第三景【ケーキ】表
浮足立つ街の力を借りて。
「今度の金曜日?」
「そう。仕事帰りにどうかなって」
啓太の言葉に、待ってね、と返してスマホを見る葉子。
「二十三日ね。大丈夫。残業にならないよう気をつけておくわね」
「俺も。じゃあ」
休憩室で弁当を食べる葉子と別れ、昼食を食べに外に出る。
建物を出て、小さくガッツポーズ。
「よかったぁ……」
とりあえず、第一の関門はクリアした。
残業続きで疲れ切った様子の彼女を見ていられず、仕事を手伝ったのが二ヶ月前。
それまではたいして話すこともなかった相手。別になんの下心もなく、ただつらそうだったから、というだけの理由だった。
週明けに礼を言いに来てくれた彼女は別人のように清々しい顔をしていて。お礼に食事でも、と軽く言われて戸惑いつつ。どうしようかと話すうちに、互いに焼酎好きであることがわかった。
職場の飲み会ではほとんど酒など飲まぬ彼女。驚く自分に、ビールもワインもあまり好きじゃないの、と笑った。
いいとこ知ってるの、と彼女が連れて行ってくれた店は、落ち着いた照明に脚の長いテーブルと椅子が整然と並ぶオシャレな店ではなく、目に眩しい光量の電球と素材そのものの木造りのテーブルと椅子がみっちり並ぶ、どちらかというと居酒屋に近い雰囲気の店だった。彼女がどうしてここを選んだのかは、手書きのメニューを見て納得する。
ずらりと書かれた銘柄からひとつずつ選んでから、ここへはよく来るのかと聞くと、久し振りなの、と返された。
「ひとりじゃ来にくくって」
そう言い笑う彼女に、誰と来ていたのかとは聞けなかった。
久し振りに誰かと飲む酒は美味しく、酒のせいか弾む会話は楽しく、グラスの向こうで微笑む彼女に目を奪われ。お互い飲む連れがいないなら、と、また来ようかと口約束をした。
酒の席でのこと、本気にしたら引かれるかと思いつつも。一週間ほど待ってから、またどうかと聞いてみた。
一瞬驚いた顔をされたので、やはり社交辞令だったのかと冷や汗をかく。
「気に入ったの?」
唐突に問われ、固まった。
「き、気に入ったって…」
「あの店」
「あっ、そ、そう。あの店。また行きたくて」
どもりながらも取り繕い、どうかな、と続けてみると、彼女は表情を緩めて頷いてくれた。
「気に入ってくれてよかった。いつにする?」
それから何度も一緒に飲みに行った。
彼女から誘ってくれることも増えてきた。
最初に行った店だけでなく、よさそうな店を探してそれを口実にまた誘ったりもした。
仕事帰りなのでそう長い時間ではない。
それでも自分の目の前、楽しそうに笑って話し、料理と酒に顔をほころばせる彼女を見ていられることが嬉しかった。
いつの間にか惹かれていた。
否、おそらくあの日には既に恋に堕ちていたのだろう。
今付き合っている相手がいないことは知っている。
自分とばかり飲みに出ていていいのかと冗談めかして聞いてみた時、怒る人なんかいないから、と笑って返された。
自分ではどうかと言えなかったことを、あとになって本当に悔やんだ。
それ以来そういった会話にはならず、相変わらずの楽しい時間と同じだけもどかしさが募る。
同僚だから。毎日顔を合わせるから。こうして飲みには行けるから。このままで十分楽しいから。
並べ立てた言い訳よりも、彼女への想いが次第に重く大きくなっていく。
クリスマスに向け華やかに飾り立てられていく街並みと至る所で耳にする明るくも甘いクリスマスソングに背を押され、ようやく覚悟を決めた。
その夜、スマホを前に啓太は溜息をつく。
あまり前もって誘うと変に思われそうなので、いつも通り数日前に声をかけたのが裏目に出た。
店の予約が取れないのだ。
クリスマスイヴイヴの金曜日。少し考えればわかるだろうと己の迂闊さを呪う。
ビールもワインもあまり好まない彼女。焼酎とクリスマスのコースを楽しめる場所などそうそうなく、ようやく見つけた数軒だったのに。
いっそのことお酒抜きでとも思ったが、それだとその店を選んだ理由を取り繕えない。そもそも自分のメンタルではアルコール抜きで告白など無理な話。
「…詰んだ………」
スマホを放してテーブルに突っ伏す。
幸先悪いなと、ぼそりと呟いた。
結局店を見つけられないまま当日を迎えた。
「どこに行こう?」
「そう…だなぁ…」
考えていた店に飛び込みで行こうかとも思ったが、予約も取れなかったぐらいなのだ。待つに決まっている。
考えあぐねる自分に、彼女も考え始めて。
「金曜日だもの、どこも混んでるわよね。いつものところ、空いてるか聞いてみる?」
そのうち彼女がそう聞いた。
これ以上迷っていても、時間もなくなり身体も冷える。仕方なく啓太は頷いた。
席を取っておいてもらい、店に向かう。
「荷物多いね? 持とうか?」
いつもより鞄がひとつ多いことに気付いてそう言うが、大丈夫と首を振られる。
「軽いから。行きましょう」
ライトアップされた街路樹がまっすぐ続く。店のショーウィンドウには赤と緑が溢れ、金銀の星やベルが街路樹のライトを反射して光る。
きらびやかな街中を、こうして並んで歩けているというのに。
ちらりと視線を向けると、競うように飾られたクリスマス装飾を楽しそうに眺めながら歩く彼女の姿。
傍から見たら恋人同士に見えなくもないだろうが。
その実、手のひとつも握れない。
こんな日に食事に行くというのに、クリスマスらしいことなど何ひとつない。
(ホント情けない……)
こっそり嘆息し、視線を逸した。
ふたりでの食事は変わらず楽しかった。
いつものように向かいで微笑む彼女。
こうしていられて嬉しいのに。
重なる予定外に決めた覚悟は既に消えてしまっていた。
もっとスマートにできれば、今頃は―――。
「どうかしたの?」
不意に心配そうな声をかけられ、びくりと顔を上げた。
「仕事で何かあった?」
覗き込む瞳に、不甲斐ない自分が映り込む。
ひとり空回って。心配をかけて。
もう本当に情けない。
「ぼーっとしててごめん。何でもないよ」
反省会は帰ってから。
せめて楽しかったと言ってもらえるようにと、彼女に向き合った。
なんとか立て直し、楽しく食事を終えた啓太。
行きと同じイルミネーションに彩られた道を駅へと向かう。
沈む心とは裏腹に、行きよりもまばゆく見えるライトを眺める。こちらの気などわかるはずもない彼女も同じように光を纏った木々を見上げ、きれいね、と呟いていた。
思わず息を呑み、視線を逸らす。
寒空に映える暖色の光が連なる先、一際明るい一画に駅がある。路線が違うので彼女とはそこでお別れだった。
規則的に点滅するライトがさらに気持ちを逸らせる。
このままではいたくないから、覚悟を決めたはずではなかったのか?
街が幻想的な光を帯びるこの時期、彩る輝きに浮足立つこの時ならと、そう思ったのではなかったのか?
今日、言えないままで。
一体いつ言えるというのか?
やがて到着した駅前。彼女が別れの言葉を口にする前に。
「明日休みだし、もう少し…コーヒーでも飲まない?」
どうにかそれだけ切り出した。
今まで食後はまっすぐ帰るだけで、こうして誘ったことはない。
彼女は少し目を瞠ってから、ふぅっと力が抜けたように微笑んだ。
「ええ。そうね」
その表情が嫌がるどころかむしろ嬉しそうに見えて。
ばくんと跳ねた心音に動揺しながら、啓太は慌てて店を探した。
目についたカフェに入った。案内された席に着き、置かれていたメニューを彼女の方へと向けてめくる。
どうにか足は止めてもらえた。
あとはきっかけがあれば、と考える。
「……クリスマスだし、ケーキでも食べる?」
目についたメニューの文字に、今日がクリスマスイヴ前夜であったことを思い出してそう尋ねた。
クリスマスに一緒にケーキを食べる。
そこからそういう話に持っていけたら―――。
「ケーキはやめておくわ」
あっさりと断られ、肩を落とす。
「そっか」
時間も遅いし当たり前かと思ったその時。
「ええ。だって、クリスマスイヴは明日でしょう?」
続けられた声が、いつもよりも柔らかく。思わず彼女を見る。
かなり間の抜けた顔をしているのだろうか、少し頬を染めた彼女が小さく笑った。
「だからケーキは明日に、ね?」
喉まで出かけた言葉を呑み込んで。
明日は朝イチでプレゼントを買いに走ろうと決めた。