八十三話 志㊂
嵐が去ると、志は何事もなかったかのように元に戻った。
「もう大丈夫。心配掛けてごめんなさい」
「本当だぜ。院長がよー、ずっと面倒を診てたんだぜ」
「お兄ちゃんがぐっすり眠れたようでよかった」
志は、自分の身に起こった事をよく覚えていないようで、勝志に笑顔を見せた。
しかし、それからは嵐が来る度に、志は謎の症状に悩まされるようになった。院長は、志を医者に診せたが、原因は分からない。
「お医者さんはちゃんと診てくれないのよ。だってアキナ島の病院は、観光の人のお陰で大きくなったんだから。お、お金がないわたし達を、治療してくれないの……」
「リズ。いいから貴方は志にあげる服を取ってきなさい」
孤児の仲間で、二つ歳上の口が達者な女の子が、力不足の医者をそう評価した。院長に言われ、志へのお下がりを持ちに自室へ向かう。
実際の所は、幽世の知識が全くない者には、手の打ちようがなかった。
「志。今日は何を描いたんだ?」
ある日、勝志は絵を描いている志に、何時も通りそう尋ねた。しかし、志は沈んだ表情のまま絵を見せる。絵を見た勝志は、怪訝な表情になった。
それは、似顔絵でも風景画でもなかった。暗い色を重ね重ねにして描かれた、抽象画を思わせる奇抜な絵だ。誰にも理解できない、混濁した心の内側を見ているような気分になる。
「うーん。おれには分からない程の才能を持っている。流石だぜ、志!」
「嵐の夜、そこへ行くと、誰かがわたしを見ている気がするの……。暗くて、とても寒い……。あの場所はどこなんだろう?」
「志。あの場所なんてないぜ。お前はずっとサンゴの家に居たんだ」
「そ、そうだね……。でも……わたし怖いの……何故だか、すごく寂しい……」
「心配するな、志。おれがいつでも一緒だ!」
しかし、勝志の決意を嘲笑うかのように、志の症状は悪化した。奇妙なうわ言は、時折、嵐に限らず発せられ、志は精神を擦り減らし、すっかり弱ってしまった。
「まるで何かに取り憑かれているかのようだわ」
「医者は精神の病気だと言うけれど……」
「なら原因は? どうしてあの子だけ?」
サンゴの家の大人達は、彼女の症状を恐れていた。
「志。今日の調子はどうだ?」
勝志がベッドにいる志に、心配そうに尋ねた。志が、散々、夜中にうわ言を続けた翌朝で、二人共、目の下に隈があった。
「今朝は大丈夫。お兄ちゃんこそ、いつまで起きてたの?」
「おれは……まぁ、院長に注意されるまでは起きてて……寝たふりをして、その後……あれ?」
志は、必死に記憶を辿る兄を見て笑う。最近、彼女は、兄が自分の所為で損をしていないかを心配するようになっていた。
「お兄ちゃん。この花、なんて花?」
ふと、志が窓辺に飾らた花を指した。花瓶に、一本だけ違う花が差してある。
「それは……花だぜ。その辺の花だ!」
勝志が自信持って言った。この花は、島の森にも咲いている。よくある花だったが、二人共、名前は知らない。
「そんな名前の筈ないよ。きっとちゃんとした名前があるわ」
志が言う。言われた勝志は考えたが、趣旨がズレた答えに行き着いた。
「よし、志! 元気になったら森の方へ行こうぜ! 沢山、咲いている場所を知っているんだ!」
「ふふっ……。うん、絶対見に行こうね! ……それじゃお兄ちゃん、もう外に遊びに行ってもいいよ」
「え? なんでだよ? おれはここにいるぜ」
庭からは、ボールで遊ぶ仲間の声が聞こえてくる。志は、兄が加わりたいと思っている事を分かっていた。
「大丈夫よ。わたしは将来、お兄ちゃんと結婚するの。そうすれば、きっと離れ離れになることはないから―」
夏になった。連日、嵐が続いた。
志は昼夜問わず、悪夢に取り憑かれたようにうなされ、理解できない言葉を口走り続けた。
「来ル……来ル……眠リカ……メタ輿……支配…。…ビ声ガ……シニ……エル。……ンガ来ル……底ノ……イエ…ラ。……キコ……。…ジル……。キット……シヲ……デイル。……シヲ探シテイル……。……ナキャ。……バエ。…シクナ………ニ……―」
志は、心身共に衰弱し、嵐が明ける頃にはその命は尽き果て、眠るように亡くなった。
死産を幽世の才で乗り越えた少女だったが、その力は彼女を七年延命させただけだった。
「志っ!」
「志ちゃんっ……!」
「あああっ」
部屋に来ると、大人達が泣いていた。勝志は昼間、看病と雨漏りの対処に追われ、夜は疲れて寝っていた。
「……」
「あの子は優しいから……きっと、お父さんとお母さんの傍へ行ったのね……」
院長は勝志に優しくそう言った。
勝志は言葉が出なかった。志が死んだという事実以外、何も頭に入らなかった。
仲間が亡くなるのは初めてで、子供達は皆泣いていた。
悲しみが、サンゴ家を包んだ。
「うぁああああああああああああああああっ!!」
勝志は叫んだ。居ても立っても居られなくなり、家を飛び出した。
呼び止める声を置き去りにして、勝志は外を闇雲に走った。
雨上がりの地面はぬかるんでいて、何度も転んだ。行手を阻む草木は、引っこ抜きながら進んだ。敵わない木には、何度も当たり返した。
散々、走ってボロボロになった勝志は、森の奥にある池に完全に行手を阻まれ、力付きるように立ち止まった。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇっ…………!」
ふと気付くと、地面に着いた手の側に、花が咲いていた。
志が名前を知りたがった、その辺の花だ。
その辺にあるから名前も知らず、普段は見向きもしない花。
「うぐぅ……ううっ…………あああっ」
勝志は、溢れる涙を堪えらえず、池の辺りで声を上げて泣いた。
――――――――――――――――――――――
暫くして、勝志は泣き止んだ。
涙を出し切って少し落ち着いた所為もあったが、何時からだろうか、池の辺りに居るのが自分一人ではない事に気付いたのだ。
「……」
勝志が顔を上げる。
同い年の少年が、何だか不思議そうに此方を見ていた。
勝志は少年を知っている。知っているも何も、同じサンゴの家の仲間だ。
名前は―




