第2話 電車に飛び乗って
「なるほどねぇ。それならさ、家を出ちゃってもいいんじゃない?」
職場からの帰り道。
帰りたくないなぁと足取りも重く駅へ向かっていたわたしに、事情を聞いた鴨志田さんはあっけらかんとそう言った。
「やっぱりそう思いますか……」
鴨志田さんは、わたしが勤務している雑貨屋『グラン』の同僚だ。
三十歳の彼女は、ベリーショートの髪にすらりとした長身で、シャツとパンツを颯爽と着こなしている。
同じ長女仲間ということもあって、わたしはよく家族の愚痴をこぼしていた。
「……一人暮らしかぁ」
考えていないわけではなかった。
けれど、すぐに行動に移せなかったのは、執着に近い後ろめたさがあったからだ。
古くさいと言われればそれまでだけど、わたしは米川家の跡継ぎとして育てられてきた。「いずれは婿養子をもらって、この田畑を守るんだよ」という両親の言葉を、疑いもせず背負い込んできたのだ。
(居場所がないって思うのに、まだ必要とされているかもしれないって、期待を捨てきれないんだわ)
自分に自信がないから、誰かに求められることでしか大丈夫だと思えない。
そんな自分が情けなくて、カバンの中をそっとのぞく。
ハンカチに包まれた、欠けた豆皿。
一番の理解者だったはずの親友を傷つけられた痛みが、伝わってくるようだった。
勇気を出して、鴨志田さんに「どうしたら自分を認められますか」と口を開きかけた、その時だった。
「あ、私こっちだから。くるみちゃんは明日、お休みだよね?」
「えっ? あぁ、はい……」
ハッとなって顔を上げると、いつの間にか水戸駅の改札を通過していた。
鴨志田さんはいわき方面。わたしは上野方面。降りる階段が違う。
共働きで二人の子どもを育てる母である彼女をこれ以上引き止めるのは申し訳なくて、わたしは尋ねる言葉を呑み込んで「おつかれさまでした」と告げた。
「そうそう。ストレスがたまっているならさ、いつもと違うことをしてみたらどう? たまの悪いことって、スリリングで気持ちいいよ」
フフッといたずらに笑って、鴨志田さんは階段を下りていった。
……たまの悪いこと。
お酒もタバコも嗜まないわたしにとって、それは縁遠い言葉だ。
寄り道もせずまっすぐ帰り、夕飯の支度の手伝いをして、自室で刺繍をする。
そんな『いい子』のルーティンが、今のわたしを縛り付けている鎖そのものだった。
五番線ホーム。
ちょうど滑り込んできたのは、いつもの上野方面行きではなく、JR水戸線の小山行きだった。
ベンチに腰掛けると、ふと笠間稲荷神社の看板が目に留まった。
初詣にも行けていない。
豆皿も欠けてしまった。
厄日のような毎日を変えるには、今のわたしには神頼みくらいしか思いつかない。
「……今から行ってみようか」
今から行けば、夕飯の支度には間に合わない。
「どうして遅くなったの?」と母に怪訝な顔をされるだろう。
リビングでは、あの小椋くんが当然のような顔をして座っているに違いない。
想像するだけで、動悸がした。
でもそれ以上に、帰りたくないという本能が勝った。
『行こう』
構内にアナウンスが響く。
わたしは逃げるように、あるいは自分を取り戻しに行くように、吸い込まれるようにして列車のドアをくぐった。
動き出した景色を見ながら、わたしはカバンの中の豆皿をぎゅっと握りしめた。




