旅の準備は突然に
遅くなった帰り道、人もまばらな駅の構内で旅行代理店の広告が目に止まった。
旅行か、最後に行ったのいつだろうなー。仕事が落ち着いたら、何処かでのんびりってのはよく妄想するけど。俺みたいな社畜には縁がない話だよな。
「さて、コンビニによって酒でも買ってから帰るか」
広告から目を離し、帰り道に戻ろうとしたとき、後ろから光を感じた。
慌てて振り返ると、明るい日差しに小高い丘、見渡す限りの草原。さっきまでの景色は見当たらなかった。
「ここは、まさか異世界ってやつか!?」
アニメやネット小説なんかで知識は有るが、実際にくるとやはり驚く、というか現実なのかこれは…?。
これから俺の冒険は始まるのか、とりあえず異世界に行ったらやってみたかったステータス画面を開く方法とか、魔法とか色々試してみたが、なにも起こらない。ちょっぴり不安になってくる。
お約束だとそろそろ美少女や、かっこいい魔物なんかが出てきて色々教えてくれるんだけどな……。
「どうも、転移者さん。シェルパのスゥ・スゥリャンです。よろしくお願いしますね! お気軽にスゥとお呼びください、一応ご本人確認させていただきますが、シラカミ タツヤさんでお間違いないですか?」
きた、耳に届いたのは間違いなく女の子の声だ、なぜ名乗ってもいない、自分の名前を知っているのかとか、『本人確認?』『担当?』『シェルパ?』とか気になる単語はいくつかあったが今はそれよりも自分の中で嬉しさが勝っているのがわかる、気になることは聞けばいいわけだし、手早く声の聞こえた方に体を向け、少し咳払いしてから喋りだす。そうでもしないとワクワクが口から飛び出そうだ。
「はい! 本人です! 間違いないです!!」
口から出た声は少し上ずっていた、恥ずかしい、せっかく咳払いしたのに、なんにも隠せていない。
目の前にいたのは声の通り可愛らしい女の子だった、深緑の髪はショートカットに整えられ、肩出しパーカーに短パンの装い、背後には爬虫類のような尻尾が揺れている。なんだか服装は想像していたよりも現代的だ。
「あの、どうかしましたか?」
スゥと名乗った少女は黄色い目を丸くして問いかけてくる、そこだけ見るとちょっと猫っぽくもある。あんまりジロジロ見るのは失礼だったかもしれない。
「とりあえず、なんで俺の名前を知っているのかって所から聞こうかな?」
テンションが上がり過ぎてるのを抑えつつ、落ち着いた風に取り装う。俺も今年で28そろそろいい歳だ。
「転移者様が世界を越えてこちらの世界に来ると、一部の者達に神託が下るというシステムがこの世界にはありまして。それで神託を受けた者達から、派遣されてきたので知っているというわけですね」
「なるほど、転移してきた先の安全が確保される仕組みってことか。仕組みが作られてるってことは、もしかしてこの世界にはよく転移者が流れ着いてき沢山いたりするってこと?」
「そうですねー、多い年だと年に何度か越えて来られる時もあったり、まったくない年もあったりですね。最近は特に頻度が高いような気もしますけど、帰られたりお亡くなりになられたりで、転移者の人口はそんなには増えてないはずです」
「亡くなっ…」一気に気持ちが落ち着いた、いや血の気が引いたそうか一歩間違えれば死ぬんだなこの世界…。
「それに関してはお任せを! 我れらが『異世界旅行代理店アルハザールの風』はサポートも万全ですから、シラカミさんが事故や戦闘でお亡くなりになること、ましてや怪我をすることもございません! このスゥ・スゥリャンがお守りいたしますし、この『転移者旅行補償特約』の加護もございますので」
スゥが笑顔でやたらと禍々しい巻かれた羊皮紙の様な物と羽ペンを差し出してきた、その対比が怖い。なにやら説明文やら契約事項が書いてあるらしい。パッと見は物凄く怪しい契約書だ、悪魔の契約書ってこんな感じなんだろうか。
「ささっ、シラカミさん。一番下にずずいーっとサインを! 会話もできていますし、読み書きも出来るはずですよ」
なるほど、たしかに文字も読めるしこの感じなら文字も書けそうだ。契約書はドラゴンのような意匠で縁取られていて、文字が薄緑色に光っている。これ自体がマジックアイテムなのか? そういえば旅行代理店ってことは、代金はどうなるんだろうか。まさか慈善事業なのか?
「ところでスゥさん、旅行代理店ってことは代金はどういう仕組みになっ……」
「伏せてください!」
言い終わる前にスゥが上に覆い被さってきた、見た目よりもはるかに力強い、異世界の女の子は大胆なのかもしれない、そんな甘い考えに浸る間もなく、周囲では爆発音が聞こえ、目の前には地面があった。うむ、なるほど、これはお亡くなりになる人も出るはずだ。こんな転移序盤で死にたくはない!
「シラカミさんはそのまま伏せていてください! 防護を使います!」
「ハイ! オネガイシマス!」
今も続く爆発で視界は悪く、舞い上がった土が上から降ってくる。冗談じゃないこんなの特撮でしか観たことないぞ!?
「『龍鱗の防護術』」
スゥの体がぼんやり光ると二人の周りを鱗のような模様がついた光の被膜が球体状に覆った、周りの爆発音は遠のき土が降り止んだ。球体の中と外では別世界だ。
「すごい…! これが魔法なのか?」
「これは『魔術』ですね、私の場合は自身を媒介に使っていますので『スキル』とも言えなくはないですが。さて、これでしばらくは大丈夫ですね。簡単に破れるとは思いませんし。シラカミ様は絶対に、ここから出ないでくださいね。」
そういうとスゥは球体の外に向かって歩いていく。
「外に出ても平気なのか!?」
「すぐ戻りますので、ご心配なく。シラカミさんは契約書にサインして待っていてください、私こう見えて少し強いので」