四十九話 誇りと情熱㊂
甲高い咆哮を上げながら、ヒュドラーが万里の砦を目指している。身体から放たれる毒霧と毒液が、周囲の植物を枯らし、次々と大地を汚染した。
毒沼のようになった戦場に倒れたガイと十兵衛の視界から、自分達を無視して去って行く敵の姿が、意識と共に遠退いていく。
「……生きているか……? ……十兵衛」
「ああ……何とかな……」
毒液の波は、二人の空蝉を貫通し、大ダメージを与えた。身体のあちこちを蝕まれ、皮膚が藍色に染まり、激痛が走る。
「……二人掛かりで、やられて突っ伏してるなんざ……初めてか……?」
「いや……隊長相手に幾らでもある」
「……ハッ……そうだったな」
子供の頃の立ち合い稽古で、白兎隊の隊長サノヲには、二人掛かりでも全く敵わなかった。大抵、息の合わない二人が、途中で喧嘩を始めてしまうのが常だったが、真面目に挑んでも、サノヲにはかすり傷一つ付けられなかった。
その内、二人は、一人で戦った方が上手くいくと考え、稽古で共闘する事はなくなった。
「結局、オレらはまだ……隊長の足下にも及ばないってワケか」
ガイがボヤいた。
隊長は、止めこそ仙人達の力を借りたが、一人でヒュドラーを倒した。その相手に二人掛かりで負けているのだ。二人はヒュドラーを物差しに、未だにある師との力の差を痛感した。
「……ぐぅ……!」
ガイと十兵衛は立ち上がろうとしたが、意識が朦朧とした。
このままではヒュドラーは砦を越え、万里の街に入る。そうなれば、数百万の人間が毒の餌食となり、命を失うだろう。
しかし、いよいよマズいのか、二人の耳には遠い過去、二人を打ち負かした隊長サノヲの声が聞こえてくる。
――どうした? もう限界か?
サノヲは、子供相手でも容赦をしない。二人とも峰打ちで頭にたんこぶを作らされ、地面で悶えていた。穏やかな表情と口調のサノヲだったが、更に二人を煽ってくる。
――十兵衛、姉上の胸に泣き付きに行くか? ガイ……好きな娘がいる故郷に帰ってもいいんだぞ?
「うぅ……!」
「ま……だだ……!」
何時の日の出来事かは忘れた。その日、二人は負けん気で立ち上がったが、結局、サノヲの息一つ乱さす事も出来なかった―
「まぁ、落ち込むな。自慢じゃないが、俺は今まで誰にも負けた事がない」
稽古の後、竜胆館の縁側でへばって倒れている二人を励ましつつ、サノヲが自慢した。
「他の隊士にもですか?」
「幻獣相手にもか!?」
十兵衛とガイは驚きながらも、子供らしく素直に感心していた。サノヲは頷き、自分も縁側に腰を下ろす。館の中から、翠が作っている晩御飯の香りが漂ってきた。
「……だがな、俺がどんなに強くても、所詮は、二本の腕しかない人間だ……。この世には、どうにもならない事が山程ある。……戦争なんていい例だ。お陰で俺は一人になってしまった」
サノヲは言った。無念というより「仕方がない」といった印象だ。
そんな諦めを背負った隊長が、夕焼けを見つめた。
「ガイ、十兵衛。俺は昔、身体が幾つもあればいいと思った事がある。分身が欲しかったと言えばいいのかな」
「ぶんしん?」
少年二人が、突拍子もない話に目を丸くした。
「ああ。分身があれば、それだけ幻獣を倒せるし、それだけ味方を守れる! ……何ならお前たちのような後進を訓練しながらも任務ができるし……まぁ、たまには趣味にも時間を避けるだろう」
サノヲは、珍しく熱く語ったが、照れ隠しに直ぐはにかんだ。
幼いガイと十兵衛も、これは冗談話だと分かったが、何処かでサノヲが、本気で望んだ事であると信じた。
何故ならサノヲが、悲しそうにこう付け加えたからだ。
――叶わない事だ―
ガイと十兵衛は、力を振り絞り身体を起こす。
サノヲの分身。それは誰もが望む事だろう。この場に隊長が居れば、ヒュドラーを倒し味方を助けに行ける。更に生意気な新米、真と勝志を救いにも行けるだろう。
それが叶わなくても、最初から此方にサノヲが派遣され自分達がマガラニカに向かえば、万里は助かるかもしれない。
しかし、結局、自分達がマガラニカで生き残れる保証は全くなかった。サノヲがいない戦場に勝ち目がなければ、彼は再び一人になるだろう。
「そうは……」
「……いくかよ!!」
十兵衛とガイは、執念で立ち上がった。
そうはいかない。仲間の為にも隊長の為にも、自分達が負ける訳にはいかないのだ。
「叶えて……みせる……!」
「オレ達が……隊長の代わりだ……!」
漸く二人は、隊長が託したものが任務だけでない事を理解した。
サノヲは、かつての戦争をたった一人、生き伸びた。その後、白兎隊を再溝したが、それは決して仕事でも義務でもなかった筈だ。
わざわざガイを連れ、十兵衛と共に訓練をしたのは、取り戻したかったからではないだろうか。彼が、戦争で失った二つのものを。
「俺は、父母に……死んでいった者達に恥じない……強い隊士になる……!!」
「オレは自分で手に入れるんだよ。欲しいモノは何でも……この両手でな!!」
「……隊長、貴方が無くしたものは……」
「オレ達の中にある!!」
ガイと十兵衛が確かな覇気を纏い、ヒュドラーを見据えた。
「まてよ、ヒュドラー!! テメェを倒した……」
「隊長サノヲの弟子……!! いや……」
二人が同時に叫んだ。
「分身が相手だ!!!」
師の、誇りと情熱を受け継いだ、ガイと十兵衛の反撃が始まる。