第十五景【ワイン】表
混ざらぬ色。
いつもだったら嬉しい金曜の夜。心乃美は重い足取りで帰路に就く。
幸せそうなふたりの顔と、囲む皆の祝福と。乾いた笑みを貼りつけておめでとうございますと言った自分の声が、いつまでも消えない。
ようやく最寄り駅に着き、あとは徒歩。気が抜けたのか、油断をすると零れそうになる涙を必死に堪える。
明日と明後日は仕事も休み。家にさえ帰れば今日と明日くらい泣いて過ごしても構わない。
途中、聞こえた通知音に握りしめていたスマホを見ると、友人の桐華からの返信だった。
電車の中から入れたメッセージへの返信。我慢していた涙が零れる。
『すぐ行くから!』
滲む画面には、力強い言葉が記されていた。
心乃美が帰宅してから半時間ほどして桐華がやってきた。
「…っりが、と」
「ひっどい顔」
タオルで顔を半分隠して迎えた心乃美に、桐華は開口一番そう言い放つ。遠慮のない高校時代の友人に、心乃美はだってとぼやいた。
「ご飯まだでしょ? 用意するからシャワー浴びといで」
帰ってきてからずっと泣いていたことは見透かされているようで。
言い訳すらできずに追い立てられ、心乃美はノロノロと準備をし、バスルームへ向かった。
うつむき頭からシャワーを浴びる。頬を流れるのは涙なのかシャワーなのか。ぼんやりそんなことを考えるうちに、いつの間にか涙は止まっていた。
温まり少し落ち着いた心乃美が部屋に戻ると、ローテーブルの上には既にいくつか皿が並んでいた。
「もうちょっとだから座ってて」
パタパタと忙しなく動きながらの桐華の声に、心乃美は素直にテーブルの前に座る。
サニーレタスとハムのサラダ。粒マスタードが添えられたボイルウインナー。買った覚えのないモツァレラチーズとトマトは桐華が持ってきてくれたのだろう。チルド室のレーズンバターも見つかってしまったらしく、チーズとクラッカーとともに並んでいる。
「先にこれ」
桐華が心乃美の前に深皿を置いた。キャベツと玉ねぎが入った透き通る黄金色のスープ。向かい側にも同じものを置き、桐華も座る。
「食べよ」
「ありがと、桐華」
礼を言い、スプーンを入れ一口啜った。僅かな燻製香と野菜の甘さを感じるコンソメスープが、泣きすぎて重い身体に染み渡り温めていく。
ほぅ、と息を吐き。先程までとはまた違う理由で込み上げる涙を拭った。
「…美味しいよ」
「そう。よかった」
互いに再び黙り込み。
スープを飲み切る頃には、心乃美の中に次々打ち寄せる感情の波は少し凪いでいた。
食べ終わったスープの皿を下げた桐華がグラスふたつと栓を抜いたワインの瓶を持ってくる。
ずんぐりとした透明なグラスに鮮やかなルビー色のワインが注がれた。
「じゃあ洗いざらい吐きなさいよ」
「何その言い方…」
拗ねてぼやく心乃美に、桐華は表情を変えずグラスを手に取った。
「聞くだけだったらいくらでもしてあげるから」
分厚いグラスがカチンと少々鈍い音を立てて合わさる。
仕方なさそうな顔をしながらも、桐華は自分が気負わず話せるようにこういう言い方をしているのだとわかっていた。
せめて話し終わるまでは泣かずに済むように。余すところなく話しきれるように。高校生の頃から何度もこんな自分の相手をしてきている桐華。扱いだって手慣れたものだ。
頼もしさ半分、もう少し優しくしてほしさ半分で、心乃美はグラスに口をつける。
口に含んだ赤ワインは渋みが少なく、飲み込むとほんのりとした甘さが残った。
ずっと気になっていた。
とても優しい会社の先輩。困っているといつもさり気なく助けてくれる。
誰かの陰口を叩いたり、自分勝手な行動をしたり。そんなところは見たことがなく。いつも穏やかに笑っていて、皆のことを気にかけているような人。
何度も教えてもらい助けてもらい。いい人だなぁと思うようになって。いつも外食の先輩と外へと出るのが同じタイミングになり、一緒にお昼を食べたこともある。
だんだん惹かれて。だんだん好きになっていった。
誰にでも優しいけど、自分にも優しいから。気付けずにいた。
外でお昼を食べる回数が減ってきていたこと。
先輩の同僚のあの人と一緒にいるところをよく見かけるようになっていたこと。
思い返せば予兆はあった。
ただ自分がちゃんと気付こうとしなかっただけなのだ。
暫く何も言わないまま、こくりともう一口ワインを飲んで。
「…先輩、結婚、するんだって」
言葉にするとますます事実が染み込んでくる。グラスを置き、うなだれる。
「先輩って、あんたが気になるって言ってた人?」
下を向いたまま頷く心乃美に、桐華はふぅんと感情の籠らない呟きを返した。
「あんた、そんなに泣くほど好きだったの?」
「好きだったもん!!」
容赦ない言葉に思わず言い返してから、己の中の違和感に気付く。
自分は先輩を好き。その気持ちは間違いないが。
「…好き、だったんだもん……」
尻窄みの声は、その先の言葉を認めるものだった。
好きな人がいる日常。
その人に会えるのが嬉しくて。
その人と話せるのが嬉しくて。
その人がいてくれるのが嬉しくて。
周りがキラキラして見えるような、そんな気持ち。
毎日ふわふわと幸せな気持ち。
ほんの些細なことに舞い上がって。
明日の笑顔を胸に描いて。
そんな幸せが、自分の日常―――。
またグラスを手に取り、また一口飲む。
先程までの甘さはもう感じない。
天井のライトの光が映り込み、赤い水面で白く揺らめく。華やかな赤、煌めく白。混ざり合わない赤と白。
二口、三口と飲み進める心乃美の瞳が潤んでいく。
ぼやける水面、しかし光はワインに溶け込まない。
惹かれていたのも、好きだったのも、本当。
しかし自分が浸っていたのは、ただの好きな人がいる日常。
キラキラふわふわした、柔らかい日常。
赤と白が混ざってしまった、淡いピンクの日常。
持て余すような焦れも泣きたいほどの寂しさもない、生温い気持ち。
相反して混ざり合わない、熱も凍えも覚えぬままで。
その人を希う必死さなど、欠片もなかった。
心乃美が空になったグラスをテーブルに置いた。少し飲んだだけで動きを止めて見守っていた桐華も同じくグラスを置く。
ぐい、と涙を拭った心乃美が桐華を見つめた。
きつい物言いもこちらを思えばのもの。恋に恋する自分をよく知るからこその、気付きへと導く言葉なのだ。
じっと見ていると、少し笑って息をつかれる。
こんなところまで見透かされているのかと心乃美も苦笑う。
こうして自分をわかってくれる友がいる。そのことが嬉しかった。
「……ふたりとも、嬉しそうに笑ってた…」
未だ消えぬ記憶の中。それでも見え方が少し変わった。
ふたり並んで。照れたように笑って。
先輩のあんな幸せそうな笑顔は見たことがなかった。
きっとふたりは自分とは違い、キラキラでもふわふわでもない気持ちすら受け止めたのだろう。
「………いいなぁ…」
零れた言葉にくすりと笑ってから、桐華が心乃美のグラスにワインを注ぐ。
「どっちの意味?」
「どっちも!!」
グラスを掴み、心乃美は桐華の前へと突きつけた。
「今日は飲むよ!」
自分のグラスを取り、桐華がカチリと合わせてくる。
「あんたの好きな甘いのもちゃんと冷やしてるから」
「え? そっち飲みたい」
「食べてからよ」
笑う桐華に一度頬を膨らませてみせてから、注がれたワインを飲む。
すっきりと軽い赤ワイン。後味は、少し甘い。
「いっぱい用意してくれてありがとね、桐華」
「急だったから簡単なものしかないからね」
「十分だって!」
調子いいんだから、と笑う桐華に笑みを返して。心乃美は箸を手に取り、いただきますと告げた。




