第五景【焼菓子】裏
また前を向いて。
遠方に住む友人宅から帰ってきて数日。双子の姉の様子がおかしいことに、彼は気付いていた。
それは傍目には気付かぬほどの違和感。
感情のままに行動しているようにしか見えない姉が、本当はそうではないのだと知っている自分だからこそわかる程度のものだった。
思い当たることがないわけではない。
しかしそれを本人に問い質したところで、明確な証拠がないままではごまかされるのがオチだろう。
つまり自分には何も言えなかった。
どうしようかと暫く考えてから、彼は姉の部屋を訪れる。
いつも通りにしか見えない顔で、何、と聞いてくる姉に、彼も心配など欠片も出さずに口角を上げた。
「チーズタルト作るからさ、手伝ってよ」
「急にどうしたのよ?」
少し胡散臭そうな眼差しを向けて問う姉に、いいだろ、と苦笑する。
焼き立てのチーズタルトが売っていないと怒る姉の話をしたら、友人―――自分にとっては想い人だが、彼女がレシピを書いてくれた。
自分も姉もそのレシピで何度も作っている。今更手伝いなどいらないことはわかっているのだろう。
それでも何か思うところがあったのか、それともただの気まぐれか、案外あっさり頷いてくれた。
蒼翠に白のレースが映えるお気に入りのエプロンを着込み、機嫌よく作業を始める姉。
タルト生地、といっても、要するに少しバターが多めのクッキー生地。
何を作るのも一緒、順番に混ぜるだけ。教えてくれた彼女はそう言って笑うのだが、手慣れているからこその言葉だろう。
楽しそうに菓子を作る姿を思い出しながらバターを混ぜていると、あからさまに視線が刺さる。ジト目で見返すとくすりと笑われた。
「誰のこと考えてるのかしら?」
「うるさいよ」
料理をしても朝食程度で菓子作りなどしたことがなかった。そんな自分たちが、こうして普通に菓子を作ることができるようになっている。
誰の影響かは今更考えるまでもない。
あまりつつくと自分にも都合の悪い話を出されそうなのでそれ以上は口を噤み、順番に材料を加えて纏めていく。
姉も決して不器用ではないのだが、正直自分の方がこういうことに向いていた。差が出るのは型への敷き込みぐらいだが、それでフィリングの量が左右するので仕上がりとしての違いは大きい。
悔しがった姉はいつの間にか彼女に特訓してもらったらしく、今ではもう自分と大差なかった。
暫く休ませた生地をダレないように時折冷やしながら伸ばして型へと敷き、重しを載せて軽く焼く。
焼いている間にとチーズフィリングの材料を揃えながら、漂う甘い香りに彼女を思い出し、自然と笑みが浮かんだ。
どうして好きになったのかなど、自分にもわからない。
いつの間にか好きになり、その気持ちに気付いてからは、もうどうしようもなく好きで好きで仕方なくて。
いくら見つめても、恋を知らぬ彼女にはこの想いまでは伝わらず。困らせているのはわかっていても、差し出した手を引っ込められない。
そして何より。そんな自分に、彼女はどこまでも優しいのだ。
以前に姉から自分の好物を聞いていた彼女は、今回の訪問時にもちゃんとそれを用意してくれていた。
甘く柔らかなスフレチーズケーキ。
恋情からの好意でないことは知っている。
勘違いしてはいけないとわかっている。
しかしそれでも、嬉しいものは嬉しいのだ。
それこそ、泣きたいくらいに―――。
浮かぶ面影にこっそり吐息をつき、彼は手元の作業に意識を戻した。
焼き上がったタルト生地が冷めるのを待つ間にフィリングを作る。
とはいってもこれまた順番に混ぜるだけ。あっという間に準備はできた。
溢れないようにフィリングを流し込み、再び焼き始める。
「あとは待つだけね!」
嬉しそうな姉はすっかりいつもの調子に見えた。
奔放なようでいて、心の奥底の本音はいつも隠したままの姉。表に出せないからなのか、その分一途で想いが深く、いつまでも手放すことができない。
そんな彼女が、ずっと忘れられなかった相手。
幼い頃から知っている、兄のような人。姉にしては珍しく、素直に感情を出せる相手であった。
やりたいことを見つけたのだと、遠くへ去ろうとするその人を止めたくて。
行かないでほしいと言えない姉を見ていられなくて。
強い言葉でその人を責めてしまい、結果二度と会えなくなってしまった。
姿を見られなくなってからも、忘れることができずにいる姉をずっと見てきた。
自分の短慮が招いた事態。悔いても悔いても足りなくて。
今ではもう昔の話と笑ってくれるようになりはしたが、未だ償えたとは思えないまま。
だからせめて自分だけは。
誰も気付かない姉の本音を知る者でありたかった。
チーズタルトが焼き上がった。
型が外せる程度まで冷ましている間にお茶を淹れる。
「じゃあいただくわね」
見る者によれば赤面しそうなほど艶やかな微笑みを浮かべた姉だが、食べ進めるにつれて表情が柔らかく緩む。
それを見届けてから自分もフォークを入れた。
サクッと割れるタルト生地。フィリングは流れ零れるほど緩くはないが、立ち昇る湯気と同時に少しとろりと身を崩す。
口に入れると、底部分まで軽い生地にまだクリーム状のフィリングが絡みつき、まず先にフィリングの甘み、次いで噛む毎に生地の甘み、それぞれを感じた。
ちらりと視線を上げると、いつもより穏やかな表情でお茶を飲む姉の姿。
もちろんこれで今姉が抱える問題が解決したわけではないが、いつもの装う態度が軟化しているのを見ると、少しは助けになれたのかと思う。
ふと、姉が自分を見た。
「何?」
少し笑うようなその瞳に尋ねると、楽しそうにふふっと笑みを返される。
「まさかあんたとふたりでお菓子作るなんてね」
「こっちの台詞だよ」
どうせだったらまた彼女と一緒に作りたい、だなんて。姉に向かって言えるわけもないが。
含みある眼差しに苦笑を返しながら、チーズタルトを一口食べた。冷めつつあるそれは、それでもまだほわりと温かい。
胸が温かくなるのは、決して菓子とお茶が温かいからだけではない。
彼女に菓子作りを手伝わせてほしいと頼むといつも申し訳なさそうな顔をされるのだが、いざ作業を始めると遠慮はなく、こちらのペースに合わせて次々指示を出される。
出来上がってから我に返った彼女に本人に出すものを作らせてしまって、と謝られるのもいつものことだが、自分にとってはその時間すら大切で。
そんな彼女がいとおしく、得られた思い出はかけがえなく。
そんな思いが胸に火を灯し、自分を温め、行動する力をくれる。
ただ、好きになったというそれだけで。動ける理由と動けない理由がたくさんできた。
―――叶わぬまでも、幸せだと。
そう言えるほど、まだ達観はできないが。
「ホント、あのコに感謝しないとね」
誰のことを考えていたのかは気付かれているのだろう。姉の声音にからかう色はなく。
慈しみ見守るようなその眼差しがどうにも居心地悪く、嘆息して視線を逸らした。
満足そうにチーズタルトをふたつ平らげた姉は、片付けはしてあげる、と言い残して食器と共に部屋を出た。
ひとり残された部屋、少しは気が晴れたかな、と思う。
かつての想い人のことはもう忘れたという姉の言葉に偽りはないだろう。
しかしその時の苦い想いが未だ姉の足を止めているのもまた事実。
それに加えて、百人中九十九人が抱くだろう姉の印象は、本来の姉の性格とはほど遠く。それでも期待される性格を貫く姉に言い寄る男共は、内側に取り残される姉自身を知らぬまま。もちろん姉が相手をするはずもない。
そんな姉が最近珍しく見せている、あるひとりへの執着。それがどんな想いからのものか、おそらく姉自身は気付いている。
どんなに贔屓目に見ても、叶いそうにないその想い。
姉の気持ちが自分の勘違いなら、と。そんなわけがないとわかりつつも、そう願う。
姉も自分もそこそこモテる方ではあるのに、望む相手には歯牙にもかけてもらえないまま。
しかしそれでも自分は。そしておそらく姉も。
その人を好きになったことを後悔はしないだろうな、と。
浮かぶ自嘲を溜息で逃し、席を立った。
今回は【焼菓子】です。
飾りつける能力は皆無の小池ですが、焼きっぱなしで済む焼菓子はそれなりに作ります。
チーズタルトは生地も二種、さらに二度焼きせねばなので面倒ですが、作業的にはさほど難しくはなく。サクサク✕トロトロの食感は自作ならでは。
どうやら小池はしっとりよりサクサクが好みのようで。これを書いていて、パウンドケーキの頭を削いで先に食べようかと毎回葛藤する己に納得しました。ちなみに平たく焼けばたくさんサクサク! と思って角型で焼いてみましたが、膨らまず撃沈。あの盛り上がり部分がなければ思う食感は得られないのだと知る……。
クッキーの焼き立てもおいしいのですが、フライングしすぎると口に入れた瞬間唾液が蒸発するのでご注意を。じゅっ、と。ホントに聞こえますからね。……え? 普通やらない…??
最近はレシピも型も安価で手に入りますよね。
今では百均でも買えるシリコン型、出始めた頃はひとつ千円じゃ買えなかったらしいですよ。高!!!
高いといえばカヌレ。なんであの材料にあの程度の手間であんなにお高いのか………。謎。
今年一年ありがとうございましたの気持ちを込めて。