った時はスパッとした断面になるけれど、くいさきにすると繊維が木の根のようになるようだ。
これなら、大地に根を張る木のようにしっかりとくっついてくれそう。
「ガラス板に麦漆を薄く塗って、その上に和紙を置く。そうしたら、ヘラで和紙に麦漆を馴染ませる」
卵液につけたフランスパンみたいに――わたしは日にちが経ったフランスパンをフレンチトーストにするのが好きだ――じゅわじゅわ染まっていく。
白かった和紙が、麦漆をまとってこげ茶色に染まった。
「ん?」
その時、和紙の端っこが染まっていないのを見て、わたしは指さした。
「埴安さん、ここは塗らなくていいんですか?」
「ああ、そこはいいんだ。巻きつける時に手で持てるように、あえて塗らないでいる」
「なるほど、それでですか……」
「俺は麦漆を使うが、のり漆を使う人もいるぞ」
「のり漆って何ですか?」
「上新粉と水を混ぜて鍋で炊いたものに生漆を混ぜたものだ。麦漆よりも粘りが弱いが、乾くのが早い」
上新粉は、うるち米を精白・水洗いして、乾燥させてから粉にしたものだ。
粘りはなくて歯切れのよい食感なので、お団子や柏餅なんかに使う。
つくづく思うけれど、昔の人たちってすごい。
今よりはるかに不便だっただろうに、身近にあるもので繕う方法を確立したのだから。
(便利な接着剤を使うのもいいけれど、自然や体にやさしい方法もあるって忘れないでいたいな)
昔話の舌切り雀ではご飯で糊を作ったシーンがあるし、わたしが知らないだけでいろいろあるのかもしれない。
散蓮華の繕いが終わったら、調べてみるのも面白そうだ。
「よし、次にいくぞ。和紙に麦漆を塗ったら、竹ヘラでそっと持ち上げて……。これを接着したところに巻いていく」
麦漆を塗らなかった部分を持って包帯のようにぐるぐる巻きつけていく。
持ち手とマグカップ本体の間隔はそれほど広くないから作業はやりづらそうだけれど、埴安さんはすいすい巻いていく。
さすが、埴安さん。わたしだったら、あちこち麦漆をつけているところだ。
「和紙を巻きつけきったら、塗り残していた部分にも漆がなじむように竹ヘラで整えて……」
今日はここまで、と埴安さんはマグカップを作業台へ置いた。
和紙を巻いた部分が黒々としている。
気のせいか、強そうだ。
ボディビルダーが日焼けする理由が少し分かったかもしれない。
「次の作業は、漆風呂で一週間ねかせてからだな。散蓮華の接着も一週間くらいかかるだろうから、続きは来週な」
マグカップを持って漆風呂へ向かう埴安さんを見送り、わたしは散蓮華の接着にとりかかるのだった。