七十五話 裁きの刻㊂
オルディンの瞳が彼方を見つめている。彼はユングヴィの部隊と白兎隊が、戦闘を開始した事を森羅で把握していた。
――時間稼ぎができれば充分だ、ユングヴィ。
「お前が大人しく署名するとはな。娘が解放された事は、お前の懐刀が教えてくれたのだろう?」
オルディンは、公式文書に素直にサインしたゼフィールを、意外に思った。
ゼフィールは、ボレアースからの神託で、ラーラが解放され白兎隊に保護された事を伝えられていた。その後、ボレアースは何者かの妨害にあっているらしく、外の廊下から、激しい戦闘の音が聞こえてくる。
「私がやらねば次の者が犠牲になる。政治家人生、苦楽を共にした仲間をこれ以上、失いたくはない」
ゼフィールは羽根ペンを置いて言った。降参といった表情をしていたが、派閥の人間を政界に残して置ければ、オルディンの政治に一石投じられる。そんな思惑があった。
「……一つ聞く。お前はプロヴィデンスの助力なしで、どうやってこの国を守っていく? 今の騎士団では、到底、幻獣には対抗できないぞ?」
「その件については手を打ってある」
オルディンが切り札を切るように、自信を持って言った。
「戦わなければいい。ガリアは幻獣を受け入れる。そして、国際連合から抜けた暁には、新たな同盟をエルドラードと結ぶ」
「何!? あの国と……!?」
「既に使者を介し、調整が行われている」
「馬鹿な! ガリアは……奴隷国家に成り果てるのか……! そんな政策があるか!」
激昂するゼフィール。机を叩いた衝撃で、インク瓶が床に落ちて割れる。
カーペットに黒い染みが広がるのを無視し、オルディンは冷静に告げる。
「民は必ずや受け入れるだろう。我が国は幻獣から攻撃を受ける事はない。……これ以上のリターンがあるか?」
ゼフィールは驚きを隠せなかったが、オルディンの狙いは理解した。実際にリビュアでは、エネアドの攻撃を受けず、存続している自治体があると言われている。
「だが……奴らが、我々の命を尊重し、安全を脅かさないという保証は何処にもないぞ……!」
ゼフィールは当然、懸念を覚えた。
幻獣の傘下に大人しく入っても、アスラのような野蛮な幻獣がいて、不利益を被ったらどうする? それを誰に訴える? 暴力で抑えられ、人命と人権が軽視がされるのは目に見えている。
「……かも知れないな。だが、そんな理不尽の下で生きるのが、力なき者のあるべき姿だとは思わないか?」
「馬鹿を言うな! 貴様の立場とて危うくなるんだぞ! どんな取引をした!? 何を根拠に幻獣を信じる!?」
「ゼフィール。残念ながら、私とお前では見えている世界が全く違うのだ。うねぼれた人間共は抑制された社会の中で生きるのが相応しい。檻の中と外は、入れ替わるのだ」
オルディンが言った。ゼフィールは、同じ政治家とは思えないオルディンの考えに困惑した。
「同じ穴のムジナだと思っていた……。理想など……出世の為の建前に使う、汚れきった奴だと……」
「ああ。政治家としては……ゼフィール、お前をよく参考にさせて貰ったのでな」
オルディンが言った。それには、素直に感謝を示す紳士な響きがあった。
益々、困惑するゼフィールの耳に、部屋の扉がゆっくりと開く音が届いた。何時の間にか、廊下の喧騒が聞こえなくなっている。
「!!」
血走ったゼフィールの目が、更なる驚きで見開かれた。
扉の外には二本足で立つ、狼の姿をした幻獣が居たからだ。足下に、スーツ姿の子男が血塗れで倒れているのが僅かに見えた。
「ボレアース……っ!」
「死祖幻獣軍から招かれた使者だ。ゼフィール。私は、ずっとお前を始末すべきか迷っていた。クローリスがお前と娘を今際の時まで思い続けていたからだ。生かすのが彼女への弔いか、同じ場所へ送ってやるのが弔いか……」
「何をっ……! お前がクローリスの何を知っている……!?」
ゼフィールには、オルディンの今度の言葉こそ訳が分からなかった。しかし、言葉の真意を考える事で、幻獣を前にした動揺を隠そうとした。
「だから、その者にお前の裁きを託した。彼がお前の中の善と悪を秤に掛け、公平に裁きを与えてくれるだろう」
狼男は、ゆっくりとゼフィールに迫った。
ゼフィールは思った。
オルディンの言う通りなら、自分など悪の側だ。若き日、出世の為にプロヴィデンス派という船に乗り、戦争という波で伸し上がった。正しく罪を測れる者がこの世にいるのなら、罰が与えられない筈はない。
そう思うと、死を目の前にした際の恐怖など、無いようなものだ。
「私が悪人なら……お前は何者だと言うんだ? オルディン……!!」
狼男が、手にした弓形の刃で、ゼフィールに審判を下した。
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勝志とラーラは戦闘を避け、政府所有のビル付近までやって来ていた。
各所の入口は兵士が守りを固めている。今はとても信用できないので、二人は一旦、物陰に潜み様子を伺う。
「パパはこの中に居るのか?」
「うん。分かる……!」
ラーラは常に首から下げている、鏡のペンダントに触れながら言った。それが父親の居る位置を、正解に教えてくれる。
「ビルの六階……。中に人は……ほとんどいないみたい……!」
しかし二人が行動を起こす前に、響めきと悲鳴が聞こえてきた。
付近に幻獣が現れたのだ。ワイバーンを思わせる翼竜幻獣が空中を飛び、下方の人間達を睨んでいる。
「司令官、幻獣です! こんな近くに……っ」
「馬鹿、撃つな! 市内での戦闘許可は下りていないんだぞ!」
付近に居た兵士達は、上層部の思惑を知らず対応に窮している。ワイバーンは、歯向かう者が居ないか目を光らせており、勝志とラーラも迂闊に身動きが取れなくなった。
「くそっ、おれがあいつを引き付ける! ラーラはその間に中に行け!」
「勝志っ!」
勝志は、ラーラの静止を聞かずにワイバーンに立ち向かっていった。しかし、この行動でワイバーンは勿論、付近にいた兵士達の注目はそちらに向かった。
「幽玄者だ! 助かった!」
「今の内に避難誘導と政府施設の守りを固めよ!」
兵士達が動き出す。ラーラは、その隙に敷地に侵入し、神速で浮き上がって父親がいる上階の窓まで飛び上がる。
「えいっ!」
ラーラは一瞬、躊躇したが、幽霊にでもなった気概で、果敢にガラスへ突っ込んだ。




