第六景【アゲハ幼虫】表
いつもは見えない裏側の。
今日もいつもの時間に玄関チャイムが鳴った。モニターの向こうには、見慣れた制服の男子生徒の顔が見える。
(毎日毎日、ご苦労様よね)
待っててと告げて、なつきは剪定鋏を手に玄関へと向かった。
「ありがとう」
毎回律儀に礼を言う陽に、いいから、と鋏を渡す。
「鋏外に置いとくから勝手に切ってっていいって言ってるのに」
この時間表の門は開けてある。玄関まで来ずとも目的は達せられるというのに、毎回チャイムを鳴らし来訪を告げる同級生。たいてい部活帰りの同じ時間なので、母親も『篭崎くんでしょ』となつきに振るようになり、いつの間にか自分が対応することになってしまっていた。
「そう言うけどさぁ。やっぱ人んちだし?」
鋏を受け取りながら陽は笑う。
「それに。この方が堂々と見てられるだろ」
「堂々とって………」
苦虫を噛み潰したような顔で呟くなつきに、ブレないなぁ、と返す陽の笑みにも苦さが混ざる。
「飛田、ちっちゃい頃から見てんのにまだ慣れないんだ?」
「だからヤなんじゃない! もういいから好きに見てくれば?」
なつきが閉めた玄関にもたれかかるのが終了の合図。
「ん。ありがとな」
鋏を手に、陽は門との間にある庭に向かった。
なつきの家の庭には蜜柑の木が一本と金柑の木が二本ある。
なつきの背よりも少し高いそれらには、春から秋にかけてアゲハチョウが頻繁にやってきた。
小さな頃は訪れる蝶たちに喜んでいたなつきだったが、蝶たちが何をしに庭に集まってきているのかに気付いてからは、遠巻きに眺めるだけになった。
柑橘や山椒の葉しか食べないアゲハの幼虫。
蝶たちはここに卵を産みにきていたのだ。
春に蝶を見かけるようになってから、秋涼しくなるまで。その間ずっと、庭の木々には幼虫がいる。
黒いうねうねと緑のうねうねが、ずっといるのだ。
叫んで逃げるほどではないが、近寄ろうとは思えない。
嬉々としてそれに向かっていく同級生の背を見ながら、なつきはもの好きな、と心中呟いた。
小学校からの同級生である篭崎陽が庭を訪れだしたのは三年前、五年生の頃。外から蝶を見ていたところをなつきの父親に声をかけられたらしい。
去年校区内で引っ越して自室を得た陽は、今年初めて飼育ケースで幼虫を育てることになった。そしてその餌となる葉を毎日取りに来ているのだ。
ここへ来た陽は葉を取るだけでなく、いつも暫く眺めている。なつきのいる玄関から顔は見えないが、何を見ているかなど聞くまでもない。
やがて気が済んだのか、陽が数枚の葉を手に戻ってきた。
「ありがとな」
「ホント、何がそんなに楽しいの?」
渡された鋏を受け取りながらそう言うと、だってさぁ、と返ってくる。
「こっちでは自由気ままでのびのびしててさ。同じ五齢虫でもうちのより大きい気もするし。また卵増えてるし」
「また??」
本当に秋まで次々切りがない。
げんなりした顔のなつきに笑ってから、陽は庭木を振り返る。
「じっくり見てみろよ? 案外かわいいんだぞ?」
「やだよ」
「脚とかさ」
「やだって」
お決まりの会話に笑ってから、再度の礼を告げて。
「そういや飛田、明日って出かけてる?」
重ねて問う陽に、なんでそんなこと、となつきは思う。
明日は土曜日。学校は休みだが、特に外出の予定はない。
「明日? いるけど?」
「そっか。じゃ、また明日な」
そう言い、陽は帰っていった。
いつものようになんとなく見送ってから、なつきは少し首を傾げ、家へと入った。
「なつきー! 篭崎くんよー!」
翌日午後、二階の自室にいたなつきに階下からの声がかかった。
なんでわざわざ、と思いながら、仕方なく降りる。
「鋏渡すだけなら私呼ばなくても…」
ぼやくなつきに母親がどこか含みある笑みを見せた。
「篭崎くんがなつきを呼んでって言ってるのよ」
「なによそれ…」
そう答えてから、昨日家にいるかと確認されたことを思い出す。
今までは自分が不在でも誰かに鋏を渡してもらってたのにと思いながら玄関を開けると、私服の陽がにっこり笑って手にした紙袋を突きつけた。
「今日はさ、プレゼンしに来たんだ」
「プレゼン?」
ちらりと紙袋の中を覗き、なつきは顔を強張らせる。
紙袋の中に緑の格子状の蓋が見えた。
「……篭崎…それ……」
「動物園でもさ、檻越しなら怖くないだろ?」
「動物園にイモムシはいないって!」
「蛇よりマシだろ?」
「そうかもしれないけど!!」
そう言うなって、と笑いながら、陽は紙袋から飼育ケースを取り出した。
透明なケースに緑の格子の蓋。よくある昆虫用のケースである。中にはかじられた葉とそれに紛れるぷっくりとした緑の物体。
なぜだか玄関前で向き合ってケースを見ることになってしまったなつきは、どうしようかと視線を彷徨わせる。
「上からより横から見る方がいいって」
なつきの戸惑いに気付いた様子もなく、そう言ってケースの隅でじっとしている幼虫を指差す陽。
「ほら、ここ。この短足具合がさ」
「イモムシが短足って何?」
「腹脚と尾脚。短足に見えない?」
目線の高さにケースを持ち上げて覗き込む陽。透明なケースの向こうのその眼差しは、本当に嬉しそうで。
その顔とケース越しだという安心感に、なつきもちらりとそれを見る。
蝶の脚となる胸脚三対、そのうしろの腹脚四対と尾脚一対は全く形が違い、横から見ると半円状。
確かに子どもが描く絵の犬やら猫やらの足のようにも見えなくもない。
体の前部分を上げてぺたりとケースの壁にはりついたそれは、頭を振りながらそのまま垂直に登り始めた。
「裏側見る?」
嬉々として尋ね、なつきが答える前に陽がケースの向きを変える。
吸盤のように押し潰された腹脚と尾脚が後ろから順序よく動かされることで前へと進む。四センチ程の大きさだが、移動は意外と早い。
あっというまにケースの蓋部分に到達したそれは、そのまま逆さまになり進んでいく。先程までは吸盤のようだった足を今度は格子の棒に丸の端を引っかけるようにしてぶら下がっていた。
「どう??」
蓋が見やすいようにケースを下げていた陽が尋ねてくる。
「どう、って…」
「かわいいだろ?」
「どこが???」
「え〜?」
なつきの即答に、陽が不服そうな声をあげる。
「なんで?」
「なんでって言われて……も…」
顔を上げると目の前に陽の顔があり、なつきは思わず言葉を詰まらせた。
ふたりの間は飼育ケースひとつ分。
普段目にする距離ではない。
「っっとっ、とにかくさっっ」
慌てた陽が一歩後ずさる。
「こいつらもかわいいとこあるからっ。そんなに嫌がんなくてもって思ってっっ」
それだけっ、と、飼育ケースを抱えて陽は飛び出していった。
「あっ、葉っぱ…」
脱兎の如く出ていってしまった陽に、なつきの声は届かなかった。
「もう……」
玄関前で立ち尽くし、なつきは今更うるさい鼓動に吐息をつく。
昔から知っているのに、どうして今になってこんなことに。
家に来だしたのは五年生の頃だが、彼のことは一年生の時から知っているのだ。
見慣れた顔。よく知ってる相手。特別かっこいいわけではないが、性格がよくて誰にでも優しい。特に今年は毎日と言っていいほど頻繁に顔を合わせて話したけれど、嫌な思いをしたことなど一度もない。
そんな陽に、今までときめいたことなど一度たりともなかったというのに。
子どもみたいにキラキラした顔でケースを覗き込んでいた陽。
見たことのないその透明なケース越しの顔は、いつもは自分に背中を向けた向こう側のものだった。
視線の先の三本の木。
隣に並ぶことができたなら、またあの顔を見られるのだろうか―――。
なつきは少し考えてから、玄関に置いたままの鋏を手に取る。
それから意を決し、木へと近付いていった。