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リトルライズ

作者: 佐藤瑞枝

1.直


「結婚しよう」


夏希さんの声が響いた。それは、シャトルが空に大きな弧を描いて落ちてくる瞬間のことだった。びっくりしたぼくはかたまってしまい、あわてて前に踏み出したときには遅かった。ぼくは前のめりに転んでしまい、シャトルはこつんとラケットの端にあたって、ずっこけたみたいに地面に転がっていった。


「そこ、ちゃんと受け止めて返すとこだよ」


夏希さんはそう言って笑った。差し出された夏希さんの手につかまり、ぼくはふらふらと立ち上がった。


早く返事をしなければ。そう思っていたのに。


「わたしの勝ちだよ。約束通りリッチェルズのミルクレープおごりね」


何事もなかったように夏希さんがそう言って、にんまりと笑ったので、ぼくはすっかり答えるタイミングを失ってしまった。


「ああ、やっぱりモンブランにしようかなあ」

「それともベリータルト?」


三つ年上だけれど、子供みたいに無邪気な顔をしてみせる夏希さんがぼくは愛しくてたまらない。ほとんど気が狂いそうなほどだ。


「結婚しよう」


もう一度言ってくれたら、今度こそ夏希さんを抱きしめてやりたい。それなのに、


「あのさ、さっき公園で」


言いかけたぼくを置いて、夏希さんはどんどん先に行ってしまう。


「何? やっぱり二ついいって?」


ふりむいて笑う夏希さんがまぶしい。


夏希さんは元気になった。はじめて会った時よりもうんと。たくさん食べるようになったし、たくさん笑うようにもなった。


「全部、直くんのおかげ」

「あの時、わたしを助けてくれたから」


夏希さんは言うけれど、本当はぼくじゃない。半年前、駅のホームで夏希さんを助けたのは別の男だ。

そのことをぼくはいまだに夏希さんに言えずにいる。


あの日、電車がホームに入ってくる直前に、夏希さんは貧血をおこして倒れた。夏希さんの後ろに並んでいたぼくは、目の前の女の人が突然視界から消えたのでびっくりした。何が起きたのかわからず立ち尽くすぼくの横で、夏希さんの腕を捕まえたのは、となりに並んでいた男だった。男が夏希さんの身体を思い切り引き寄せたのだ。夏希さんは線路に転落せずにすんだ。

次の瞬間、電車が勢いよくホームに入ってきた。思わずその場にしゃがんだぼくは、地下鉄のぬるい風がぼくの頬をはたいていくのを感じていた。もしも彼女が線路に落ちていたらと思うと、ヒヤッとして、心臓はバクバク鳴りっぱなしだった。


「悪い、俺、行かなきゃいけないんだ。あと、たのんだよ」


男はそう言って、夏希さんとぼくを残し、人ごみの中へ消えて行った。やがて駆けつけた駅員が、夏希さんを医務室に運んだ。あとをたのんだと言われた手前、なんとなくその場を去りがたく、ぼくは夏希さんに連れ添った。夏希さんが目を覚ますまでそばにいた。

そのまま夏希さんを自宅まで送り、連絡先を交換した。


「助けてくれたお礼がしたい」


一週間後、夏希さんから連絡があった。今思えば、ぼくはあの時本当のことを言うべきだったのだ。夏希さんは、今でも彼女を助けたのはぼくだと信じ切っている。


このまま嘘をついたままでいいなんて思っていない。けれど、本当のことを言ったら、夏希さんはきっとぼくを軽蔑する。


夏希さんが、ぼくから離れて行ってしまう。


そのことが、ぼくは怖くてたまらない。夏希さんと出会って、半年という時間を重ねてしまった。ぼくはもう夏希さんを知らなかった日のぼくにもどれないでいる。


2.サチ


週三日、デイサービスに迎えにやってくる青年はとても感じのいい子だ。直という子だ。あたしにとっては孫みたいなもんだ。息子や嫁とちがってあたしのことを老人扱いしないのがいい。デイサービスはたいくつだけれど、あの子が送迎してくれるから行っているようなものだ。


「おはようございます。お迎えにきましたよ」

「いやだね。お迎えはまだ早いよ」


毎回同じ冗談を言いあって、車に乗りこむ。直は足腰の弱いあたしが座席に腰かけるのを手伝ってくれ、車いすを畳んでくれる。お迎えはあたしが一番で、あとから花村のばあちゃんと佐久間のじいちゃんが乗ってくる。行きは花村のばあちゃんを乗せるまで、帰りはばあちゃんをおろしてから、あたしは直とふたりっきりだ。


そんな時、直とはいろんな話をする。飼っている猫や好きだった給食のメニューの話。(直はソフト麺を知らなかったが、ふたりとも揚げパンの話で盛り上がった)日本でもオーロラが見える場所があるなんてことも。


直は賢い青年だ。物知りだし、若いのになかなか気が利く。たまに、あたしが常識だと思うことを直が知らないなんていうこともあるけれど、世代がちがうとはそういうことなのかもしれない。

それに、直から教えてもらうことの方が圧倒的に多い。LINEの送り方も、四角い模様を読み取ってお金を払うことだって全部直に教えてもらった。


あたしが困っていると、直はすぐに駆けつけてくれる。車いすに油をさし、スマホの画面を直してくれる。暗いニュースも多い世の中だけれど、こんないい子に世話をしてもらえて、あたしは本当に幸せだと思う。


「コイバナを聞いてもらってもいいですか?」


なんて神妙な顔で相談された時は驚いた。ちなみにコイバナとは「恋の話」だそうだ。こんなおばあちゃんに恋愛の話を相談するなんて変わった子だねと思いながらも悪い気はしない。あたしは直の話に耳を傾けた。


「好きな人がいるんです」

「ぼくは、その人に嘘をついています」


こんな素直でいい子が嘘をつくなんて。よっぽどの事情があるのだろう。けれど、嘘はよくない。ぜったいに、よくない。だからあたしは直に言ってやった。


「そりゃあ、今からだって本当のことを言ったほうがいい」

「そうじゃないと、一生後悔するよ」


中学の時、あたしにも好きな人がいたんだ。その人はクラスの人気者でね、地味で目立たないあたしなんて見向きもされなかった。それでも卒業するときには、彼のボタンがほしいと思ったんだよ。彼があたしのことを好きじゃなくてもいい。ただ彼のことを好きだった思い出を残しておきたかったんだ。けれど、待っていたって手に入らないことくらいあたしにはわかっていた。


だから、あたしは盗んだんだ。


卒業式も近い、体育の授業中だった。あたしは教室に忍びこみ、棚から彼の制服を出した。震える手であたしは、彼の二番目のボタンを引っ張ったんだ。


彼は、ボタンのことは誰にも言わなかった。もしかしたら、どこかで落としたくらいに思っていたのかもしれない。あたしは心底ほっとした。

宝物箱に入れたボタンを、あたしは何度も見返してため息をついた。ほしかったものを手にいれたのに、ちっともうれしくなかった。それでも、あたしにとってはたったひとつの彼との思い出だった。ボタンを握りしめ、あたしはずっと祈っていた。いつか彼があたしを見つけてくれますように。あたしの思いが通じますように。


奇跡がおきたんだよ。


就職した会社で、偶然あたしは彼と再会したんだ。彼はあたしが同級生だったことなんて欠片も覚えていなかったけれど、一緒に仕事をするうちにあたしたちは親しくなって結婚した。

天にものぼる気持ちだったよ。ボタンが願いを叶えてくれたとすら思ったね。


けれど、あたしはどうしても言えなかった。

あの時、ボタンを盗んだのはあたしだって。


怖くて言えなかった。いつかちゃんと本当のことを言おう。自分のしたことを彼にあやまらなきゃいけない。いつか、タイミングがきたら。ずっとそう思っていた。

けれど、タイミングなんていうものは自分から作らない限り永遠にやって来ないんだよ。

結局、あたしは六十年言えずじまい。あの人はあの世へいっちまった。


古いボタンを直の手のひらにあずけた。


「そりゃあ、今からだって本当のことを言うほうがいい」

「そうじゃないと、一生後悔するよ」


直にあたしと同じ思いはしてほしくない。

年長者の言うことは聞くもんだよ。



3.夏希


はじめて会ったときから、直くんのことは信頼できた。だから出会った初日に部屋にもあげたのだし、もう半年も一緒に暮らしている。

直くんのために料理をするようになって、自分もちゃんと食べるようになったから、貧血もだいぶ改善した。あの日以来、駅のホームで倒れたりすることもなくなった。

ぜんぶ直くんのおかげだ。あの時、わたしを引っ張ってくれた力強い腕の感触を今でも覚えている。直くんは、わたしを生きる方に導いてくれる人だ。直くんと出会って、あたしは世界に色があることを知った。今まで誰とつきあってもうまくいかなかったのに、直くんとだけは穏やかにいられる。ずっと一緒にいたいとも思う。けれど、直くんはどうだろうか。直くんは、わたしのことをどう思っているのだろう。


だいじょうぶ。


鏡を見るたび、自分に言い聞かせる。前よりも血色のよくなった肌は、じゅうぶん若くあってほしいと願う。


直くんに、三歳違いだと言った。

本当は七つも年上だ。


馬鹿みたいだと自分でも思う。年上なら、もっと余裕に構えていればいいのに。君なんかいなくても平気だとうそぶいて、もてあそんでもいいじゃないか。

だって、直くんは時々わたしを不安にさせる。ひとつやふたつ嘘をついたってバチはあたらない。それなのに、嘘をついている自分が時々いやになる。喉に小骨がささったみたいにチクチクする。


直くんのスマホが震えるたび、気が気じゃない自分にあきれてしまう。一ノ瀬さん、花村さん、佐久間さん。名字しか登録していない直くんのスマホには、わたしの名前も夏希じゃなくて、「白石さん」と登録してある。


一ノ瀬さんからはよくかかってくる。


「はい、はい。すぐ行きます」


一ノ瀬さんとの電話のあと、直くんがいそいそと出かけていくのは日常茶飯事だ。帰りがすいぶん遅くなることも。もしかしたら本命の恋人なのかもしれない。


けれど、その人のことを「誰なの」と問い詰める権利がわたしにあるだろうか。たとえ直くんに本命の恋人がいたとしても、わたしに彼を責める権利なんてない。わたしは直くんに嘘をついているのだから。


この先、わたしたちはどうなるのだろう。どうするのが正解なのだろう。わたしは直くんとずっと一緒にいたいと思っている。けれど、直くんは。


「結婚しよう」


だから、あの時、シャトルに願いをこめ、空に向かって言ってみた。できるだけ軽く、普段通りを装って。けれど、唐突すぎたその言葉は、空に吸い込まれ、直くんには聞こえなかったみたいだ。


「そこ、ちゃんと受け止めて返すとこだよ」


ラリーを失敗したことを責められたと思ったのだろう。直くんは本当に悔しそうな顔をした。小学生か、と思ってしまう。姉弟という言葉が頭に浮かび、少しだけ胸が痛んだ。


日曜日の午後、公園でバトミントンをする。体を動かしたあとで、リッチェルズに寄ってお気に入りのケーキを買う。部屋に帰り、二人分のお茶を淹れ、向かい合ってケーキを食べる。それで十分じゃないかと自分に言い聞かせる。

それ以上願うなんて身の程知らずというものだ。


4.直と夏希、ふたたび


ぼくは夏希さんと向かい合って座っていた。人生ゲームで勝った夏希さんが、チーズケーキとブルーベリーケーキを目の前にして、どちらを食べるか楽しそうに見比べていた。


「そりゃあ、今からだって本当のことを言ったほうがいい」

「そうじゃないと、一生後悔するよ」


ジーンズのポケットに手を入れ、ぼくはボタンの感触を確かめていた。サチさんがくれたボタン。サチさんが背中を押してくれなければ、ぼくはいつまでたってもふんぎりがつかなかったかもしれない。


「話があるんだ」


ぼくが言うと、夏希さんは目をぱくちりさせて首をかしげた。ぼくは、たっぷり息を吸いこんで腹に力をこめた。あの時、夏希さんを助けたのはぼくじゃない。ぼくは、正直に話した。


「ごめん」

 

ぼくがあやまると、夏希さんは眉毛をㇵの字にし、悲しそうな顔でぼくを見ていた。それから言った。あの時、つかまれた腕の感触を今でも覚えている、と。自分を生へと導いてくれた力強さを、決して忘れることはないということも。


「でもね」

 

夏希さんが言った。


「わたしが直くんのことを好きなのは、わたしを助けてくれたからじゃないよ」


嘘つきと責められるかと思っていた。殴られたっていい。今すぐ出て行けと言われたら、そうするつもりだった。それなのに。


「わたしが直くんを好きなのは、一緒ゲームをしたり、こうしてケーキをかこんだり、笑いあったりする毎日が愛おしいからだよ」


うれしいことを言う。ああ、ぼくはまだ夏希さんのそばにいることを許してもらえるのだろうか。


「それに、わたしだって嘘をついていた」


今度はぼくがおどろく番だった。夏希さんは、ぼくより七つ年上だと言った。ぼくは、今よりも四つ年上の夏希さんを想像してみた。けれど、ぼくの知っている夏希さんは、目の前の夏希さんでしかなかった。

だから、正直に言った。


「ぼくの目の前にいるのは、今この瞬間の夏希さんだ」


ぼくは何か変なことを言っただろうか。夏希さんはくすっと笑って、リッチェルズのロゴがプリントされたナプキンで目元をおさえていた。


「おあいこだね」


そう言って、夏希さんがもう一度笑った。


「食べよ」


いったんぼくの前に置いたチーズケーキの皿を手前に引いて、


「ひと口ちょうだい」


夏希さんがフォークでひと口すくいとった。「おいしいね」と言いながら、今度はブルーベリーケーキに手をのばす。


「一ノ瀬さんのおかげなんだ」


そう言うと、夏希さんの手がとまった。ポケットから古いボタンを出して、テーブルの上にそっと置く。ゆっくりと、ぼくはサチさんの人生の物語を話し始める。


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