第12話 豆皿のつくも神
仕上げと言っても、作業が一つとは限らない。
金継ぎのハイライトとも言える《粉蒔き》が終わったあとは一晩漆風呂で寝かせて、《粉固め》という作業に入る。
粉固めは、蒔いた金粉を漆で固める作業だ。
テレピン油と生漆を混ぜたものを塗って、ティッシュで拭き取る。
せっかく塗ったものを拭き取るなんて無駄に思えてしまうけれど、粉の間にわずかに残った漆がしっかり粉を固着してくれるので、それくらいがちょうどいいらしい。
粉固めが終わったらまた一晩漆風呂で寝かせて、最後の作業――《磨き》をする。
「今の段階では、まだ色がくすんでいるだろう?」
「鈍い金色っていうんでしょうか。これはこれで、味わいがありますけど……。正直に言っていいですか?」
「何」
「辛子蓮根みたいだなって」
埴安さんはケタケタと笑った。
「お嬢さん、意外といける口か?」
油が入った瓶をお猪口に見立ててクイッと傾ける埴安さんに、わたしは曖昧な苦笑を浮かべた。
「お酒ですか? 二日酔い知らずのザルですけど、飲むのは甘い果実酒ばかりですね」
「くるみさん、果実酒がお好きなの? わたくし、毎年梅酒を漬けているから今度持ってくるわね」
「うまいんだよなぁ、宇賀野の梅酒。期待していいぞ、お嬢さん」
「ふふ。楽しみです!」
未来の約束にワクワクしているわたしの隣に、埴安さんが腰掛ける。
「さぁて、そろそろ磨くか」
埴安さんが作業台の上に並べたのは、みがき粉となたね油だ。
「まず油を指につけて、ごく少量のみがき粉をとる。そして、金粉の粒をつぶして光らせるように磨いていくんだ」
自分のものとは違う男性らしい指先が、キュッキュッと器を磨く。
埴安さんの整った容姿も相まって、食器洗い洗剤のCMを見ているようだ。
「油分を絡め取ると、だんだんと霧が晴れるように艶が出てくる」
指を離して、仕上がった器を見せてくれる埴安さん。
彼が言うとおり、器の金は艶やかに輝いていた。
わたしは俄然やる気になって、狐白を手に取った。
指先に油をつけて、砥石粉をとってから磨く。
キュッキュッと指先を動かすたびに、狐白が熱を帯びていくような気がする。
(まるで人肌に触れているような――)
そんなわけがない。きっと摩擦だろう。
そう思った時だった。
「やったな!」
「見事な腕前ですわ!」
宇賀野さんと埴安さんが喜色をあらわに叫んだ。
訳が分からず手を止めるわたしに、二人は「え」と顔を見合わせる。
「お嬢さん。もしや、見えていないのか?」
「見える? 何がです?」
「くるみさん。つかぬ事をお聞きしますが、この工房の中にいるのはわたくしと埴安だけですか?」
「そう、ですね。見える範囲では」
一体二人は何を焦っているのだろう。
質問から察するに、この工房にわたしと宇賀野さん、そして埴安さん以外の誰かがいるみたいだけど……。
(他に誰もいない……よね?)
周りを見回してみても、目をこらしてみても、何も見えない。
「どうしよう、宇賀野。お嬢さん、見えてないみたいだぞ。わわっ、そんなにションボリするなって。なんとかしてやるから」
埴安さんのしぐさから察するに、そのナニカはわたしの隣にいるらしい。
目の高さは埴安さんと同じくらいで、どうやらションボリしているみたい。
「この工房に来られるということは、素質はあるはずですわ。きっかけが必要なだけでしょう」
宇賀野さんは「あらあら」と微苦笑を浮かべると、わたしの後ろへ移動してきた。
「くるみさん、少し失礼しますわね」
わたしの背後に立った宇賀野さんは、バッグハグをするみたいに後ろから腕を回してくる。
お香とも香水とも違う不可思議で魅力的な香りが鼻をくすぐり、心臓がドキドキと脈打った。
「こん、こん」
言いながら、宇賀野さんはわたしの顔の前で手を組んだ。
両手で狐を作って、交差させて耳を合わせる。
「こーん」
鼻面の部分になっていた指を開いて、中央の穴をわたしの目に近づけた。
知っている。これは、狐の窓だ。
指を特定の手順で組み、その間を覗くとあやかしが見える。
窓から覗いた世界は、それまでわたしの目に見えていたものとだいぶ違った。
学校の木工室のような工房は昔の病院のようになっていて、繕い待ちの器を並べている棚がある辺りは待合室のように椅子が並び、たくさんの影が座っている。
「これは……」
「どう? 見えるかしら」
「見えるって……この病院みたいな風景がですか?」
「ええ、そうよ。そろそろ……慣れてくる頃かしら。手を外すわね」
そう言うと、宇賀野さんは狐の窓をそっと外した。
けれどもう、わたしの目は以前のような風景は見えない。
狐の窓を通して見た風景が、続いている。
「くるみさんは見鬼の才が少し弱いみたいだから、補助する術をかけてあげたわ。これで、あの子を見ることができるはず」
いつの間にか、手にあった狐白がなくなっていた。
慌てて見回すわたしの視界に、ぴょこっと三角の耳が入ってくる。
視線を下げると、狐の耳と尻尾を持つ青年が体を丸めてこちらを見上げていた。
ちまっと摘まんでいるのは、わたしの服だ。
遠慮がちに、だけど離れたくないという強い意志を感じる。
細くつり上がった目は胡散臭さがあるけれど、不思議と警戒心を抱かせない。
それはたぶん、青年が首をかしげているから。
青灰がかった白色の髪といい、小麦色の肌といい――狐白っぽさが随所にじみでている。
白髪に混じる金髪は、おそらく繕ったあとだろう。
「狐白」
言われなくても分かった。
彼はわたしが愛する豆皿――狐白なのだと。
わたしの呼びかけに、青年の表情がパッと華やぐ。
太くてモフモフの尻尾が嬉しそうに左右に揺れるのが見えた。
「あなたは、豆皿のつくも神なのね?」
「はいっ」
狐白がつくも神だったらいいのにとは思っていたけれど、実際に目にすると想像以上に衝撃的だ。
わたしの想像では豆皿に手足が生えたような姿だったから、目の前にいるファンタジーな生き物に驚きを隠せない。
「ありがとうございます、くるみ。おかげでつくも神に戻ることができました」
「ええと、どういたしまして?」
「ふふ。なんて奥ゆかしい。あなたはこの奇跡を理解できていないのでしょうね。危なっかしくて、かわいらしくて……子どもの頃から目が離せない」
狐白はそう言って、感極まった顔でぎゅっとわたしを抱きしめた。
「ああ、ようやくあなたを抱きしめることができました。いつも抱きしめられてばかりだったので、嬉しいです」
嬉しい、幸せ。
歓喜の感情をこれでもかと向けられて、どうしたらいいのか分からない。
狐白の肩越しに、喜びにむせび泣く宇賀野さんと埴安さんの姿が見えた。
(助けて!)
願いもむなしく、わたしは夜の帳が下りるまで抱擁され続けたのだった。