第六景【アゲハ幼虫】裏
羽化するのはどんな気持ち?
飼育ケースを抱えて飛田家を飛び出した陽は、信号に引っかかったことでようやく足を止めた。
何度か大きく息をついてから、はっと気付いて飼育ケースの中を見る。結構揺らしてしまったと思ったが、数枚葉がひっくり返っただけで中の幼虫たちは平然としているように見えた。
よかったと胸をなでおろしてから、今日の分の葉をもらい忘れてきたことに気付く。
(…戻れるわけないって……)
心中呟き、溜息をつく。
本当に、こんなつもりではなかったのだ。
飛田家に出入りするようになったのは三年前。それまでも、よく蝶のいる家だと思っていた。
学校帰りに門の外からぼんやり蝶を眺めていたら、たまたま家にいたなつきの父に声をかけられた。どうやら制服からなつきと同じ学校だとわかったらしい。
危ないから入って、と言われるままに庭へと入る。アゲハチョウは木の周りをウロウロ飛んで、たまにとまって、を繰り返していた。
「卵を産んでいるんだよ」
自分と一緒に少し離れたところから見ていたなつきの父がそう教えてくれる。
「卵?」
言われてみると、確かに葉にとまっては体を曲げて、腹先を葉につけている。そのうちヒラヒラと蝶が去ってから、陽はなつきの父が指し示す場所を見てみた。
一ミリほどの黄色い卵。
「これが幼虫」
示された場所には卵よりも小さくて細い黒いもの。一見葉の汚れのようにしか見えないが、よく見ると動いている。
もう少し大きいのが、と言われてそちらを見ると、黄色い髭に茶色混じりの黒い体、真ん中にV字の白い帯をした一センチくらいの幼虫がいた。
三年生の時に理科で習いはしたが、教科書の写真や資料映像を見た程度、実物を見るのは初めてだ。
こんなに小さいものだったのだと改めて知る。
「今はまだ大きいのはいないけど、すぐに大きくなるから。よかったらまた見においで」
そう笑うなつきの父に礼を言って、その日は帰った。
数日後、気になってまた覗きに来た自分を待っていたのはなつきだった。
「お父さんが言ってたのって篭崎のことだったんだ?」
「え? ここって飛田んち?」
表札を見ていなかった陽はそこで初めてこの家が同級生のなつきの家であると知った。
「わざわざイモムシ見に来るなんて。もの好きよね」
「そりゃあ飛田にとっては珍しくないかもしんないけどさ」
「あんなの珍しくていいんだって!」
間髪入れずの返答に、嫌いなのかと内心思う。確かに好きだという方が変わり者扱いだろう。
「でもまぁ、門は開けてるし、いつでも勝手に入ってきていいから。気の済むまで見ていったらいいよ」
「え? いいの?」
「お父さんもお母さんもいいって言ってるもん」
にっこり笑うなつきは学校で見る姿とは少し違うように見え。陽は少しだけ戸惑いながらありがとうと返した。
それ以来時々―――というよりはもう少し頻繁に飛田家を訪れ、幼虫の成長を見守った。
見慣れてくると仕草がかわいく見えてきて、ぷくぷくと太った緑の姿になる頃には毎日のように様子を見に行くようになった。いつの間にかいなくなった五齢虫に慌て、庭の隅に蛹を見つけて安心し、そのうち破れて空になったそれを見て無事羽化したかと喜んで。
そして今年、引っ越して自室を得たことで自宅で飼えることになり、餌の葉をもらいに行っていた。
イモムシは嫌いと言いつつ、自分が帰るまで玄関前でつきあってくれるなつき。勝手に取っていいと言われても毎回来訪を告げるのは、そんな彼女と話すのが楽しいせいもあった。
だからもう少しだけ話せることが増えたらと。そう思っただけなのだ。
少し重い足取りで自宅へ戻り、自室に引っ込む。飼育ケースを机に置き、その前に腕を組んで顎を載せた。
ケースの中、すべての脚で葉の縁を掴むようにしがみつき、上から下へと削ぐように食べる幼虫。五齢虫ともなると、ケース越しでも食べる音が聞こえてくる。
まだ葉は残っている。夜の間に食べ尽くしてしまうだろうが、明日は日曜、朝からもらいに行けば大丈夫だろう。
尤も、明日の朝でも気まずいものは気まずいのだが。
(…出てきてくれるかな)
避けられたらどうしようかと、今しても仕方のない心配をしながら。もし明日出てきてくれたなら、謝るべきか、それとも何もなかったように接するべきかと悩んでいた時。
来客を知らせるチャイムが鳴った。そのすぐ後に自室の扉がノックされる。
「陽、飛田さんが来てくれてるわよ?」
「えっ?」
ガタリと立ち上がり、慌てて玄関に向かう。
暫くして再び鳴ったチャイムに玄関を開けると、なつきがすっと手を差し出した。
「これ。取らずにいったでしょ」
差し出されたのはビニール袋に入った数枚の葉。
まじまじと袋を見、それからなつきを見る。少し居心地悪そうにも見えるが、ここに居づらいというよりは。
「…飛田が?」
「だって。なかったら篭崎困るよね?」
「じゃなくて。葉っぱ、飛田が取ってくれたの?」
一瞬返答に詰まってから、なつきはこくりと頷く。
少し赤らむ頬に、なつきが居心地悪そうにしている理由を知った。
「……プレゼン効果?」
そう聞くと、袋を押しつけられる。
「…そういうことにしといたげる。じゃあね」
「あ、飛田!」
踵を返したなつきを呼び止めて。
「明日、昼からもらいに行っていい?」
少しだけ目を瞠ってから、なつきが笑った。
「好きにすれば?」
私も用事ないし。
小さくつけ足された言葉に、陽も刹那動きを止めてから。
嬉しそうに笑みを見せた。
翌日からなつきは玄関ではなく隣に来てくれるようになった。
尤もまだそれほどかわいいと思えはしないようで、仏頂面で眺めていることも多いのだが。
それでも隣に来てくれること。
肩を並べて話せること。
それがとても嬉しかった。
やがて陽の育てる幼虫たちも蛹になって葉をもらいに行く必要がなくなってしまったが、それでも部活帰りに立ち寄った。
見るだけなので玄関チャイムは鳴らさない。
しかしそれでも訪れるのはいつもの時間、なつきも外に来てくれた。
幼虫たちと、時折なつきを横目で見る。
己の中に育つ想いは、まだ胸に秘めて。
一番初めに蛹化した蛹が黒くなり、羽の模様と腹部分が透けて見えるようになった。
羽化が近い証。飼育ケースでは蓋部分にしか掴まることができないと聞いたので、繋げた割り箸を斜めに立てかけてある。
羽を広げるには狭くないかと不安になりながら、陽は頻繁に様子を見ていた。
そして。
不意に蛹がピクリと動く。
蛹の中の蝶が何度か伸び上がるような動きを見せると、頭の付け根のうしろ部分から腹にかけ斜めに亀裂が入った。その亀裂を押し広げるように蝶は懸命に脚を突っぱね、人ならさながら背を丸めて肩から抜くような格好で体を引き抜いていく。
押し込められていた触角がぴょこんと跳ね上がった。胸辺りまで出た蝶はバタバタと脚を動かし、プラスチックの壁面を脚を滑らせながら数歩登って腹を引き抜いた。
その瞬間、ぽとりと床に落ちる。
まだくしゃりと潰したような羽をした蝶が床でもがく様子に、呆けて見ていた陽は慌てて蓋を開けた。どうすればと考えてから、入れてあった割り箸の先を差し出す。
蝶はそれに掴まり登ってきた。またもやどうしたらとうろたえてから、ケースに渡すように箸を置いた。
蝶の動きが止まったので、羽を広げるスペースがあるかを確認してから、陽はそっと蓋を被せて横から眺める。
逆さまに割り箸にぶら下がった蝶は、ただじっとしているだけだった。腹と羽のクリーム色が目立つばかりでまだアゲハチョウらしさはない。
くしゃくしゃの羽がゆっくりと伸びていくのを、陽はただじっと見つめていた。
すっかり羽が伸び、黒と黄色の見慣れたアゲハチョウの姿になった。
時折羽を動かしながらも、元の場所にぶらさがったままの蝶。まだ準備が整っていないといわんばかりに居座っている。
まるで外の世界へ旅立つことを恐れるかのようなその姿。
重なる想いに少し苦笑し、陽はそっと部屋を出た。
二時間ほどして陽が部屋に戻ると、その物音に慌てたのか、飼育ケースの中でバタバタと蝶が暴れ出した。慌てて駆け寄り、窓の近くで蓋を開ける。
ふわりとケースから出た蝶は上下に揺れながら窓へと向かった。初めは少し頼りなく、吹きつける風にあおられるようにふらつきながら。それでも次第にしっかりとはためいて飛び去っていく。
その姿が見えなくなるまで見送ってから。
陽は少し笑みを見せ、ケースの蓋を閉めた。
新年早々こんなお題ですみません。需要がないのは承知してます。
【アゲハ幼虫】、多分【池淵】中一番妙なお題かと。
なんで好きかと聞かれましても。
考えてみてください? たとえ元からそうでなかったとしても。
犬飼ってる人は犬好きになりますよね?
猫飼ってる人は猫好きになりますよね?
つまりはそういうことなのですよ。
アゲハ幼虫飼ってたからアゲハ幼虫が好きになったと。それだけの話。
短足具合とか。上半身持ち上げてうりゃーとなってるとことか。葉っぱ掴んで必死に食べてるとことか。そのうちバランス悪くなって葉っぱごと転がっちゃうとことか。もうかわいくて仕方ありません。五齢虫のかわいさはもちろん、今はもうどの段階でもかわいいです。
うちの柑橘は既に枯れてしまったので、五年ほどでしたが。数十匹送り出した中で、羽化の瞬間を見ることができたのは一度だけでした。ほんと一〜二分。たいてい気付いたら底でわちゃわちゃしてる。
語り足りませんが、冷えた眼差しを感じるのでこの辺で。
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