第七景【翼】表
約束の代わりに。
「怨霊がいるの。倒してくれない?」
いつも通り前触れなく現れた精霊ティノンに、ジャックは野菜を切る手を止めてぱちくりと見返した。
「…ティノン?」
「困ってるの。お願いするわ」
透けているかと錯覚するほどに色素も存在感も薄いティノンが、これまたいつも通りに表情ひとつ変えずに続ける。ジャックは傍らに飛ぶ妖精ラシーヌと顔を見合わせ、もう一度ティノンを見やる。
今日は自分たちが世話になっているダスティーとエリファーナの結婚記念日。ささやかながらお祝いをしようと、朝から準備をしているのだ。
「…今日じゃないとダメ…?」
「駄目」
―――即答かよ―――
内から聞こえた声に苦笑する。
(…どうする? ジェイク?)
―――どうするも何も。選択肢ねぇだろうが―――
心中の問いかけに応えるその言葉に、確かに、と思う。
ここで断ったとしても、ティノンのことだ、聞き入れるまで言い続けるに決まっている。
それに。
―――どうせやんなきゃなんだしな―――
同じことを考えていた相棒に、ジャックは笑ってそうだなと返した。
一旦片付け、準備を整える。
「じゃあ行ってくる」
「気をつけてね」
留守番のラシーヌにあとを頼む。もちろん掌に乗る程度の大きさの彼女に料理の続きをお願いするわけではなく、今は外出中のダスティーたちが戻ってきたときに上手く誤魔化しておいてもらえるように、だった。
快く請け負ってくれたラシーヌに礼を言い、ジャックはティノンについて森の奥へと入っていった。
目にかかる銀髪を払いのけ、見上げる。
人を拒むような冴えた空気。外から見れば内を隠すように広がる樹冠も、内からだとすべてを閉ざすものではないとわかる。零れる陽光は地に届き、妖精霊の祝福を得た植物を育んでいる。
術師と呼ばれる自分たちの創り出すものとはまた異なる、これもひとつの結界なのだ。
(昔はこんなこと考えもしなかったのにな…)
独り言だとわかっているのだろう。聞こえているはずなのに、ジェイクは何も言ってこなかった。
己の在り方に悩む中、偶然出逢ったこの世界。必然だったのだろうと今なら思える。
術師の世界に足を踏み入れたからこそ、己の内にいるもうひとりに気付くことができたのだから。
自分の中にいる、自分ではないもの。
なぜ彼が自分の中にいるのかはわからないが、それでも今は大切な相棒。
銀の瞳を細め、ジャックは歩を進めた。
ティノンに連れてこられたのは、何度か使ったことのある精霊の〈道〉。術師が使うものと同様に、記憶にある場所へと行くことができる。
―――変わるか?―――
心配してではなく、一応聞いただけだとわかる、ジェイクの声。
(まだいいよ。俺だってジェイクに頼ってばっかじゃいられないし)
―――だな―――
わかってくれている相棒に、ジャックは自然と笑みを浮かべて。
その背の白い翼を解き放った。
〈道〉の先は洞窟の前だった。洞窟の中から漏れる瘴気に、聞くまでもない行き先を見やる。
瘴気の主、怨霊が。間違いなく中にいる。
―――よりによって、かよ―――
(中、広いといいんだけど…)
生まれた時からのつきあいなのだから、ある程度狭くても上手く動けるとは思うが、己の背の翼はそれなりに場所を取るのも事実。正直洞窟内の戦闘には向かない。
―――外から撃ち込んで、ってわけにはいかねぇのか?―――
ジェイクの提案をティノンに伝えると、とんでもないと顰め面をされた。
「私たちにとっても大切な場所。壊さないで」
「そんなこと言われても…」
結界内に閉じ込めることさえできればあとの被害はないが、問題はそれまでの間。周りに被害を出さないためには、周りを含まず結界を張らねばならない。
「心配ない。だから私が来たの」
淡々と呟き、ティノンが気配を隠すのをやめた。
「ちょっ、ティノン!」
―――っのバカ、何やって―――
刺すような瘴気を感じた直後、洞窟から黒い影が飛び出した。
怨霊―――感情に巣喰う仄暗いものと同一でも不同でもある。何から生まれたかはわからないが、触れるものを呑み込み闇のように蝕み造り変えていく、多くは実体のないもの。
精神体の結晶ともいえる精霊は格好の『食餌』である。
―――ジャック!!!―――
ジェイクの声を聞くまでもなく、ジャックの右手に瞬時に銀の光が集う。まっすぐティノンに向かってきた怨霊に素早くそれを投げつけ勢いを殺し、次いで怨霊を含めた周囲を結界で囲んだ。本当ならばティノンは結界外に出したかったのだが、己の隣のこの位置ではそれも叶わない。
「下がってて」
まだ戦闘経験が少ない自分にどこまでティノンを守れるか、正直自信はないのだが。
うしろに下がると同時にティノンが気配を消した。本来ならば一瞥された程度なら認識はされないこの状態だが、既に視認されている上に隠れるところがないこの場では気休めでさえない。
場にいるのは黒い靄を捏ね合わせて纏めたようなもので、幸いそこまで強い怨霊ではない。有象無象とまではいえないが、まだ自分にも対処可能な程度だろう。これが実体を持つような相手なら自分ではまず無理だった。
左手に力を溜めながら右手で牽制弾を撃ち足止めを続ける。ティノンを守るためにもできるだけ早く仕留めなければならなかったが、力の扱いにまだ慣れていない自分には左右同時に力を集めるだけで精一杯、集める速度が上がらない。
一瞬の逡巡のあと左手のそれを怨霊へと放った。銀の光球は怨霊に触れるなり弾け、大きく下がらせる。
その間にと、両手を向かい合わせ一気に力を集めるジャック。ヴン、と膨れ上がった光を圧縮し始める。
できるだけ多く、できるだけ早く。
手負いになるとその存在を棄てることで力を得て肥大化することがある。死物狂いとでもいうのだろうか、その際はそれまでの強さを軽く超えるのが常で。そうしないためには確実に仕留められるだけの力を溜めねばならなかった。
下がりきった怨霊が、力の残滓を振り払うようにぶるりと揺れる。
瘴気の矛先がこちらを向いた。
翼を広げて踏み切った。ばさりと大きく動かし、そのまま宙に身を留める。
こちらへ注意が向いたのなら、ティノンから少し距離を取った方がいい。そう判断したのだが。
まっすぐこちらへと向かいかけた怨霊が、不意に動きを止めた。
―――ティノンっっ!!―――
ジャックが動くのとジェイクの声はほぼ同時。
ティノンへと向きを変えた怨霊へと、仕留めるにはまだ足りない光球を投げつけた。
カッ、と閃光が迸る。
至近距離での爆風に翼ごとあおられながら、ジャックはティノンの前へと着地した。
「ごめん、大丈夫?」
「ええ。助かったわ」
―――バカっ! 言ってる場合かっっ―――
ジェイクの声に我に返る。
渦巻く風の向こう、潰えきれない闇が立ち昇った。
―――あいつと俺らの周りにもう一個結界!! 早くっ!!―――
黒い腕を伸ばすように、ティノンへと迫る闇。
自分とティノンの間を境目としてふたつ目の結界を張ったジャックに、間に合った、とジェイクが呟いた。
(最初からこうしとけば…)
ティノンを気遣いながら戦うことも危険な目に合わせることもなかったのだと、今更気付く。
―――そういうこった―――
少しだけ呆れを含んだその声色に、ジェイクは自分が気付くのを待っていたのだと知った。
やはり自分はまだ足りない。
力も、機転も、経験も。
目の前、暴れ狂うようにのたうちながら膨らんでいく怨霊。もう自分の手には負えなかった。
ここまでか、と息をつく。
(…交代。ごめんな)
少し沈んだジャックの言葉に、気にすんな、とジェイクが返す。
―――お前はちゃんとティノンを守った。あとは俺に任せとけ―――
その言葉が単なる慰めでも取り繕うものでもないことは、まだ短いつきあいであってもわかっている。
(ん…。頼むよ)
及第点ではあったらしいと思いながら。
ジャックは主導権をジェイクへと渡した。




