第五景【焼菓子】表
たまには振り返って。
衝動―――抑えきれない心の動き。
その日彼女はそんな自分の気持ちを持て余していた。
「…チーズタルト食べたい……」
昼食後テーブルに突っ伏したまま、ぼそりと呟く。
聞いている者は誰もいない。しかしそれでも繰り返す。
「焼き立ての。食べたい…」
先日友人宅でごちそうになった、焼き立てのチーズタルト。サクサクとしたタルト生地に、とろりととろけるチーズフィリング。一緒に口に頬張ると異なる舌触りのふたつが混じり合い、口内に籠もる熱とともに甘いチーズの香りが満ちる。
熱々の焼菓子は初めて食べる食感で。これほど違うのかと驚いた。
遠い町に住む友人宅にはそうそう頻繁に訪れることもできず。仕方なく自分の住む街で探してみたのだが、焼き立てを扱う店はなかった。
ないとなるとますます食べたくなるのが人というもの。
募り募った思いに、彼女はほぅっと溜息を洩らす。
「何やってんの」
年頃の男共なら目の色を変えそうなほど艶めいたその仕草も、双子の弟にはもちろんなんの効果もなかった。
かけられた声にちらりとそちらを見やり、彼女は再度わざとらしく吐息をつく。
「チーズタルトが食べたいの」
「食べればいいだろ?」
当然といえば当然の呆れたような弟の言葉に、わかってないわね、と彼女は返した。
「焼き立ての、なの!」
「それずっと言ってるけど。仕方ないだろ、売ってないんだから」
探すのにつきあわされたことを思い出し、まだ言うのかといわんばかりのジト目を向ける弟に、彼女は同じくらい冷えた眼差しを返す。
「んもう! だから食べたいんだって言ってるんじゃない!」
「知らないってば」
「冷たいわね」
ふいっと顔を背けてから、また吐息をついて頬杖をつく。
「行っちゃおうかしら」
どこに、とは言わなかった彼女だが、みなまで言わずとも弟の顔がひくりとひきつった。
「何考えてんの??」
できるわけないだろ、との含みを持ったその言葉。呆れた顔と口調に彼女の瞳にも剣呑な光が浮かぶ。
「あんただって行きたいくせに」
自分にとっては友人だが、弟にとっては友人の範疇を軽く逸脱していることは知っている。
尤も、向こうは友人としか思っていないだろうが。
バツ悪そうな顔で見返してから、弟は視線を逸らした。
「そりゃ行きたいけどさ…」
日帰りでは遊びに行けないほど遠方に住む友人。
ふたりして溜息をついてから、お互い顔を見合わせる。
「まぁいいわ。とりあえず買ってきて」
さらりと言われた言葉に、弟はきょとんと彼女を凝視した。
「なんで俺が??」
一拍遅れての問いに、ふふっと微笑んで。
「いいじゃない。頼んだわよ」
「だからなんで―――」
「いいから行きなさいよ」
「横暴!」
ぼやきつつ出ていく弟を見送って、彼女は仕方なさそうに微笑んだ。
何事にもやる気のない、本当にしょうがない弟だった。
努力せずともある程度なんでもできる生来の有能さが更に拍車をかけていたのだろう。適当に仕事をこなし、空いた時間は遊び歩き。なんの執着もなく流されるままで。
自分が何を言ったって聞き入れてくれないことなどわかっていた。
弟は自分のことをいつも頑固だの横暴だのと言うが、双子である弟だって相当頑固で意地っ張りだった。
―――そんな弟が、恋をして変わった。
人によっては弱くなったというかもしれない。
投げやりさの裏返しの勝手気ままさも、執着のなさの裏返しの博愛主義も鳴りを潜め、ただその人のために何事にも真摯に向き合うようになった。
その分些細なことに心揺らされ落ち込んで。今まで見せたことのないような切なげな目をしてその姿を追いかけて。
本当に。これほど変わるものかと驚くと同時に、いい方向に変えてくれた友人に感謝を抱く。たとえ友人本人に、そんなつもりはなかったとしても、だ。
その恋がどんな結果に終わったとしても、本気で誰かを好きになり、本気でその気持ちに向き合えたなら、きっとこの先の糧となる。
焦がれるほどに抱いた想いは、きっと弟自身の力となり得る。
それほどまで想える相手と巡り会えたことが、少し羨ましくもあり。
そんな弟に比べ、誰にも踏み込めない己が少し情けなく思えるけれども。
「…精々、頑張りなさいよ」
脈はなさそうだけどと苦笑しながら、彼女は立ち上がった。
「ほら」
ふてくされた顔で紙袋を突きつける弟に、彼女は笑って礼を言う。
「ありがと。焼き直してみようと思うんだけど、あんたも食べる?」
「食べるけど。焼くのは自分でやってよね」
「わかってるわよ。もう準備してあるわ」
文句を言いつつも気遣いに長けた弟は、彼女がチーズタルトを焼き直している間にお茶を淹れると言ってついてきた。
「ねぇ」
「何?」
「どこが好きなの?」
顔を見ずにそう問う。
「これが好きなのは俺じゃないよね?」
僅かな沈黙の後、笑うような声が返ってきた。
少し沈んだその声音に、意図はちゃんと通じていると知る。
「あんたが好きなのはスフレの方だって知ってるわよ」
ではなんのことなのかとは聞かれなかった。
互いに無言で作業を進める。
弟が買ってきたチーズタルトは少し高さのある小振りなものだった。袋の中には家族の分も入っているようだが、焼くのはふたつだけにする。
ポットに茶葉を入れていた弟の手が、不意に止まった。
「………わかんないよ」
自身の迷いを表すように声が揺れる。
「…なんでこんなにって。俺だって知りたいくらいだってば…」
己の恋路の困難さを、弟自身も理解している。
それでも諦められず、焦がれ、求めて。困らせることがわかっているから、差し出してしまった手をそれ以上伸ばせずに立ち尽くす。
誰にでも優しい友人は無自覚のままこちらを振り回しはするのだが、それすら嬉しそうに受け止めて。
そうね、と自分に呟く。
自分は弟が羨ましいのだ。
それだけ想える相手を見つけ、好きだと言える弟が羨ましいのだ。
恋愛に―――己を見せることに臆病な自分に、そんな恋はできないのだから。
友人の幸せと弟の幸せ。
重ならないそれを、自分には見守ることしかできないが。
「…あんたも変わったわね」
「うるさいよ」
羨望を呑み込んで出した呆れた声に、拗ねた声が返ってきた。
火力に気をつけて、なんとか焦がさず焼き直したチーズタルトを皿に載せる。
「どうかしらね」
ほんのり湯気の上がるそれにフォークを入れると、縁の部分はサクリと割れた。
聞こえた軽い音に期待が高まる。
続けてそこから中心部へと向けフォークを進めるが、こちらに思うような手応えはなかった。
底のタルト生地とチーズフィリングとを一緒に口に入れる。温かくはあるが、フィリングは固めで焼き立てのようなとろけるクリーム感はなく、生地はしっとりと柔らかい。
これはこれで美味しくはある。しかし。
「……違うんだけど」
不服そうに呟く彼女に、俺に言われても、とぼやく弟。
フィリングの水分をタルト生地が吸ってしまっているのだろう。フィリングに触れていない縁の上の方は軽い食感になっているのだが、あとはただ温かいだけのチーズタルトだった。
食べる手を止め、弟を見る。
「ねぇ。違うんだけど」
「だから俺に言われても」
不穏な空気を感じ取ったのか、弟の食べる手が早まった。大振りに切ったチーズタルトをフォークで突き刺し、次々と口に放り込む。
「ごちそうさま」
そう言ってから残っていたお茶を飲み干し、弟は空になった食器を手にそそくさと部屋を出ていった。
逃げたわね、と閉まった扉を睨みつける。
(覚えときなさいよ)
心中呟く声が伝わるはずもない上に、完全に八つ当たりだとはわかっていたが、羨む気持ちと落ち込む気持ちを怒りに変えておく。
皿に残るチーズタルトを見つめ、彼女は吐息をついた。