第15話 つくも神の応援
休みの日は、昼前に家を出るようにしている。
早いと小椋くんと遭遇してしまうし、遅くても母から「休日なのに一緒に過ごす人がいないの?」と質問攻めされてしまうからだ。
鴨志田さんといい母といい、わたしの恋愛事情に興味津々すぎでは?
すでに相手がいると、いない人が気になるのだろうか。
余計なお世話と言葉が出かかって、飲み込むこともしばしばだ。
門前通りに到着すると、するりと狐白が姿を現した。
工房へ向かう道すがら、二人で相談しながら差し入れを探す。
今日の差し入れは、くるみ入り稲荷寿司にした。
炒ったくるみと白ごまの食感が癖になる、甘めの稲荷寿司だ。
油揚げの切れ端をおまけにもらって上機嫌なわたしの隣で、狐白がニコニコと微笑んでいる。
「良かったですね、くるみ」
慈しむような目を向けられて、複雑な気分になった。
愛でていたのはわたしなのに、今はわたしが愛でられている。
たぶん、子供扱いされているのだと思う。
そうされるだけの年の差があるから仕方がない。
狐白の笑みは胡散臭いけれど、不思議と落ち着く。
シャープな輪郭にキリッと鋭い目。細い鼻に薄い唇。
典型的なキツネ顔だ。
「うん。お味噌汁にして、みんなで食べようね」
「お手伝いします」
「ありがとう。楽しみだね」
チャイナ風のボタンシャツは、狐白の痩身によく似合っている。
暑くなってきたし、浴衣や甚平を着せてみたい。
手足が長いから、きっと映えるだろう。
こうして堂々と二人並んで門前通りを歩けるのは、宇賀野さんのおかげだ。
つくも神は本来、見鬼の才がないと見ることができない。
今こうして誰の目にも映るようになっているのは、宇賀野さんの術のおかげだった。
どういう仕組みかは分からないけれど、今の狐白は人間の男性に見えている――らしい。
わたしの目には、狐耳と尻尾がついているコスプレお兄さんにしか見えないのだけれど。
宇賀野さんって何者なんだろう?
聞こうとするといつも煙に巻かれてしまって、聞けないままだ。
(術を使うっていうと、イメージするのは陰陽師だけど……。でも、そんな感じではないんだよねぇ)
つくも神を見えるようにしたり、繕い手の気配を感じ取ったり。
特別であることは確かだけれど、宇賀野さんはいい人だ。
とりあえず今は、深く考えないでいよう。
独り言をしゃべるあやしい人にならずに済んでいるのだ。それで十分。
「こんにちはー……あっ」
いつも通りに玄関から工房に入ると、先客がいた。
「それでは、よろしくお願いします」
話を終えたところだったのか、老紳士は立ち上がって深々と頭を下げた。
そしてすっと背を伸ばし、上着と鞄を持つ。
見覚えのある後ろ姿に、わたしは目を見開いた。
姿勢の良い立ち方に、ちょこんと結わえたロマンスグレーの髪。
今は見えないけれど、わたしの予想通りなら丸い眼鏡をかけているだろう。
白いシャツの胸元では、ループタイについているカメオの中で女性が微笑んでいるはず。
名前は知らない。
けれど、わたしは彼を知っている。
「マスター?」
わたしの呼びかけに、老紳士が振り返った。
振り返った顔にはやはり、丸い眼鏡がある。
カメオループタイもつけていた。
喫茶マリーの店主。
みんなからマスターと呼ばれている人だ。
酸いも甘いも噛み分ける大人の男性。
ダンディという言葉がよく似合う。
「おや、こんにちは。お店の外で会うのは初めてですね」
しっとりと落ち着いた低音の声で、マスターは言った。
「そう、ですね……」
マスターとは喫茶マリーでしか会ったことがなかったから、それ以外の場所で会うと違和感があった。
見てはいけないものを見たような、落ち着かない気持ちになる。
わたしの動揺を感じ取ったのか、マスターは穏やかな笑みを浮かべて会釈した。
「ではまた、お店で」
「あっ、はい、また……」
年齢のわりにシャキッとした背を見送ったあと、わたしは工房に駆け込む。
「あの、今のお客様って……」
そんなわたしを、物言いたげに見つめる目が二対――宇賀野さんと埴安さんだ。
(なんか……わくわくしてる?)
首をかしげるわたしに、背後で狐白がフフッと笑う。
そして、彼はこそっと囁いてきた。
「くるみ。作業台の上を見てください」
目に入ったのは、繊細な花柄が印象的な湯呑み茶碗。
ぱっくりと割れたそれは、昨日、喫茶マリーで見かけたものだ。
「え……」
偶然にしてはできすぎている。
工房を訪れたのは、その件を相談するためだったのだから。
週に数回の頻度で五年ほど通う客とはいえ、わたしとマスターはほとんど会話したことがない。
そんなわたしが突然「繕うので茶碗を貸してください」と言っても困らせるだけだろう。
経験豊富な宇賀野さんや埴安さんなら、良いアドバイスをくれるに違いない。
そう思って、こうしていそいそと稲荷寿司を持ってきたわけだ。
でもまさか、相談する前にマスターが来ているなんて。
(偶然……なわけないか)
十中八九、後ろにいる狐白のしわざだろう。
なにせ、彼は常にわたしと一緒にいる。
宇賀野さんと埴安さんの態度を見るに、彼らも手を貸したに違いない。
一体、どうやって?
また不思議な術を使ったのだろうか。
やり方は分からないけれど、これだけは分かる。
(三人とも、金継ぎをやってほしいって思っているんだろうな)
狐白を繕って以来、わたしは埴安さんの作業を見るだけに留めていた。
埴安さんは「目で見て技を盗め」なんて言わない。
わたしが自分で決めてやっていることだ。
正直に言えば、怖かった。
神を繕うということも、繕ったあとに負うであろう責任も。
(一人で背負うのが怖い)
そんな覚悟、誰からも求められていないことは分かっている。
けれど、考えてしまうのだ。どうしても。
わたしの臆病な気持ちを誰よりも理解していたのは、物心つく前から一緒にいた狐白だった。
そばにいることを教えるように、狐白はわたしの手を取る。
ひんやりとした手が、わたしの手を包み込んだ。
「一緒にやりましょう」
たった一言。
その一言で、あれほど重たかった腰がすっと上がった。