五十六話 大樹の影㊃
事件現場にやって来たアベルは、これが今までの現場とは違う事に気付いた。
現場の痕跡に、業によるものと思われる奇怪な穴がない。被害者は、やはりプロヴィデンス派の政治家だったが、体を鋭利な物で袈裟斬りにされていた。
「これは揺動だ。俺たちの警戒が此方に向いている間に、本命のターゲットを狙う可能性がある。彼に連絡を。調査隊には各自、持ち場を離れないように伝えてくれ」
アベルは本部に残ったシルフィーに、無線でそう告げた。
「十兵衛と真には、隊士二名と軍の部隊を援軍に送る。少し心配ではあるが、戦力は裂けない……」
「野郎に援軍なんていらねぇよ。やられちまうようなヤツなら、やられちまってくれて結構だしな」
アベルに続き、現場にやってきたガイが言った。
昼間は非番で、夜間の任務も女遊びで疎かなガイは、今回ライバル十兵衛に、完全に遅れを取った。
「大体、単独犯じゃなかったのかよ。エインヘリャルと言い、当てが外れすぎじゃねぇか?」
寝起きで機嫌が悪そうなガイが、当て擦った。
「悪かったな。だが、最悪の事態を想定しておいて損はなかった……」
アベルが言った。
十兵衛、真の報告では、犯人は三人組らしい。実行犯が一人という予測は、確かに外れた。しかし、アベルの懸念は、寧ろ的中した事になる。
――一体、これらの戦力を何処から……。
予測はもちろん、これだけの警戒網を張っていた此方を嘲笑うかのような白昼堂々の犯行。一方、揺動と分かる程の、お粗末な犯行でもあった。
被害者は、辛くも息があったのだ。近くの教会には、それなりの人数、人もいた為、直ぐに応急処置を施され、救急車が来るまで持ち堪えた。
加えて、目撃者すら居た。
「み、見たんだ、俺! あの人が斬り付けられたのをっ!」
パニックになりつつも、興奮した様子の目撃者が、集まっている人々を前に叫んでいる。
「バケモノだ……! 俺、初めて見た……! あれが―」
犯人を追跡する十兵衛と真は、ルテティアから数十キロ離れた森を進んでいた。既に、夜の帳が下り、火曜日になると、月の一つ、火の月の輝きが強まる。
後から来る援軍の為のマーカーとして、二人は木々や岩を時折、傷付けた。古典的な手段だが、幽玄者にはこれが分かり易い。
犯人は想定済みなのか、追跡に気付いているようだ。追い付かれないよう、相対速度を取って移動している。闇雲に逃げているのか、何処か拠点に向かっているのかは分からない。
――只者ではない……!
先を行く気配は三つ確認できる。しかし、その内の一つから感じる気配は、非常に朧げで、他の二つの気配が無ければ視失い兼ねなかった。
恐らく、そいつがリーダー格だろう。
真は、十兵衛と顔を見合わせ、自分の認識に間違いのない事を確認した。
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――遂にこの時が来た……!
これだけルテティアから離れれば、自分の役目は十分に全うされたといえる。
日々、剣術を鍛え上げ、指導者もその実力を評価してくれたが、やはり、実戦で自分の力を試さねば真価は分からない。
幸い、理想的な相手が釣れた。追ってきた一人は、白兎隊きっての腕前と聞く男だ。
腕試しにはこの上ない。
彼は、連れに身振りで指示を出すと、大柄な身体を覆っているフード付きのローブを、振り払うように脱ぎ捨た。
「別れたな……!」
十兵衛が言った。
追跡していた三者が二手に別れた。リーダー格を残し、残り二つの気配が移動速度を上げた。
「真、お前は先に向かった連中を追え。手練れは俺が引き受ける」
「ええ。分かりました」
真は素直に従った。打倒な判断だろう。
真も手練れの実力に興味があったが、一対二の戦闘になれば、自分の役割も簡単なものではない。
真が離れると、十兵衛は真っ直ぐ手練れの気配を辿った。相手は此方を迎え撃つ気らしい。仲間を逃そうとしたのかは分からないが、この先を流れる川の対岸に留まった。
近付く程、相手の存在をより正確に把握できるようになる。
十兵衛は、自分が相手の正体を誤認していた事に気付いた。それは真も同じであり、別の場所で、やはり此方を向かう撃つ構えを取った二者の正体に気付く。
水の音が鮮明になり、木々の間を抜けると川とその向こう岸が、十兵衛の視界に入った。
対岸には、大男という表現では済まない、大柄なシルエットがあった。人の二倍はある体躯が、黒い甲冑のような甲皮でできている。
犯人は、幻獣であった。




