ヒヨクレンリ 1
最近、娘の様子が変だ。
娘と言っても血は繋がっていない。
失踪した妻の分も愛情を注いで育てた……つもりだ。
なのに目も合わせてくれなくなった。
不本意だが出入り業者の真城に相談する。
すると奴は得意気に答えた。
「彩ちゃんオトナになったんすよ。鐡さん、そろそろ子離れする時期なんじゃないですか?」
……大人?彩が?
あんなに小さかった彩が?
俺の姿が見えないと泣いていた彩が?
そう悩んでいた時。彩が俺を頼ってくれた。
仕事だから仕方なく、だったかもしれない。
でも。俺が居ないと駄目だと分かって。
安堵した。
◆
翌日から俺に対する彩の態度が変わった。
変わった、と言うか戻った。
「あ。おはようございます紫信さん」
目を合わせて微笑んで。
最低限の会話をする。
何だ。考え過ぎか。
「紫信さん」
「ん?」
「私、やっぱり家を出ます」
朝食のトーストが喉に詰まった。
慌ててコーヒーで流し込む。
「……何が不満だ」
「不満はありません」
「なら此処に居ろ」
「もう決めました」
勝手が過ぎる。
俺がどんな思いで育てたか分かってない。
「此処で七瀬さんの帰りを待つんじゃなかったのか」
七瀬の名前を出すのは卑怯かと思った。
でも背に腹はかえられない。
「紫信さんが待っているから。私は居なくても」
「俺は他人だ。娘が待っていた方が嬉しいに決まってる」
「お母さんが帰って来たら。考えます」
彩は落ち着いていた。
取り乱しているのは俺の方だ。
「あ、仕事には来ます。想墨師の仕事もきちんとします」
「……そんなに俺が嫌いか」
自分が人に好かれる人間では無いことは知っている。
それでも彩には優しくして来たつもりだ。
言葉にしたことが無いから伝わっていなくても仕方ない、とは思う。
「好きです」
「……は?」
「紫信さんのこと。好きです」
面食らう俺に、彩は笑った。
「だから、ここには居られません」
「……どういう意味だ」
「真城さんが良い物件をいくつか探してくれました」
「話を逸らすな」
「今までありがとうございました」
彩が深々と頭を下げる。
それ以上は何も言えなくなった。
◆
その日。俺は店に顔を出した真城を締め上げた。
「ちょ……なにするんですか鐡さん……死ぬ……死んじゃう!」
「貴様……彩の家出をコソコソと手伝っていたらしいな」
「あ、その話か」
「認めるのか?そうか……逝け」
「やめて!死ぬ!可愛い彩ちゃんに泣きつかれたら断れないでしょ!?」
泣きついた?彩が真城に?
「命が惜しければ洗いざらい話せ」
「彩ちゃんに口止めされてるんでー」
俺は無言で更に締め上げる。
「……話しますよ!だから殺さないで!」
真城が言うには。
彩が具体的に理由を明言した訳では無いらしい。
ただ一人暮らしがしたい、と。
「鐡さんこそ心当たりあるんじゃないすか」
「無い」
「その辺にエッチな本を置いてたとか。彩ちゃんをイヤらしい目で見てたとか」
「貴様と一緒にするな」
「鐡さん性欲ないんすか?」
「無い」
「即答。だから彩ちゃんしんどいんじゃないすかね」
真城の言いたいことが分からなかった。
「本当に気づいてないんですか?」
「何に」
真城が冷めた目で俺を見る。
「彩ちゃん。男見る目無いからなぁ。僕みたいのに引っかかるかも」
動揺する俺の手をすり抜けて真城は逃げて行った。
追いかける気力も無かった。
◆
ここのところ疲労感が凄まじい。
彩のことで心労もあるが、それだけでは無い気がする。
体力には自信があっただけに辛い。
「……俺も歳をとったってことか」
彩は順調に想墨師としての経験を重ねていた。
俺も手伝っているが。
いつまで必要とされるか分からない。
「……また減った」
風呂上がりに乗った体重計。
日に日に数字が小さくなる。
何処か悪いのかもしれない。
七瀬が戻るまで生きなくては。
いや。彩はもう一人で生きて行かれる。
「俺は不要か……」
こんな絶望は久々だ。
気づけば彩が俺の全てだった。
◆
翌朝。部屋のドアがノックされた。
寝過ごした俺を心配する彩の声。
起き上がろうとするが身体が鉛のように重い。
やはり何処か悪いのだろう。
「紫信さん。入りますよ」
「……大丈夫だ。すぐに行く」
俺の言葉を無視して彩がドアを開けた。
そしてベッドに横たわる俺の額に手を当てる。
「……熱は無いですね」
「だから大丈夫だと言って……」
「大丈夫じゃないですよね」
強い口調で言われ俺は黙り込む。
「最近、顔色も悪いですし。きちんと食べているのに痩せて来てますし」
……気づいていたのか?
「とりあえず病院行きましょう」
「……必要ない」
「紫信さん!」
「お前はもう大人だ。一人でも生きられる。俺は用無しだ」
彩が無言で俺の頬をツネった。
それも容赦なく。
「いい大人が、いじけないでください!」
「……別にいじけては」
「私が家を出るって言ったのが気に入らないんですか」
図星だった。
彩は大きな溜息をつく。
「紫信さんが弱ってるの。たぶん私のせいなんです」
「それは違う。お前は悪くない」
「気になって調べたんです。地下室で過去の記録を」
彩が言うには。
想墨師は大量のエネルギーを必要とする。
自分だけで賄えない分は近くに居る人間から無意識に吸い取るらしい。
「だからお父さんも早くに亡くなったんじゃないかな、って」
「そんなことは無いだろう」
「分かりませんけど。紫信さんとは離れた方がいいと思うんです」
「……他にも理由があるのか?」
真城の言うように、俺に性的な目で見られていると思っているのだろうか。
「俺はお前を可愛いと思っているが。それは家族としてで、女としては見ていない」
「それは、分かってます」
「お前に恋人が出来ても邪魔はしない」
「それも、分かってます。でも」
彩は一度、口を噤む。
そして微かに震える声で言う。
「私が、ダメなんです」
「何が駄目なんだ」
「紫信さんのこと……父親と思えなくて」
ショックだった。
この十年間、必死に育てて来たのに。
彩は俺に対してずっと敬語だ。
もっと早く気づくべきだった。
どんなに努力しても親子にはなれないと。
「……そうか」
「……ごめんなさい」
「お前は悪くない。誰も悪くない」
このまま彩を縛り付けても仕方ない。
これ以上、苦しめたくなかった。
「分かった。引っ越しは手伝わせてくれ」
そう言ったら彩が泣き始める。
……泣きたいのは俺の方だ。
一生懸命に育てた娘に捨てられるんだ。
……そういう気持ちが彩には重かったのかもしれない。
その日は臨時休業にした。
起き上がるのがやっとの状態では仕事にならない。
一人で天井を見ながら考える。
この十年は何だったのか。
七瀬に救われた命だから、彼女の為に使おうと思っていた。
なのに七瀬は居なくなった。
だから残された彩を大切にしようと思った。
出来ることは全てしたつもりだ。
なのに彩は俺を父親とは思っていなかった。
親というのは報われないものらしい。
「こんにちはー。鐡さん。飯、持って来ました」
丼が載ったトレイを持って顔を出したのは真城だった。
今日は休みらしく私服だ。
「何でお前が家に居る」
「彩ちゃんに呼び出されました。僕のこと便利屋だと思ってるらしくて」
「……すまない」
何で彩は来ない。
もう顔も見たくないのか?
「彩ちゃん、鐡さんの傍に寄るの怖いんですって」
「言っておくが俺は何もしていないからな」
「わかってますよ。そうじゃなくて。これ以上、鐡さんの元気を奪いたくないって」
……そういうことか。
「真城」
「何ですか」
「紅林さんと連絡取れるか」




