第一景【お茶】
ほぐれる心に浮かぶのは。
忙しかった一週間がようやく終わり、葉子は溜息と共に自宅の鍵を開ける。
(ほんっとに。なんでトラブる時って次々重なるのかしら)
あまりに残業続きの自分に、今日くらい早く帰ればと同僚があとを請け負ってくれた。急かされるまま定時で上がったものの、どこへ寄る気力もなくまっすぐ家に帰ってきてしまった。
あとで確認せねばならない仕事もあるが、とりあえずは鞄のまま放置することに決める。静まり返る部屋の中、上着を脱いでから気付いた。
「…晩ごはん……」
ひとり暮らしの葉子に食事を作ってくれる者はいない。何か買ってくればよかったと後悔しながら、とりあえず風呂に湯を張り始めた。
待っている間に冷蔵庫に残っていたご飯で小さなおにぎりをひとつ作り、口に放り込む。これで少しくらい長湯してもひっくり返りはしないだろう。
ソファーに座ってしまうと動く気がなくなりそうなので、今のうちにと上着や弁当箱を片付ける。
そうこうするうちに湯に満たされたバスタブにとっておきのバスキューブを落とし、氷水入りの水筒と共に暫し浴室に籠もることにした。
疲れも愚痴も湯に溶かし、少し落ち着いた。そろそろ夕飯も作らねばならないが、長湯したせいかそんなに空腹も感じないし、何より折角さっぱりしたのに、今から煮たり焼いたりしたくない。
どうしようかとさほど広くもないキッチンを見回す。こういう時のためのインスタントやレトルトや冷凍食品なのではあるが、今ひとつ気分ではない。
とにかく今はゆったりしたい。忙しない料理を食べたくなかった。
覚悟を決めて粥でも煮ようかと思いつき、残りのご飯を出してくる。どうせならさらりとした白粥ではなく、米を潰しながら鶏ガラスープの素で煮込んで中華粥にしようかと考えて、ふと気付いた。
振り返り、小さな食器棚の上段一面を占める木箱に目をやる。
少し考え、葉子は木箱を手に取った。
電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れる。
残りのご飯は温めて小さな塩むすびをふたつ作った。
ローテーブルに木箱を置き、ソファーに座る。
これを使うのはどれくらい振りだろうか。
すのこ状の木箱の蓋を開けると、中には白地に朱色の花模様の陶器の茶器が収められていた。普段目にするものより小振りなそれは、旅行先で買った中国茶器のセット。
茶壷、茶海、五組ずつの聞香杯と茶杯、茶盤と同じ色の茶匙。全て出してから茶盤の蓋を閉める。
まるでおままごとの道具のような、小さな急須と湯呑。蓋を外した茶壷、茶海、今日はひとりなので聞香杯と茶杯はひとつずつ茶盤に置いた。
残る四つを棚に返しがてら茶葉を探す。飲みかけの烏龍茶の茶葉はあるが、ここはやはりと思い、別の袋を手に取った。
ラベルには黄金桂と書かれてある。
王道は凍頂烏龍茶なのだろうが、黄金桂も同じ青茶、どうせなら一番好きなものを入れようと決めて開封した。
ちょうど湯が沸いたので、茶葉とケトルを持ってソファーへ移動する。
茶器全てに湯を張り、蓋にもかける。温まるのを待ってから、小さな急須のような茶壷の湯を茶盤にあけた。すのこを通り、下の箱へと湯が溜まるようになっている。
ほんわりと湯気の上がる茶壷に茶葉を入れ、再び湯を注ぐ。注ぎ口から少し溢れたところでやめ、蓋をした。蓋の上からさらにお湯をかける。
待ち時間は一分ほど。その間に茶海、聞香杯、茶杯の湯も捨てておいた。
そろそろか、と茶壷を持ち、蓋を押さえて一気に茶海へと注ぐ。
口が大きなずんぐりとした白地の器なので、淡い金色がよく映える。茶海に満たされた鮮やかな金色のお茶から、ふわりと立ち昇る甘い香りと湯気。
その水色と金木犀に似ているという香りからその名をつけられた茶葉。
金木犀、かどうかはともかく。青茶独特の香りに顔が緩む。
茶壷の蓋を開けて茶盤に置いて。
一煎目のお茶が淹れ終わった。
まずは、と直径二センチほどの筒型の聞香杯へとお茶を注ぐ。暫く待ってお茶を茶杯へ移してから、聞香杯に鼻を近付けた。お茶から直接嗅ぐよりもどこか柔らかい香りが鼻を抜ける。
初めてこの作法を聞いた時は、なんの意味があるのだろうかと思ったものだが、きっと香りも味もゆっくり楽しむにはいいのだろう。それほど香りに敏感というわけでもないので、聞香杯が温かい時と冷めてからでは香りが違うといわれても、そうなのかとしか言えないのが情けなくもあるが。
それでも好きな香りに身体が満たされるような感覚は、こうしてゆっくり淹れるからこそ。十二分に味わってから聞香杯を置き、今度は茶杯を手に取った。
茶杯からの香りは聞香杯の時とは違い、お茶の存在を感じさせるしっかりとしたものであった。揺れる金の水面が光を返してきらりと瞬く。
茶海、聞香杯を経て少し冷めたそれを半分ほど口に含んだ。お猪口と同じくらいのサイズの茶杯、半分といってもそう多くはない。
一煎目なので苦味はほとんどない。粘度はないのに舌触りはとろりと柔らかく、飲み込んだあと、喉と鼻を抜ける香りに笑みが浮かぶ。
茶杯の残りを飲んでから、茶盤に置いてソファーにもたれる。
ゆっくり、息をついて。
香りに満たされた身体に熱が加わり、緩みほぐれ。
吐息まで甘いお茶の香り。温かいうちに、二杯目を注いだ。
一煎目を飲み切り、二煎目を淹れる。
同じように湯を注ぎ、先程より少し長めに待つ。白地の茶海に、少し色味の濃くなったお茶が注がれた。一煎目が透けるような金色なら、二煎目はしっかりと存在感のある黄金色。聞香杯の香りも甘さよりもお茶の香りに近くなったように感じた。
少しお茶らしい苦味が加わった二煎目を一杯飲んでから、塩むすびに手を伸ばす。
お茶の香りを邪魔せぬために、今日は敢えての塩のみのおにぎり。お茶とは違い鼻にではなく舌に感じる米の甘さと少しきつめの塩味に、あっという間にひとつ目を食べてしまった。
慌てて二杯目を直接茶杯へ注ぐ。塩味を感じたことによりお茶に慣れてぼやけた味覚が戻ったようで、改めての苦味とまろやかな口当たり、鼻孔を抜ける甘さを堪能する。
ゆったりと流れる時間。
今はただ、その流れに身を任せた。
湯を沸かし直し、三煎目を淹れる。
二煎目よりも更に長く、しっかりと蒸らした。
茶海にあけるまでは同じだが、もう聞香杯は使わないことにする。
ふたつ目の塩むすびを食べながら、すっかり柔らかな口当たりからしっかりとしたお茶らしいものへと変わってきたそれを味わう。
ゆったりと風呂に浸かり、ゆっくりとお茶を淹れて飲み。
この一週間の疲れが抜けていくような、そんな気持ちになる。
(これも彼のおかげかな…)
人のいい同僚の顔が目に浮かび、くすりと笑う。
仕事を押しつける形になってしまったことは申し訳なかったが、おかげで来週も頑張れそうだ。
そこまで考え、はっと気付く。
わからないことがあれば連絡してと言ってあったのに、弁当箱を出すときに確認してからまた鞄に戻してしまっていた。
慌ててスマホを引っ張り出してきて見てみるが、何も連絡は来ていなかった。
よかったと息をついてローテーブルにスマホを置きかけ、手を止める。
(…ありがとうぐらい、言うべきかな)
同僚ではあるが、たいして仲がいいわけでもなく。仕事以外の話もしたことがないような相手。
そんな相手にお礼とはいえ私用のメールを送るのは少々気が引ける。
週明けに直接言えばいいかなと思い、スマホを置いた。
空いた茶杯にお茶を注ぎ、酒ではないがちびりと飲んで。
また、スマホに目をやる。
確かに仲がいいわけではない。しかしそんな自分を、彼は助けてくれたのだと気付く。
(……やっぱり、お礼くらい言わないとね)
暫く悩んで。お礼と、困ったことはなかったかと尋ねるメールを送った。
五分ほどしてから届いた返信には、わざわざありがとうとの言葉と共に、仕事は滞りなく終えたとあった。
また月曜に、と締めくくられたメールを見ながら。
彼に何かお礼ができればな、と。
そう思い、葉子は残るお茶を飲んだ。
読んでいただいてありがとうございます。
後書きは解説という名の小池の好きなものアピールの場となります。
お茶。紅茶も緑茶も好きですけど、今回は中国茶。
作法は姉に教わっただけできちんと習ってはいないので、調べはしましたが、間違っているところがあればすみません。フリガナも訳す人により多少違ったりするみたいです。
茶器が一箱に収まる感じもおままごと感があっていいんですよね。
何かのついでのお茶ではなく、お茶を飲むためだけの時間。
贅沢だと思います。