第26話 自立宣言
実家の夕食は、いつも通りの、それでいてわたしにとっては窒息しそうなほど窮屈な時間だった。
食卓の中央には、あかねの恋人である小椋くんの話題が、まるで唯一の正解であるかのように居座っている。
「小椋くん、今度のプロジェクトでリーダーに抜擢されたんですってね。あかねは見る目があるわ。若いうちからそうやって責任ある仕事を任されるなんて、将来が楽しみねぇ」
父が満足げにうなずき、母もうっとりとあかねの将来を語る。
あかねは少し誇らしげに、けれど当然のことのようにその言葉を受け止めていた。
家族が守ろうとしている幸せの形は、とても明確だ。
安定した仕事、誠実な伴侶、そして世間から「まとも」だと思われる暮らし。
それは決して悪いことではないし、親が娘の安泰を願うのは当然の愛情なのだと思う。
けれど、その輪郭が鮮明であればあるほど、そこからはみ出しているわたしの居心地は悪くなる。
そんな静かな緊張感を、母の何気ない、けれど鋭い一言が破った。
「……それでくるみ。あんた、さっきから何のにおい? なんだか、ツンとするような……。あんたが帰ってくると、いつも変なにおいが部屋にこびりつくのよ」
母が箸を止め、心配そうに、けれど探るように鼻を動かした。
わたしは心臓が跳ね上がるのを感じた。
「え……そんなこと……」
「とぼけないで。あかねが言ってたわよ。あんたが最近、仕事帰りに変な場所に入り浸ってるって。雑貨屋のシフトでもないのに、夜遅くにこっそり出歩いて……。くるみ、変なことに巻き込まれているんじゃないでしょうね」
視線を向けると、あかねが気まずそうに、けれど必死なまなざしでわたしを見ていた。
「だっておねーちゃん、最近ずっと隠し事してるみたいだったから……。心配で、この前あとをつけたのよ」
耳を疑った。
実の妹に、尾行されていたなんて。
「つけていたの?」
「そうよ! そうしたらおねーちゃん、袋小路の突き当たりにある、今にも崩れそうなボロボロの家の前で、急に影が消えるみたいにいなくなったのよ。慌てて追いかけたのに、そこには行き止まりの壁しかなくて……」
あかねの声が震え、次第に必死なトーンに変わっていく。
「迷子になって一時間くらい探して、もう一度そこに戻ったら、おねーちゃんが何食わぬ顔でその家から出てきたのよ。……しかも、あんな不気味な場所で、見たこともないようなきれいな男の人に見送られてさ」
あかねの言葉に、食卓の温度がさらに数度下がった。
父の目が、厳格な色に変わる。
「あの男の人、人間じゃないみたいに整った顔をして、変な服装で……。あんな人が、あんなボロ家に住んでるなんて絶対におかしいわ! おねーちゃん、あんなところで何をされているのよ? 金継ぎなんて、ただの口実でしょ! しゅんだって、おねーちゃんがそんな不審な場所や男と関わりがあるって知ったらどう思うか考えたことある?」
「……金継ぎに、不審な男だと?」
父が重々しく口を開いた。
「そんな得体の知れない場所へ、夜な夜な出歩いていたのか。しかも、妹にそんな恐ろしい思いをさせてまで。くるみ、おまえが心配だから言うんだが、そんな場所へ行くのはすぐにやめなさい。その男とも、今日限りで縁を切れ。わかったな」
それは、彼らなりの“娘を守るための正論”だった。
けれど、その言葉はわたしの足元にある大切な世界を、一瞬で“不気味で恥ずべきもの”へと塗り替えていく。
わたしは、自分が震えていることに気づいた。
無意識に、ポケットの中に手を入れる。
ハンカチに包まれた小さな豆皿。
指先がその磁器に触れた瞬間、じんわりとした確かな熱が伝わってくる。
(……大丈夫。くるみ、僕はここにいますよ)
脳裏に、狐白の澄んだ声が響いた。
不思議と、震えが止まる。
わたしは、静かに箸を置いた。
「……やめないよ」
声は、自分でも驚くほど低く、透き通っていた。
「何だと?」
「やめないと言ったの。そこは、お父さんたちが思うような不気味な場所じゃない。割れてしまった大切な思い出を、もう一度繋ぎ合わせる仕事をしているところよ。……埴安さんは、わたしにその道を教えてくれる唯一の師匠。誰が何と言おうと、わたしは金継ぎをやめない」
「お、おねーちゃん、正気……?」
あかねが絶句する。
わたしは彼女をまっすぐに見据えた。
「あかね、心配してくれたのはわかるけど、つけるなんてやり過ぎ。生き方を制限されるのは、もううんざりよ……お父さんも、お母さんも」
わたしは初めて、家族を真っ正面から見返した。
そして、心の中にずっとあった決定的な言葉を放つ。
「来月、ここを出るから。工房の近くに住むところを借りることにしたの。もう契約も済ませてある」
「……勝手なことを! 誰がそんな生活を許すと言った!」
父が叫んだが、その声に以前のような威力は感じられなかった。
「お父さんが許さなくても、わたしは出ていく。雑貨屋の仕事は続けるし、生活には何の問題もない。……これ以上、お互いのために干渉し合うのはやめよう。お父さんたちは、お父さんたちの信じる幸せを。わたしは、わたしの信じる道を歩く。それだけだよ」
わたしは席を立った。
背後で重い鎖が砕け散るような解放感を全身に感じる。
ポケットの中の豆皿が、誇らしげに、確かな重みをもってわたしの歩みを支えている。
明日からはもう、自分を偽る必要もない。
わたしはわたしの手で、バラバラだった自分自身を、金継ぎのように美しく繋ぎ直していくのだ。
暗い夜の向こう側、あの不思議な工房へと続く路地が、今だけはっきりと見えた気がした。




