第14話 喫茶マリーの湯飲み茶碗
昼休み。
しっかり者の鴨志田さんにしては珍しく寝坊して弁当を作れなかったそうで、一緒に喫茶店へ来ていた。
喫茶マリー。
通い始めた時はご夫婦でされていたけれど、一年前に奥さまが亡くなってからはマスターだけでまわしているこぢんまりとした店だ。
しかし、店の大きさに侮ってはいけない。
ここの柚子胡椒パスタと手作りプリンは絶品なのである。
昼のピークを過ぎた時間だからか店内はほどほどに空いていて、世間話に花を咲かせる女性たちの声がちらほらと聞こえてくる。
食後のデザートを待つわたしの不意を突くように、鴨志田さんは言った。
「くるみちゃん……最近、仕事が終わるとすぐ帰るよね。もしかして……彼氏できた?」
「かっ彼氏ぃ⁉︎」
狐白と埴安さんの顔が浮かんで、アイスカフェオレを吹き出しそうになった。
むせるわたしに、店内のそこかしこから視線が集まる。
カウンターの向こうで作業していたマスターが、顔を上げてわたしを見た。
「すみません……」
しおしおと背を丸めるわたしに、鴨志田さんは眉を下げた。
「ごめん、くるみちゃん……」
マスターが作業に戻ると、お客さんたちの視線も自然と逸れていく。
ホッと胸を撫で下ろしながら、アイスカフェオレを飲んだ。
喉の違和感が落ち着いたところで、わたしは声を抑えて鴨志田さんに言った。
「本当に、彼氏とかそんなんじゃないんですよ」
心の底から申し訳なさそうに告げれば、鴨志田さんはさらに眉を下げた。
「ご期待に添えず申し訳ないです」
「いや、私が勝手に勘違いしただけだから。でも、私以外にも勘違いしているスタッフはいると思う」
「わたしが恋をしているんじゃないかって?」
「ええ」
ナチュラルなワンピースを着ていた二十代女性が突然服装を変えれば、好きな人の好みに合わせていると思われても仕方がない。
家に帰りたくないと重い足を引きずるように帰っていた人がそそくさと帰るようになれば、何か良いことがあったに違いないと思われるに決まっている。
(思い返してみると、恋する乙女の行動に見えなくもない……かも?)
少しずつ姿を変えていく狐白に気持ちが浮き足立っていたのは認める。
それに、彼氏ではないけれど良い出会いはあった。
宇賀野さん、埴安さん、そしてつくも神の狐白。
あの日、鴨志田さんの一言がなければ、彼らとの縁はたぶん――結ばれなかった。
わたしは今でもナチュラルなワンピースを着ていただろうし、欠けた豆皿を眺めては鬱々とした気分になっていただろうし、家に帰りたくないと足取りも重く帰路をたどっていただろう。
そう思うと、感慨深い。
「居心地が良い場所を見つけて、通っているんです。ほら、前に鴨志田さんがアドバイスしてくれたことがあったでしょう?」
「前におすすめしたバー、行ったんだ?」
「いえ。わたし、お酒は好きじゃないので」
「え、それ以外に何かアドバイスしたっけ?」
アイスコーヒーの氷をカラカラと揺らしながら、鴨志田さんは首をかしげた。
「一カ月くらい前ですかね。ストレス解消には悪いことをしたらいいって言っていましたよ。だからわたし、神社を参拝したんです」
「神社って……。また渋いチョイスをしたものねぇ」
悪いこととは正反対じゃない、と鴨志田さんはクスクス笑った。
「バーのことを言っているんだろうなぁとは思ったんですけど……」
「うん。たぶん私、そのつもりでアドバイスしたと思う。あのバー、店もお客さんも雰囲気がいいのよね。だからこそ、彼氏だって勘違いしちゃったわけだけど」
「ははは。でも、神社の看板を見たら、今だ!って思ったんですよね」
「ああ、聞くわよね。神社に呼ばれるって。じゃあその居心地が良い場所って、神社のことなの?」
「いいえ。でも、運命の出会いがありました」
宇賀野さんとの出会いは忘れられない。
おいでと手招きする宇賀野さんを、わたしはしみじみと思い出した。
「運命の出会い⁉︎」
恋愛話の気配を感じ取ったのか、鴨志田さんの目がキラリと光る。
期待されていることをひしひしと感じた。
(残念ながら、恋愛の話ではないんだけど……)
ライフステージが変わると、恋愛話をする機会がなくなっていくものらしい。
わたしはまだそういう時期にはなっていないけれど、一人二人と友人たちが結婚するにつれ、少しずつ実感していくのだろう。
デートの作戦を考えたり、告白のタイミングについて話し合ったり……。
あのワイワイした時間が懐かしいわ――と鴨志田さんは言っていた。
もちろん、これから話す内容は恋愛話ではない。
でも、わたしにとっては人生の分岐点といっても過言ではないくらい、大きな出来事だ。
そのきっかけをくれた鴨志田さんには、感謝している。
だからこそ、伝えておきたいと思ったのだ。
「出会ったのは綺麗なご婦人なんですけどね」
「おねえさん……?」
「とっても素敵な方なんです。お気に入りの豆皿が欠けてうじうじしていたわたしを、わざわざ工房に案内してくれて」
「工房って、何の?」
「壊れた器を直してくれる、金継ぎ工房です!」
「金継ぎ……。ああ、少し前にテレビで見たかも。漆でくっつけるやつでしょう?」
「ええ、それです。紹介してもらった工房は、埴安さんっていう歌舞伎役者みたいなイケメンがやっているんですけど――」
それからわたしはデザートがくるまで、金継ぎについて話した。
デザートの到着がいつもより遅かったのは、おそらくマスターの配慮だろう。
もしかしたらマスターも、耳をそばだてて聞いていたのかもしれない。
だって帰りがけに見た割れた湯飲み茶碗には、試行錯誤したあとがあったから。
きっとマスターにとって大切な品なのだろう。わたしにとっての狐白のように。
わたしはまだ見習い以下の存在だけれど、何かできることはないかと思わずにはいられなかった。