チョウツガイ 1
目の前に七瀬が居る。
その現実を俺は、すぐに受け入れられなかった。
十年間も姿を消していた彼女。
それなのに見た目はほとんど変わっていない。
「久しぶり、しのぶくん」
「七瀬さん……」
「しのぶくんオジさんになったねー。十年前はまだ可愛かったのに」
「……十年経てば変わるだろ普通」
「そっか。そうだね」
七瀬の背後の室内に目をやる。
彩の姿は無い。
「彩を探してる?」
「あぁ。此処に来ている筈だ」
「うん。居るよ」
「会わせてくれ」
「会いたい?」
「当然だ」
「しのぶくん顔色悪い」
正直、立っているのも辛いくらいだ。
早く彩に会って抱き締めたい。
「もう少しかな」
「何が」
「しのぶくんが動けなくなるまで」
「……何を言ってる」
「しのぶくん身体が大きいし力もあるし。普通の状態じゃ負けちゃう」
「だから何の話をしている」
背後に人の気配があった。
振り向いた瞬間に右の頬を殴られる。
無様に床に倒れた俺に馬乗りになっていたのは、彩を攫った男だった。
奴は慣れた手つきで俺に手錠をかける。
「すまないね、紫信くん。君を拘束させて貰う」
「……どういうつもりだ。彩は。無事なんだろうな」
「生きているよ。今は、まだ」
リビングらしき空間に連れて行かれた俺の前に、木製の椅子に座った彩が居た。
目を閉じて俯き加減で。
……意識が無いのか?
椅子の横。床に置かれた透明な容器に溜まる赤い液体。
容器の上部から伸びるチューブは彩の右腕に繋がっていた。
血液を抜かれている。
このままでは彩が失血死してしまう。
俺は最後の力を振り絞って男に体当たりして、転びそうになりながら彩の元へ走った。
「彩……彩!目を覚ませ!」
手錠で繋がれ不自由な両手で彩の頬を叩く。
彩は薄く目を開けた。
「……しのぶさん?」
「……そうだ。俺だ。助けに来た。一緒に帰ろう」
「ごめんなさい……迷惑かけて……」
「謝らなくていい。今助けるから。待ってろ」
右腕に刺さる針を抜こうとする俺の手を彩が握る。
「しのぶさん……私……幸せでした……」
「……何を言っている」
「最期まで……ダメな娘で……ごめんなさい……」
「……諦めるな彩。頼むから!」
「……愛してくれて……ありがとう……」
淡く微笑んだまま、彩は目を閉じる。
零れた涙が柔らかな頬を伝い落ちた。
「彩……嘘だよな?」
こんな簡単に終わる訳が無い。
彩の人生は、これからだ。
「……そうだ。これから恋人になって夫婦になって。違う形で家族になるんだ。俺と彩は」
それは決まった未来だと思っていた。
俺は彩を愛して。
彩は俺を愛してくれて。
そんな穏やかな生活が待っている筈だったのに。
「……きれい」
動かなくなった彩の前で泣き崩れる俺の耳に聞こえた七瀬の声。
目の前で娘が死んだというのに、彼女は恍惚の表情で言う。
「とてもきれい」
「……七瀬。お前……どういうつもりだ!」
「きれいね。しのぶくんの絶望」
「……俺の……絶望?」
「忘れられなかったの。ずっと。初めて会った時にしのぶくんが纏っていた色が」
「まさか……それが見たくて彩を?」
「そう」
「……そんなことの為に娘を殺したのか?」
「彩はいい子だから。私の為に死んでくれたの」
俺の中で何かが切れた。
七瀬を床に押し倒し、両手で細い首を締め上げる。
それでも七瀬は笑っていた。
……壊れてる。
殺してしまいたかった。
俺から彩を奪った七瀬を。
だが彩にとっては大切な母親。
優しい彩は復讐なんて望まないかもしれない。
それなら俺が選ぶ道は一つしか無かった。
「……殺してくれ」
俺は泣きながら懇願していた。
目の前の七瀬に。
彩の居ない世界に未練は無い。
彼女は妖しく微笑んだ。
瞳に狂気を宿して。
「いいよ。殺してあげる。でも、その前に」
七瀬が耳元で囁く。
「最高の絶望を頂戴」
七瀬が立ち上がり祝詞を唱え始める。
俺の身体から抜け出た絶望の色が広い室内に渦巻いた。
……これが綺麗?
笑わせる。
まるで自我を持たず暴れ回る醜い化け物だ。
化け物は七瀬の小さな口に吸い込まれた。
彼女は大量の絶望を飲み干して行く。
おぞましい光景だった。
全て腹に収めた七瀬は満足気に唇を舐める。
手錠が外された。
奴が俺を始末してくれるらしい。
俺は無言で頭を下げる。
彩と一緒に逝けるなら本望だ。
異変は直後に起きた。
七瀬の目が大きく見開かれる。
彼女の身体の中で別の生き物が蠢いているようだった。
床に倒れ苦しそうにのたうち回る。
……何が起きている。
「紫信さん!」
聞こえたのは彩の声だった。
そして唇に触れる柔らかな感触。
目の前に彩の顔があった。
死んだ筈の彩が俺に口付けをしている。
信じられなかった。
でも現実だった。
身体に力が漲る。
抱擁の比ではない。
彩は俺から離れると、紅く色付いた唇で祝詞を唱えた。
七瀬の身体から引き出される色。
俺にもはっきりと見える。
部屋の出口を探して不気味に動き回っているようだ。
「逃がさない!」
彩が手にした瓶の蓋を開けた。
禍々しい色が吸い込まれて行く。
勢いに負け、よろめく彩の肩を抱いた。
力を得た彩の手の中の瓶が七色に光る。
初めて見る色だった。
彩の力が増しているのが分かる。
禍の色を封じ込めた瓶の蓋を彩が慎重に閉めた。
途端に身体から力が抜けたようで俺にもたれかかって来る。
この柔らかさ。甘い香り。
確かに彩だ。生きている。
唇は普段通りの淡い色に戻っていた。
思わずキスしようとすると、背後から咳払いが聞こえる。
……父親の前でする行為ではなかった。反省。
彩は床に倒れている七瀬に駆け寄って行った。
息はあるようだった。
一度は殺そうとした七瀬。
だが生きていてくれたことが嬉しかった。
◆
奴……蒼さんが七瀬を抱き上げゲストルームへ連れて行き、大きなベッドに寝かせる。
彩は心配だから付き添うと言って残った。
俺は蒼さんに連れられリビングに戻る。
蒼さんが温かいコーヒーを出してくれた。
二人でL字ソファに腰掛ける。
「殴って済まなかったね。大丈夫かい?」
「大丈夫です。手加減してくれましたよね。かなり」
警察官に本気で殴られたら歯の二、三本折れていたと思う。
「さて。どこから話せばいいかな」
「……七瀬さんが居なくなった辺りから」
「そうだね。十年前、七瀬は失踪した。君から捜索願いが出されたと知って私も皆に探させた。じきに七瀬は見つかった」
「何で俺に知らせてくれなかったんですか」
「その時、既に七瀬は病んでいたんだよ」
想墨師特有の精神疾患。
色に魅入られ、より刺激の強い色を求め彷徨う。
「七瀬も君たちのところへ帰りたがらなかった。一緒に居れば傷つけてしまうからと」
この十年間。
蒼さんは七瀬を匿い、騙し騙し適当な色を与えていた。