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呪いの毛玉令嬢は王子様のキスを望む

作者: 天ノ瀬

「ルミアス、申し訳ないが、君と口づけを交わすことはできない……。君は自分の姿を鏡で見たことがあるかい? どう見ても気色悪い化け物じゃないか。口づけなんて御免だ。勘弁してくれ……」


 ルミアスの婚約者――王子コルビーは、心底嫌そうな顔をして吐き捨てた。


 王子は続けて言い放つ。


「ルミアスよ。今この時をもって、君との婚約は破棄させてもらう。とてもじゃないが、僕は()()なんかと結婚できない……。僕は虫と醜女(しこめ)とケダモノが何よりも嫌いなんだ」


 ルミアス、と呼ばれた美しい娘は悲しげにため息を吐いた。


 ――いや、正確に言うと『美しい娘』だったのは、ついこの前までの話だが……。


 今のルミアスの姿はというと、『毛玉』である。


 頭の先から足の先まで、全身がふわふわの毛で覆われている。

 ずんぐりむっくりもふもふとした、二足歩行の白い毛玉。それがルミアスの姿だ。


 このへんちくりんな姿の原因は悪魔の呪いである。けれど、呪われる前は一応、絶世の美女と名高い王城の宝だったのだ。


 長く美しい白銀の髪と、真っ青な瞳。白く透ける肌に、女性らしく整った体。ルミアスは美貌の娘であった。


 目の前の王子コルビーにも、『宝石の君』なんて呼ばれて、大いに愛され可愛がられていたというのに……。


 ルミアスはやれやれ、と肩を落とした。……肩なんぞ、今やふわふわの毛の中に埋まっているので見えもしないが。


(……コルビー様は、もうわたくしを愛してはいないのね……)


 薄々わかってはいたけれど、こうもこっ酷く振られるとは思わなかった。


 毛玉のルミアスは遠い目をして、自身の不運へと思いを馳せた――……。







 ――『宝石の君』とは、我が国の最上級の褒め言葉である。


 国、といっても、ごくごく小さな小国なのだけれど。


 ルミアスの暮らすこの国は、元はなんてことないただの街であった。


 たまたま近場で美しい宝石が採れたことで、財を得た街の長が『王』と名乗るようになって、国という形になったそう。


 そういう成り立ちもあり、王家は美しい宝石を大いに尊び、好んできた。次第にその思想は宝石以外にもおよび、人の容姿にまで美しさを求め、愛でるようになった。


 ルミアスは整った容姿を持って生まれたので、王家には大層可愛がられている。


 幼い頃に王城に召し上げられて、城で育てられた身だ。父母を早くに失くすことになったので、後ろ盾はありがたいことであった。


 そのうちに王子との婚約も整えられて、結婚も間近に控えた身であった。


 ――とはいえ。

 傍から見たら順風満帆な人生だけれど……それなりの努力と苦労はしてきている。


 見た目だけで成り上がった無能の妃――なんて笑われないように、ルミアスは日々勉学に励み、執務をこなし、王家と国に身を尽くしてきた。


 拾ってもらった恩があるから、という想いも、この忠心の理由である。

 さらに加えて。婚約者の王子コルビーのことを純粋に慕っていた、というのも、忠心を捧げてきた大きな理由だ。



 コルビーは優しい王子だった。


 仕事をするルミアスの頬を撫でて、彼はいつも甘やかな声をかけてきた。


「愛しのルミアス、もう夜も遅いからそろそろ部屋へ戻りなさい。夜更かしなんてしたら、せっかくの君の美しさがくすんでしまう」

「お気遣いいただきありがとうございます、コルビー様。もう少しだけ……この書き物だけ終わらせたく――」

「宝石の君よ、どうか僕の言う事を聞いておくれ。君のことが心配でたまらないんだ。――ほら、僕が部屋まで送るよ。廊下は冷えるから、これを貸してあげる」


 優しげな声で囁き、コルビーは自身の羽織るマントをルミアスの肩にかける。


 そのまま肩を抱き寄せられて、ルミアスは大切に部屋まで送られる。



 ――そういう睦まじいやり取りが日常だったので、ルミアスはすっかりコルビーを慕っていた。


 コルビーはひたすらに優しく、愛情を注いでくれたのだった。


 そんな彼に愛を返すべく、これまで頑張ってきた。将来夫となり、国王となる彼を支えられるように、と。



 ……――だと、言うのに。


 とある事件をきっかけに、王家はルミアスの忠心を盛大に裏切ってくるのだった。


 





 ある日の午後。

 ルミアスとコルビーが城内を歩いていた時のこと。


 中庭の渡り廊下で、視界の端に変なものが見えた。


(あら……? 木の陰に何かモヤモヤとしたものが……)


 庭の木陰に黒い煙が見えた。……煙というか、生き物のようにうごめいているような。


(あれは、もしかして――……!)

 

 ――異質なモヤモヤの正体に気がついた瞬間。


 ルミアスは隣のコルビーを突き飛ばしていた。


「お逃げくださいコルビー様! 木陰に()()がおります……っ!!」

「なっ!? ルミアス!?」


 二人の大声が重なり、護衛兵が大慌てで剣を抜く。――が、もう遅かった。


 黒い煙に見えたものは、小さな悪魔であった。悪魔はルミアスを襲い、真っ黒な煙を吹きかけて呪いをかけてきたのだった。


 悪魔とは、黒魔法を使う悪戯好きの精霊だ。ごくまれに人の世界に出てきては、呪いを放って遊んでいく。


 現れ次第、早急に封印されるので、大きな被害が出ることは少ないのだけれど……ごくまれに、とびきり不運な人間が巻き込まれたりするのだった。


 まさに今この瞬間の、ルミアスみたいに。


 悪魔はルミアスを魔法の煙で包むと、ケラケラ笑って飛んで行ってしまった。なんともすばしっこい悪魔だ。


 ルミアスは黒い煙にむせ込んだ。ゲホゲホと出てくる咳を、手で押さえようとして――自分の手を見て、ギョッとした。


(へっ!? なにこれ……!? わたくしの手が獣になってる……!?)


 両手はふわふわの長い毛で覆われて、獣のようになっていた。


 手の形まで変形している。まるっこいふくよかな手の先には、指の代わりに大きな爪が生えていた。


 仰天して、アワアワと体全体を確認する。


 煙が消えて、視界が開けると――ルミアスは手だけでなく、全身が異形へと変わっていたのだった。


 ずんぐりむっくりとした体に、全身を覆うもふもふの毛。お尻にはふさふさの長い尻尾が生えている。毛色は地毛と同じ、白銀だ。


 ドレスはいつの間にやら弾け飛んでいて、辺りに布片が散らばっていた。


 まるで神話の時代にいたという、獣人族のような姿だ。――いや、獣人というより、『毛玉』と呼んだ方が正しいかもしれないが。


 ルミアスは手足と尻尾の生えた、まんまる毛玉となっていたのだった。


 気が動転して、思わずコルビーに縋りついてしまった。


「どっ、どうしましょう! わたくし、体がおかしくなってしまいました……! コルビー様、お助けくださ――」

「うわぁっ!! 寄るな!! 気色悪いっ!!」

「ンギャ……ッ!?」


 コルビーは力一杯、ルミアスを蹴飛ばした。

 毛玉のルミアスはポフポフとバウンドして、中庭を転がっていった。


 ゴロゴロ転がり、回転が止まったところで、むくりと顔を上げる。


 ……食らった蹴りの痛みによって、いくらか冷静さを取り戻した。コルビーに感謝するべきだろうか……。


 ひとまず、体にくっ付いた草を払って、立ち上がった。周囲を見回して状況を確認する。


 庭には騒ぎを聞きつけた護衛兵たちが集まって、大騒ぎとなっていた。コルビーは護衛たちの中心で震えている。


 パニック状態の人々を眺めているうちに、ルミアスは落ち着きを取り戻した。ふぅ、と深く息を吐く。


 この小国は、元は取るに足らない小さな街である。国と名乗るようになった今でも、その質はまるで変わっていない。


 そういうわけで、こういう有事にはてんで弱い。


(……わたくしが慌てていては、臣に示しがつきませんね。わたくしは未来の王妃なのだから、シャンとしていないと……!)


 自分を奮い立たせて、ルミアスは声を張った。


「皆様、お静かに! ええと、このような姿になってしまいましたが、わたくしはルミアスです……! ひとまず、今起きたことを早急に陛下へとお伝えしたく思います。コルビー様、謁見の間へ参りましょう」


 そう言いながら歩み寄ると、コルビーがサッと避けた。護衛たちを間に置いて、さりげなくルミアスと距離を取っている。


 先ほどの蹴りといい、少々胸の奥が痛むのだけれど……。コルビーも動揺しているのだろう、仕方ない。と自分を慰めておく。


 モヤつく気持ちには蓋をして、ルミアスはコルビーと共に謁見の間へと向かった。


 ……もふもふの毛で覆われているとはいえ、素っ裸で歩くのはなんとも心許ない心地であった。



 


 そうして少し間を空けて。

 謁見の間に、王と城の重鎮たちが集まった。

 

 白毛玉と化したルミアスを見て、人々は大いにざわついた。


 そこかしこから、『なんと惨い……』『お可哀想に……』なんて言葉が聞こえてきた。……が、人々の声に嘲笑が含まれていることには、気がつかないふりをしておく。


 『宝石の君』なんてちやほやされてきた女が、こんな毛玉姿になって現れたのだ。面白がったり、ざまぁないと笑う者も多いに違いない。


 そちらには意識を向けないようにしつつ、ルミアスは王に向き合った。

 手短に、一通りの事情を説明する。


 すると、王と周囲の官たちは、なにやらごにょごにょと話し始めた。


「ううむ……まさか我が国に悪魔が流れて来るとは」

「隣国バレスティーから、『国内に悪魔が現れた』という知らせが届いたのは、先週でしたっけ?」

「どうせ向こうの国が処理してくれるだろうと思って、特に手を打たずにいたのがあだとなりましたなぁ……」


 王たちの言葉を聞いて、ルミアスは愕然とした。


 隣国バレスティーは、我が国よりもずっと大きな国である。その国内に、先週悪魔が現れていたらしい。


 隣国は平和を是とする国である。周囲の国を気遣って、悪魔が出たから用心するように、と知らせてくれていたようだ。


 と、言うのに。我が国の重鎮たちはのん気に構えていたようで。


 何という平和ボケだろう。この平和ボケも、隣国が侵略してこないというところに由来するのだけれど……もう少し、自発的に気を張ってもらいたい。


 ルミアスは、未だごにょごにょしている王へと声をかけた。


「あの、恐れながら……先に悪魔が現れていたという隣国では、何か被害があったのでしょうか? 隣国と協力して、この変姿の呪いを解く方法を得ることは、叶いませんか?」

「さて、隣国からの文には何と書いてあったか……。王城に悪魔が出た、とか何とか書かれていた気がするが。――まぁ、隣国バレスティーに協力を仰ぐのは、様子を見てからにしようじゃないか」

「よ、様子を見るって……」


 悠長なことを言わないでほしい。と、思ったけれど、不敬な言葉は飲み込んでおく。王に意見を言って機嫌を損ねてしまうと、場合によっては罪になるので。


 グッと堪えて、ルミアスは王の様子をうかがった。


(陛下……先ほどからまったく、わたくしの目を見てくださらないわ。コルビー様と同じように……。きっと、醜い姿に変わったわたくしを(うと)んでおられるのね)


 王も、王子コルビーも、先ほどからルミアスに対して、汚いものを見るような目を向けている。いつもの、宝石を見つめるようなうっとりとした表情は、すっかり消え去っていた。


 醜いものを(うと)むのは、もはやこの国の王家の文化だ。今更どうこうできるものではない。


 王はもう、ルミアスへの興味をなくしている。呪いを解く方法を、と懇願したところで、鬱陶しがられるだけだろう……。


 王の前で駄々をこねて揉めるより、自分で解呪の方法を探す方が効率がよさそうだ。


 ルミアスはもう何度目かになるため息を吐いて、事の落としどころを探った。


「……承知いたしました……。では、わたくしの呪いが解けずに長く続くようでしたら、もう一度ご相談させてくださいませ」

「うむ、考えておこう。――今後についてだが、そのような呪いの姿を晒して、用なく城内を歩き回るのは控えるように」

「……では、わたくしはこれよりしばらくの間は、自室にて執務にあたります。お目汚しをしないよう、慎みます」

「よろしい。では、そのように」


 言葉を終えると、王はぞろぞろと人を従えて謁見の間を去っていった。



 ひとまず、話は落ちるところに落ちた。

 毛玉姿であっても、居場所と仕事を保つことはできそうだ。


 仕事を続けている限り、一応、ルミアスの人権は保障されるだろう。それなりに政務に関わる仕事もできるので、無能な毛玉として無下にされることはないはず。……と、思いたい。


 

 王が去った後、ルミアスとコルビーも歩き出した。――が、三歩歩いたところで、彼はハッとして動きを止めた。


 どうやら、いつもの習慣で肩を抱こうとしてしまったらしい。コルビーは毎日欠かさず、ルミアスを甘やかしながら部屋へと送っていたので。


 彼はげんなりとした顔をして、サッと距離を取った。


 気まずい空気のまま、不自然に離れて歩き出す。……一応、部屋までは送ってくれるらしい。


 何か場を和ますお喋りでも、と、ルミアスはコルビーの方を見る。が、視線は一度も合わない。


 毛で覆われて見えないのをいいことに、しょんぼりと眉を下げてしまった。


(わたくしの呪いが長引いてしまったら……このままコルビー様のお気持ちが離れていってしまうかも)


 そんなことを考えて、落ち込んでしまった。


 ――の、だが。


 現実はもっと残酷であった。ルミアスの心配する事態はこの直後に訪れてしまうのだった。




 

 中庭の渡り廊下に差し掛かった時、なにやら護衛兵たちの騒ぎ声が聞こえてきた。


 護衛たちはコルビーの姿を見ると、慌てて駆け寄ってきた。


「コルビー様! 恐れ入りますが、あなた様のご指示を仰ぎたく……!」

「何事だ? また悪魔か!?」

「いえ、悪魔ではなく……庭に風変わりな女人が! いかがいたしましょう? ほら、あちらに――」


 コルビーとルミアスは、護衛が指し示した方に目を向けた。


 庭の端を見ると――なんと、裸の女が立っていた。それもただの女ではない。とんでもなく美しい娘だ。


 スラリと伸びた四肢に、整った胸元。鮮やかな若草色の瞳に、同じく若草色のサラサラした髪をなびかせている。澄んだ目をこちらに向けて、静かにたたずんでいる。


 思考を読み取れない表情。神秘的な雰囲気。物を言わず、不思議な静寂をまとう娘――……


 美女の姿を見て、コルビーが息を飲んだ。


「……妖精、族か……?」


 彼はゴクリと喉を鳴らして呟いた。


 妖精族とは、神話の時代にいたとされる種族だ。美しい容姿を持ち、髪や瞳の色は人ならざる鮮やかさで、宝石のような色を放っていた、と言い伝えられている。


 まさに、そこにいる娘はそのような見目をしていた。


 コルビーは迷わず歩み寄ると、羽織っていた自身のマントを彼女の肩にかけた。優しい手つきで包み込むと、周囲の護衛兵たちに命を出す。


「急ぎ、陛下に知らせよ! 悪魔の災に遭った我が城を、神が哀れみ、代わりの祝福を授けてくださったのだろう!」


 王子の明るい声に周囲は大きく盛り上がった。神の祝福と聞いてホッとしたみたいだ。


 コルビーは彼女の頬に手を添えて、うっとりと瞳を覗き込んで言う。

 

「宝石の君……いや、宝石を超えた美しさ――妖精の君よ。我が城はあなたを歓迎する」


 妖精と呼ばれた娘は、透き通る瞳でじっとコルビーを見つめ返していた。


 取り残されたルミアスは、もさもさと生える庭の草と同化しつつ、その光景を見ていた。


 コルビーの心が、妖精の君へと揺らいだ瞬間を見てしまった……。


 今までルミアスのものだった『宝石の君よ』という甘やかな呼びかけ。その優しい声が彼女へと注がれた。


 胸に鉛を詰め込まれた気分になった。





 ……それからどうやって部屋まで歩いて来たのか、覚えていない。ぼんやりとしているうちに自室にたどり着いていた。


 ルミアスは城の別棟に住んでいる。居住用の部屋があるだけの小さな棟だ。


 庭に面していて、部屋の窓から草花を楽しめる造りをしている。沈んだ心を慰めるにはピッタリの部屋だ……皮肉なことに。


 もふもふの腕を伸ばして窓を開ける。指代わりの大きくて丸っこい爪は、結構器用に使えるみたいだ。

 

 ふと空を見上げると、いつの間にか雲が寄り集まってきていた。まるでルミアスの心を映しているかのよう……。どんよりとしている。


 再度深く、大きなため息を吐いた。


 ――と、その時。


 ふいに棟の裏手から、怒鳴り声が聞こえてきたのだった。


「こら! あっちへお行き! 入るんじゃないよ!! あぁ、やだやだ! 汚い猫だこと……!」


 大声を出していたのは女性の使用人だった。裏口で猫を追い払っているようだ。


 廊下の端から顔を出し、チラと確認する。


 一匹の黒猫が、扉近くの草陰に身をひそめていた。使用人は大声で怒鳴りつけ、箒を振り上げている。


 が、猫は動じず、その場を離れない。――というより、蹲ったまま動けなくなっているように見えた。この状況で逃げ出さないのは明らかにおかしい……。


 放っておけず、ルミアスは飛び出してしまった。


「お待ちなさい! 小さきものを、そのようにいじめてはいけません」

「ひえっ!? 化け物っ!?」


 声をかけると、使用人がギョッとしてひっくり返ってしまった。彼女は箒を投げ出して、転がるように逃げていった。


「化け物……!? って、わたくしのことね……まぁ、はい。そうね」


 自分は一応、この棟の主なのだが……。化け物と呼ばれたことにちょっとショックを受けつつも、気を取り直す。


 毛玉の体をよいしょと縮こめてしゃがみ込んだ。草陰を覗き込む。


「猫ちゃん、大丈夫? ……まぁ、酷いお顔」


 蹲った黒猫は、目ヤニと鼻水でくしゃくしゃの顔をしていた。

 黒い毛はボサボサで、葉っぱやら草の種やらが付き、泥がこびりついて固まっている。


 とてもじゃないが、放っておけるような状態ではない。雲が出てきたので、夜には雨も降りそうだ……このまま体を冷やしたら、命が危ういのではなかろうか。


 そう思うと、もう猫へと手が伸びていた。


「おいで。わたくしのお家に入れてあげる」


 そっと声をかけて、猫に触れる――直前で、シャーッと言われた。ルミアスは素早く手を引っ込めた。


「こっ、怖っ……! 猫、結構怖いわね……。いや、わたくしの姿の方が怖いか……。ええと、どうしましょう」


 オロオロとした後、ルミアスは裏口の扉を開け放った。開けたまま、そろりと身を引く。


「ほら、おいでなさい。自由に入ってきていいからね」


 扉を開け放って猫に任せてみる。


 しばらく遠目に見守っていると、猫は様子をうかがいながら、そろりそろりと歩いて来た。


 身を低くしたまま、廊下の隅の物置スペースまで進んでいく。木箱の隙間に身を収めて、また蹲った。ひとまず、今日の寝床はここで決まりのようだ。


 ルミアスは柱の陰から確認して、そっと声をかけた。


「ゆっくり休んでいってちょうだい、黒ちゃん」


 猫のことは黒ちゃんと呼ぶことにした。男子の証が見えたので、黒ちゃんはオス猫のようだ。


 呼びかけると、片方の耳がピロっと動いてこちらを向いた。ルミアスの声はしっかり届いたみたいだ。



 それからすぐ水を用意して、使用人に頼んで――意図せず脅すような形になってしまったが――厨房からご飯を調達した。


 桶に砂を取ってトイレにして、寝床にはささっとブランケットを添えておく。


 仕上げに『猫を追い出さないように』と、注意書きを作って張り出した。



 こうして廊下端の物置スペースに、黒ちゃんの宿が出来上がった。


 大急ぎで諸々の用意をしているうちに、深く沈んでいた気持ちはそれなりに落ち着いていた。意識が別の方に向いたので、憂鬱を拗らせずに済んだみたいだ。


 本当は、黒ちゃんの汚れた体も拭いてやりたかったのだが……今日のところはそっとしておくことにしよう。

 近づくとシャーッと言われてしまうので。

 

「のけ者の毛玉同士、仲良くしましょうね」

 

 黒ちゃんは答えなかったが、耳だけはじっとこちらを向いていた。



 そんなこんなでこの日から、毛玉同士の共同生活が始まったのだった。


 白い毛玉と黒い毛玉――。なんだか仲間ができた心地だ。


(こうなってしまったからには、どうにか毛玉生活を乗り越えないと。呪いを解く方法を見つけるまで、黒ちゃんと一緒に頑張りましょう……!)


 ルミアスは棟の隅っこで、密かに気合いを入れるのだった。







 黒ちゃんを迎えて二日の内は、お世話は水やご飯皿の交換などの最低限にとどめておいた。まだこちらを警戒しているようなので。


 近づくと耳がペタンと寝てしまう。『う~もうもうもううぉう~ぉぅ~』なんて、おかしな小声の唸り声を上げる瞬間もあった。


「猫って、こういう変な鳴き方もするのね……呪文を唱えているみたい」


 目をまるくして、聞き入ってしまった。『ニャー』と『シャーッ』くらいしか知らなかったが、猫は怒ると呪文を唱え始めるらしい。


 なるべく脅かさないようにそっと見守ることにした。




 三日目になると、そこそこ近づけるようになっていた。


 寝床の側で水の皿を替えても何も言わない。耳をこちらに向けているだけだ。三角の耳がピンと立っていて可愛らしい。


 そろっと、触れてみようとしたのだけれど……シャーッと言われた。まだ駄目みたいだ。


 と、思ったのに。夕方頃にもう一度チャレンジしてみたら、何も言わなかった。


「お昼は駄目だったのに、どうして急に……。黒ちゃん、気が変わったの?」

 

 喋りかけたら、尻尾をブンと振られた。返事のつもりだろうか。


 怒られなくなったので、虫落としの液薬を数滴垂らしておいた。……液を落としたらまた怒られたけれど。




 

 四日目には、触ってもまったく怒られなくなった。


 頭からお尻まで撫でさせてくれる。足を触ると途端に、『やめろ』みたいに睨まれるが……もう、そんな睨みもそれほど怖くはない。


 湯で濡らしたハンカチを指代わりの爪に巻いて、顔を撫でつつ拭いてやる。目ヤニと鼻水を綺麗にしたら、黒ちゃんはなかなかの美猫であった。


「あら、黒ちゃんは男前な毛玉だったのね。わたくしもこう見えて、見目はそれなりだったのよ? 王家に認められるほどに」


 話しかけると、黒ちゃんは尻尾を立ててくっ付いてきた。


 しっかりと開くようになった黒ちゃんの目の色は、宝石のような美しい赤色だった。




 五日目には全身を拭いてやった。湯で濡らし絞った布巾で拭き上げる。


 黒ちゃんは始終迷惑そうな顔をしていたけれど……どうにか泥汚れを落とすことができた。


 乾拭きで仕上げた後、ブラシでとかして仕上げる。やんわりとブラシをかけると、気持ちよさそうに目を細めていた。


 そうしてお世話をしているうちに、ふと気がついてしまった。


「……わたくしも、そろそろ身繕いをしないとまずいのでは……? 毛玉になってから、お風呂をサボってしまっているわね」 


 変姿の呪いを受けてから、ルミアスの世話係や使用人たちは棟に近寄らなくなった。食事の用意や仕事に関する書類のやり取りなど、最低限の接触のみだ。


 体――ふわふわの毛は毎日拭いてはいるけれど、しっかりとした湯浴みはしていない。そろそろ一度、入っておくべきかもしれない……。


「こんな毛玉姿でお風呂に入ったら、どうなってしまうのかしら……ちょっと怖いわね」


 お風呂の話をすると、心なしか黒ちゃんの表情が神妙なものへと変わった。ような、気がする。


 


 六日目。ルミアスは覚悟を決めて、湯浴みに挑んだ。


 手伝いの使用人たちは、みんなものすごく嫌そうな顔をしていた。が、彼女たち以上に、黒ちゃんが絶望的な表情を浮かべていた。


 先に黒ちゃんを湯で洗いあげる。


 長い毛をすっかり湯で濡らした黒ちゃんは、想像以上にスマートな体をしていた。


「濡れると別人――いや、別猫みたいになっちゃうのね……」


 黒ちゃんはさっきから『もう~! もうお~!』なんて大声で文句を言っている。


 急ぎ、ふかふかのタオルで拭き上げて解放すると、全力疾走で浴室から出ていった。廊下の隅でひたすら体をペロペロしている。


 ひとまず黒ちゃんのお風呂は無事に済んだ。――そしてここからは自分の番である。


 使用人の手伝いを受けて、ルミアスは浴槽に体を浸した。毛が濡れていく感覚が、なんとも例えがたい。ゾワゾワする。


(黒ちゃんも頑張ったのだから、わたくしも頑張らないと……)


 ヒィヒィ言いながら、ルミアスは湯浴みを乗り越えたのだった。


 湯を含んだルミアスの姿は、黒ちゃんと同じようにおかしなことになっていたけれど……見たのは使用人たちだけである。


 ……皆、怯え切っていて、ルミアスの湯濡れ姿に言及するものは、誰一人としていなかった。


 


 白毛玉と黒毛玉の暮らしは、七日目を迎えた。


 黒ちゃんの宿は廊下の端だったのだが……この日の夜、なんといつの間にか寝室の中に入っていた。ルミアスの出入りに合わせて入ってきたようだ。


 しばらくの間部屋の中をソロソロと探検して、ルミアスのベッドの上に落ち着いた。


 もそもそと毛繕いをした後、ベッドのど真ん中で丸くなってしまった。


 ルミアスももう寝ようと思っていたのだけれど。黒ちゃんはまったく動く気配がない。


「黒ちゃん、一緒に眠るのはいいけど、せめてもうちょっとだけ端に寄ってちょうだい」


 そんなお願いをしながら、黒ちゃんを端に移動しようと――するが、驚くほど動かせない。ずっしりとベッドに沈み込んでいる。まるで重たいペーパーウェイトのようだ……。


 仕方ないので、ルミアスは無理やりベッドに入り込んだ。体をねじ込むと、ようやく黒ちゃんが動いてくれた。


 黒ちゃんは遠慮も無しに、ルミアスを踏みつけてウロウロ移動する。踏まれるのも妙に楽しくて、笑いをこぼしてしまった。


 そうして少しの間動き回った後。彼はルミアスの胸元にペッタリと身を寄せて横になった。


 黒ちゃんのふわふわの毛並みを、同じくふわふわの手で撫でてやる。


 やわらかくて、あたたかくて。心がほぐれる心地がした。


「おやすみ、黒ちゃん」


 そっと話しかけると、彼はゆるやかに目を細めて、赤い瞳でこちらをじっと見つめていた。



 ――翌朝、寝返りが打てなかったことで、体がバキバキになっていたのだけれど。

 黒ちゃんとの共寝は大変に幸せだったので、まぁ、よしとしよう。





 こういう具合に、ルミアスは毛玉生活を送っていた。


 変姿の呪いを受けてからは、基本的に自身の居住棟に引き籠って執務をこなしている。

 

 世話係や使用人はもちろん、共に仕事をする官たちとの接触も最低限だ。もちろん、コルビーにも王にも会っていない。


 人と会わない代わりに、猫との時間を過ごしている。


 黒ちゃんはもうすっかり懐いてくれて、いつでもペッタリしている。


 仕事をしようと机に書類を広げると、書類の上に転がってきたり。お手洗いに席を立つと、意味もなく着いてきたり。


 膝の上で眠ってしまって、身動きが取れなくなってしまったり。かと思うと、急に部屋の中を全力疾走し始めたり。


 寝る直前にベッドの上で毛玉をリバースされた時には、呻き声をあげてしまったけれど……尻尾を上げて擦り寄ってきたら、即、許してしまう。


 猫との生活は、なんとも奇妙で、なんとも楽しく、なんとも心和ませるものであった。




 今日も黒ちゃんは、ふにゃりとした顔をして大事な書類ケースの上で寝ている。


 ルミアスは笑いながら声をかける。


「ふふっ、なんて寝相かしら。いつもお楽しみをありがとうね、黒ちゃん。あなたはわたくしの心の支えだわ。あなたがいてくれるから、わたくしは毎日頑張れるのよ。――それはそれとして、ちょっとどいてちょうだいね。それ大事な書類なのよ」


 お願いしても、黒ちゃんはどいてくれなかった。そういうところも可愛らしい。


 最近はもう王家のためというより、もっぱら黒ちゃんのおやつのために働いている。


「こんなにふにゃふにゃに伸びちゃって……まったく起きる気ないわね」


 黒ちゃんがこれっぽっちもどいてくれないので、ルミアスは休憩をとることにした。


 部屋の中で伸びをして、固まった毛玉の体を動かす。ふと、ドレッサーの鏡に映った姿に目を向けた。鏡の前に立って全身を眺めてみる。


 ルミアスは、ふむと考え込んだ。


「毛玉の黒ちゃんはこんなに可愛らしいのだから、同じ毛玉のわたくしだって、それなりに可愛いのではないかしら?」


 少々のやけくそも込めつつ、そんな独り言をこぼしてみた。


 呪いを受けるまでは、コルビーに『可愛い』『愛らしい』などなど、数々の甘い褒め言葉をもらってきた。


 彼の言う『可愛い』とはまったく種類の違うものなのだろうけれど。この姿の自分も、そこそこ可愛いじゃないか――。


 なんだか、そんな気持ちになってきた。


 鏡の前であれこれポーズを取っていると、ようやく黒ちゃんが起きてきた。ルミアスの足元にお尻を寄せて、長い尻尾を絡ませる。


「黒ちゃんはどう思う? わたくし、結構可愛らしい毛玉じゃない?」


 黒ちゃんはルミアスのもふもふの足に、頭を擦ったりお尻を擦ったり尻尾を擦ったり、ベタベタだ。スリスリは肯定の返事と、受け取らせてもらうとしよう。


 白い毛玉は今日もまた、黒い毛玉とのひと時を楽しむのだった。







 引き籠って諸々の仕事をしつつ、猫と遊んで――。


 そうしながらも、ルミアスはこつこつと呪いを解く方法を探ったりしている。


 一日の内、早朝の半刻だけは、城内の図書室への出入りを許可されているのだ。


 片っ端から資料をあさっては、何も収穫を得られずに帰って――ということを繰り返していたのだが。


 ある日、ついに解呪の方法らしきものを見つけたのだった。


 図書室の隅っこで、ルミアスは目をまたたかせた。


「黒い煙を浴びた農夫がアヒルに変わって、恋人から口づけをもらったら、人へと戻った――という民話。これ、わたくしが受けた悪魔の呪いと似ている気がするわ。もう一つは、馬に変わった王子様が妃の口づけで元に戻った伝承」


 古びた本には二つほど、似た話が書かれていた。


「……共通するのは、愛の口づけかしら」


 確信は持てないが、試してみる価値はありそうだ。


「物は試しよね……! よし!」


 自分を奮い立たせて、本を抱えて図書室を出た。


 ルミアスは使用人や官たちに頼み込み、早速、解呪を試す場を設けてもらうことにした。


 

 


 そうして、その日の午後。

 謁見の間にて、王家や重鎮たちの見守る中で、ルミアスの解呪が試みられたのだった。


 正面の椅子に王が座り、その脇に王子コルビーが立つ。……さらにコルビーに肩を抱かれて、妖精の君が立っていた。


 彼女の美しいドレス姿を見ないようにしつつ、ルミアスは歩み出る。毛玉姿を覆うローブを身にまとって、広間の中央に立った。


 このローブは王家の人々の目汚しを避けるため、という理由と、解呪に成功した時に素っ裸を晒さないため、という理由でまとっている。


 の、だが。集まった人々は『毛が散らないようにするためだろう』とか、『付いた虫が飛ばないようにするためだろう』とか、勝手なことを言っていた。


 久しぶりに人の集まる場所に出た、ということもあり、そういうヒソヒソ話は酷く胃に刺さる……。


 が、それも今日で仕舞いである。――かもしれない。上手くいけば。


 ルミアスは人々に向かって、大きく声を響かせた。


「皆様、わたくしのためにお集まりいただき、感謝申し上げます。城の図書室にて古書を読み、解呪の手立てを得て参りました。『愛の口づけ』が有効であるかのような伝承が、いくつかございました。そこでお願い申し上げます。コルビー様、どうかわたくしに口づけをくださいませ……!」


 言い切ると、人々の視線がコルビーへと注がれた。


 コルビーはたっぷりと間を空けてから、返事を寄越した。


「……それは、確かな方法なのか? もし無駄に終わったら、どうしてくれるんだ」

「ど、どうしてくれるも何も……わたくしはコルビー様の妻となる身ですから、口づけを交わしたところで、神に不貞の罪を問われることはないかと……」


 世間では、それなりに身分のある者たちは基本的に純潔を尊んでいる。


 清き神の教えを従順に守っている、というのもあるが、淫らな交際によって揉め事が起きるのを避けるため、という理由もある。


 よい家柄の男女は、婚約の儀で初めての口づけを交わす。

 その儀式をもって、両者の間で心のままの口づけが許されるようになり、その後の正式な婚姻の儀をもって夜を共にすることが叶う。


 そういうわけで、ルミアスとコルビーが口づけを交わすことは、なんら問題ないはずなのだが……。


 動揺するルミアスに構うことなく、コルビーは言い放つのだった。


「ルミアス、申し訳ないが、君と口づけを交わすことはできない……。君は自分の姿を鏡で見たことがあるかい? どう見ても気色悪い化け物じゃないか。口づけなんて御免だ。勘弁してくれ……」


 コルビーは心底嫌そうな顔をして吐き捨てた。


 彼は続けて言い放つ。


「ルミアスよ。今この時をもって、君との婚約は破棄させてもらう。とてもじゃないが、僕は毛玉なんかと結婚できない……。僕は虫と醜女(しこめ)とケダモノが何よりも嫌いなんだ」 


 謁見の間にコルビーの冷たい声が響き渡った。


 言われたことがすぐには飲み込めずに、ルミアスは立ち尽くしてしまった。


 しばらく場に沈黙が流れる。


 そのうち焦れたコルビーが投げやりに、ため息を吐いた。ルミアスはハッと我に返って、ようやく彼へと言葉を返した。


「……そう、ですか……。……わたくしへの、哀れみの口づけを一つだけでも……いただくことは叶いませんか……?」

「あぁ、申し訳ないが僕にはできない。口の周りに毛が付きそうで、考えただけで気分が悪くなる……。もうこの話は終わりにしてくれ」


 ルミアスは深く息を吐き、大きく肩を落とした。


 周囲からはクスクスと嘲笑がこぼれ、あちこちで悪口が囁かれた。

 王子に媚び、肩を持つ者の声。かつてのルミアスの美貌に嫉妬をしていた者の声。純粋に気色の悪い毛玉の化け物を嫌う者の声――。


 王ですらも、やれやれ、といった半笑いで声をかけてきた。


「まぁ、こうなってしまっては仕方ないな。毛玉への口づけを嫌がる者に、強要することはできない。――でも、そう気を落とすでない、ルミアスよ。王家はそなたの能力を高く評価しているのだ。婚約は破談となっても、そなたを城から追い出すことはない。例え生涯、毛玉姿であろうとも」


 王は話の中でさらっと破談を告げた。コルビーの言葉を受け入れたようだ。


 続けて、王はルミアスの慰め――という名の、仕事の話をし始めた。


「最近、隣国バレスティーが、やたらと我が国に干渉してくるようになってなぁ。我が国内に兵を置かせろとかなんとか。今までなかったことだから、困っていてな……。その対応やら防備の見直しやらで何かと慌ただしいから、ルミアスの政務処理の力が必要だ。呪いに屈しない、そなたの強き忠心に期待しているぞ」

「…………はい……」


 どうにか一言、震える返事を返した。


 ……顔が毛に覆われていてよかった。今のルミアスは酷い顔をしているから。悔しさと腹立たしさと虚無感でめしゃめしゃの顔になっている。


 王の言葉を聞いて率直に、人を何だと思っているのだ、と思った。


 王の言葉を要約すると、『気色悪い毛玉だが、仕事には使えるから置いてやる。今、ちょうど忙しいので、落ち込んでいないで働け』とのことだ。


 今まで、拾ってもらった王家に恩を返そうと頑張ってきたのだけれど……。自分はこんなしょうもない人々に仕えていたのか、とガックリきてしまった。


 言葉を失ったルミアスに代わって、コルビーが王へと声をかけた。


 父王に肩を持たれて調子づいたのか、彼はこの場で新たな婚約を願い出た。――隣に添う、妖精の君を抱き寄せながら。


「父上、僕は新たな婚約相手として、妖精の君を望みます。彼女の至上の美しさは、まさに我が王家に相応しいかと。神がお与えになった祝福を、どうか、僕にくださいませんか」


 朗らかに言い放ったコルビーに、王はふむと頷いた。


「よかろう。元より、報告を受けた時から考えていたことだ。神の哀れみを無下にすることなど、できようはずもないからな。――ルミアスも、それでよいな?」

「……え、はい……どうぞ、お幸せに……」


 こっちに話を振るな、と喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込んだ。

 

 ルミアスの次に、王は妖精の君にも声をかける。


「妖精の君よ、そなたを王家に迎え入れよう。王子コルビーの妃となり、我が国を導いておくれ。忠心に期待しておるぞ」


 妖精の君は答えずに、神秘的な静けさを保っていた。コルビーは甘い笑顔で彼女の肩を抱いた。


 仲睦まじい二人の様子を見て、王は満足そうに言う。


「睦まじい二人には、時間が惜しかろう。早急に――明日にでも、婚約の儀を執り行おうじゃないか」

「感謝申し上げます、父上」 


 王とコルビーは笑顔を交わし、上手いこと丸く収まった、という空気が場に満ちた。


 ……ルミアスとしては、何一つとして、収まっていないのだが。


 残念ながら、城の者たちは皆王家に従い、集まりは解散の雰囲気となったのだった。





 王家の面々が退室した後、周囲の人々もぞろぞろと移動し始めた。官たちは好き勝手にお喋りをしながら歩き散っていく。


「やれやれ、仕方ない。これからも白毛玉と仕事をするしかないな」

「毛が付きそうだから、払うブラシを用意しなければ」

「もう城内で黒い服は着れませんな。付いた白毛が目立って、恥をかきそうだ」


 立ち尽くすルミアスを横目に見て、城の人々は鼻で笑った。


 ざわざわと喋り声が満ちる中、ルミアスもトボトボと歩き出す。官たちの色々な会話が耳に届く。


「――隣国は周囲の国々に、片っ端から兵を()っているそうだ」

「逃がした悪魔でも追っているのだろう」

「いや、人探しの兵を置きたいとか。悪魔とは別件で、脱獄囚でも出たんじゃないか?」

「他にも、生類不殺の触れを出せ、とか。急に口うるさくなった。内政干渉もはなはだしい」

「大国がついに乱心か。まったく、迷惑なことだ」


 城の者たちはいかにも、『難しい国の情勢について議論しています』という風な顔をしている。


 が、ルミアスにはわかる。――みんな上っ面だけで、真面目に事を考えている人間なんて、この城にはいないのだと。


 国のことも、ルミアスのことも、誰も真剣にとらえてなどいないのだ。すべてがなあなあで、面倒事はのらりくらりとかわしていくだけ。


(……もう、呆れて言葉も出ないわ。王家にも、城の者にも、わたくし自身にも……)


 ルミアスが恩を返そうと身を尽くしてきた国は、そういうしょうもない、ちっぽけな国だった――……。





 自身の居住棟に戻って、自室のベッドに倒れ伏す。


 毛玉の体を投げ出してぼんやりと宙を見る。久しぶりに心底ガックリときて、気力が尽きてしまった……。


 婚約が破棄されて、ルミアスは生涯、毛玉生活を送ることが確定した。この姿では、新たに恋人を迎えて口づけをもらうことなど、できようはずもないので……。


 ルミアスは誰に話すでもなくポツリと呟く。


「わたくし、もうずっと毛玉なのね。毛玉として生きていくのね」


 この姿にはそれなりに慣れて、ちょっとした親しみのようなものも感じていた。けれど、もう二度と人には戻れないとなると、やはり心にズシリとくるものがある。


 独り言を言ったつもりだったが、思いがけず『ニャー』と返事が返ってきた。


 見ると、足元に黒ちゃんがいた。黒ちゃんはベッドの上を歩き、ルミアスの足を遠慮なく踏みつけ、のそのそと歩いて来た。


 顔の側まで歩いて来て、黒ちゃんはルミアスの頬のあたりに頭を擦りつける。


 可愛らしい姿に、荒んでいた気持ちが少しやわらいだ。


 黒ちゃんを撫でながら、つい愚痴めいた弱音をこぼしてしまった。


「……コルビー様の愛は、わたくしのものではなくなってしまったわ。あれほど、毎日のように、甘い言葉を囁いてくださったのに。きっとあのお方は『ルミアス』ではなくて、『美しい女』を愛でていただけだったのね。……お美しい妖精の君は、さぞ愛されることでしょうねぇ……」


 彼に情けの口づけをもらったところで、呪いは解けなかったかもしれない。もうすっかり妖精の君に心を移していたようだし……。


「白毛玉のわたくしを愛してくれるのは、もうあなただけね。黒ちゃん、あなたがいてくれてよかったわ……ずっと側にいてね。大好きよ」


 たった一人の味方にそう伝えて、ルミアスは弱音を終わりにした。


 黒ちゃんは励ますように、ルミアスの顔をペロリと舐め上げてくれた。


 ハムハム、ザリザリ、と、一生懸命な毛繕いが始まった。小さな黒毛玉による、大きな白毛玉への毛繕いだ。



 ――が、毛繕いが始まって、直後のこと。


 突如として、黒い煙の爆発が起きたのだった。



 ボフン、と鈍い音を響かせて空気が弾けた。ルミアスの部屋が真っ黒の煙で満たされる。


 ルミアスは悲鳴を上げる前に、思い切りむせてしまった。


「ゲホゲホッ……な、何……っ!?」


 突然のことに驚き、慌てふためきながら煙を手で払う。


 この煙には覚えがある。確か、悪魔が呪いをかけた時にもこういう煙に包まれたような――。


 思い至ると同時に、煙がサッと消え去った。



 ――その瞬間、ルミアスは再び仰天した。



 自身の真正面に、裸の男が現れたのだった。男はベッドの上に座り込み、驚愕の表情を浮かべたまま固まっている。


 サラリとした黒髪に赤い瞳。容貌も体つきも、彫像のようによく整った男だ。


 対面に座る男の姿を目に入れたところで、ルミアスはふと、自分の姿にも意識を向けた。そして直後に、目をまるくした。


「えっ……? あれ!? わたくし、姿が戻ってる……!?」


 毛玉の体は、しなやかな娘の体へと変わっていた。自身の本来の姿へと。


 ――どういうわけか、悪魔の呪いが解けたみたいだ。


 ルミアスに続いて、なんと向かいの男も驚きの声を発していた。


「も、戻った……!? 私は人に戻れたのか……!? これは猫の見ている夢ではなくて!?」


 対面に座り込む男と、ルミアス。

 二人はまったく同じ様相で、驚きに固まってしまった。



 しばしの間、無言の時が流れた。

 お互いポカンとした顔で、それぞれ自身の体を確かめる。



 そうして、ようやく気持ちが落ち着いてきた頃。


 ルミアスは改めて対面の男へと意識を向けた。思い切り神妙な顔をして、恐る恐る声をかけてみた。


「……ええと、あの……なんとなくお察しいたしますが……もしかして、あなたは……黒ちゃん……? 宝石のような赤い瞳と御髪の色が、そっくりでいらっしゃいますが……」


 悪魔の呪いが解けたと同時に、部屋に男が現れた。黒ちゃんと同じ特徴を備えた男が、入れ替わるように。――ということで、状況的に察しがついた。


 男もまた真剣な面持ちで、言葉を返してきた。


「……は、はい……あなたには、そう呼ばれていたように思います。本当の名は、シャノア・エル・バレスティーと申します」


 男の正体は黒ちゃんで確定した。


 二人はオロオロしつつ、ひとまずペコリとお辞儀を交わしておいた。



 一つ大きく息を吐いてから。

 黒ちゃん――改め、シャノアと名乗る男は事情を語りだした。


「その……あなたを信じて、私の身分と、事の次第をお話させていただきます……。猫の姿を晒した後に明かすのは、少々恥ずかしいのですが……私は一応、バレスティー王城に暮らす身でして。日にちの覚えがないのですが、運悪く悪魔に遭遇し、変姿の呪いを食らって猫に変えられてしまい……」

「隣国バレスティーに悪魔が出たという知らせは、我が国にも届いています。まさか、黒ちゃ――いえ、シャノア様も被害に遭われたお方だったとは……」


 シャノアの話によると、彼は兄王子を庇って呪いを受けたのだとか。


 話しぶりから察するに、彼もまた王子の身分であるらしい。なんとも災難なことである。


「姿だけでなく、精神までもすっかり猫に変えられてしまったようで……。つい、好奇心で部屋を抜け出したところ、慌てて追ってきた護衛たちに驚き、城を逃げ回った末に飛び出してしまい……。パニックを起こして戻れなくなりました……。城下で野良猫と喧嘩をして追い出され、食べるものを求めて彷徨い歩き……いつの間にか、疲れ果てて動けなくなっておりました」

「まぁ……なんと壮絶な猫暮らし……」

 

 ルミアスも毛玉になってしまってガックリしていたのだけれど。シャノアはルミアス以上に、波乱の呪い生活を送っていたようだ。


 隣国と我が小国の距離は近いが、慣れない猫の身でここまで彷徨い歩いてきた、というのは、苦労がしのばれる。


 頭をもしゃもしゃと撫でまわして労ってやりたい気持ちだ。……彼はもう猫の姿をしていないので、こらえておくけれど。


 固い表情で話していたシャノアは、ふと頬をゆるめた。続きを話して苦笑する。


「――と、そんなところを、あなたに助けていただきました。安心できる住処に、久しぶりに食べるよい食事。あたたかい触れ合い……。本当に、身も心も救われました……」

「それは光栄でございます。わたくし、相当おかしな毛玉の姿をしておりましたが……恐ろしくはありませんでしたか?」

「猫なりに考えて、あなたのことは大きな猫だと認識しておりました」

「ふふっ、それはそれは。我が身ながら、猫にしてはずいぶんとへんちくりんでしたが」

「そんなことはありません。素晴らしい毛玉姿でございました。ふわふわであたたかく、身を寄せるとたまらなく幸せな心地になりました。……私はお優しいあなたのことが、それはもう大好きになってしまいまして……」


 言いながら、シャノアは照れたように笑った。猫の姿をしていた時も綺麗な顔をしていたけれど、人の姿の彼もずいぶんと男前だ。


 やわらかな笑顔は甘く、なんだかルミアスまで照れてしまった。


 赤い瞳をじっとこちらに向けて、シャノアは気遣わしげに言う。


「そんな、大好きなあなたが、なにやら落ち込んでいらっしゃるご様子でしたので……元気を出していただきたく、毛を繕って差し上げたのです。猫なりにあなたを励まそうと、心を込めて。そうしたら、真っ黒い煙に包まれまして……」

「なるほど……やはり解呪の方法は、わたくしの思っていた通りのものでしたね」

「解呪の方法、と言いますと?」


 目をまるくしたシャノアに、ルミアスは大きく笑いかけた。


「どうやら呪いは『愛の口づけ』で解けるものだったようです。シャノア様がくださった口づけ――毛繕いで、お互いの呪いがいっぺんに解けたみたいですね。心から感謝申し上げます!」


 ――毛玉同士の親愛は、互いの呪いを見事に打ち払った。


 思いもよらない結末を得て、ルミアスは声を上げて笑ってしまった。


 ルミアスにつられてシャノアも笑みをこぼす。二人で解呪を祝い、和やかに笑い合って――……。



 しばらく笑ったところで、ルミアスが冷静な声で告げた。


「――ところで、そろそろお互い服を着ませんか?」

「えっ!? あっ……! も、申し訳ございません! 私としたことが、障りを晒したまま……!」


 呪いが解けた二人は今、裸を晒している。


 ルミアスの方は、気休め程度だが一応ローブを羽織っている……が、シャノアは素っ裸だ。


 彼は大慌てで腰元を隠して弁明する。


「すみません、気がまわらず! 未だに猫の気分で過ごしておりました……! ――というか、思えば私は猫の間、大変な粗相を……あなたにあれやこれやと世話を焼いていただき……申し訳ございません……本当に……何とお詫びをしたらよいか……」


 ハッと思い至った後、シャノアはものすごく渋い顔をした。消え入る声で謝罪を重ねる。


 ルミアスはニッコリと、宝石のように美しい笑顔を浮かべた。


 恥ずかしさで真っ赤になっているシャノアに、慰めの言葉――という名の、とどめの言葉を贈っておいた。


「そう、お気になさらずに。粗相も何もかもまるっと全部ひっくるめて、わたくしは黒ちゃんを愛しておりましたよ。黒ちゃんは()()()()すらも、大変に可愛らしゅうございました」


 そう伝えると、シャノアは例えようのない呻き声を上げて崩れ落ちていった。







 そうして呪いが解けた、翌日。

 シャノアは早々にこの国を出て、隣国へと帰ることになった。


 ルミアスは彼に服と食料を与え、コッソリと城から逃がすことにした。


 今、城の中では隣国バレスティーへの不満が高まっている。そんな状況でバレスティーの王子が我が王城に入り込んでいた、なんてことが知れたら騒ぎになりそうだ。


 捕虜にされてはいけないので、密やかに送り出すことにした。


 城の隠し通路をたどり、シャノアを外へと案内する。城下に出て、ローブで身を隠したまま街中を移動する。


 この小国は、ほとんどこの街一つで成り立っている。街を囲む壁を越えたら、もうほぼ国外みたいなものだ。


 街の入り口の門まで案内して、ルミアスはシャノアと別れの挨拶を交わした。


「ほど近くにバレスティーの兵が駐屯しているようですから、そちらへお急ぎください。どうかくれぐれも、お気をつけて」

「ご案内いただきありがとうございます。これまでのことも、本当に、心から感謝申し上げます。この御恩はいつか必ず」


 シャノアは胸に手を当て、かしこまった礼をする。


 書類ケースの上でふにゃりと伸びていた頃の黒ちゃんとは大違いの凛々しさだ。


 そんなところに、ちょっとした寂しさも感じつつ。ルミアスは別れの言葉を告げた。


「こちらこそ感謝申し上げます。あなたと過ごした日々は、わたくしの宝でございます。本当に、黒ちゃんは心の支えでした。どうか、お元気で――」

「あぁ、別れの言葉は言わずにおいてください」


 ルミアスの言葉を止めて、シャノアは笑顔を向けた。


「またお会いしましょうね。愛しの白ちゃん」


 そう言うと、彼はルミアスの白銀の髪へと触れた。そのまま頭をやんわりと撫でて――ゆっくりと、手が離れていった。


 シャノアはもう一度笑いかけた後、ローブをひるがえして歩いて行った。


 今までは、ルミアスが黒ちゃんの頭を撫でてきたのだけれど……初めて、逆に撫でられてしまった。


 黒ちゃんの大きく優しい手は、なかなかに心地がよかった。





 シャノアを見送った後、ルミアスは街を歩いて城まで戻ってきた。


 その道中で、ふと気がついた。そういえば、今日は午後からコルビーと妖精の君の婚約の儀が執り行われるのだった、と。


 ルミアスは呼ばれてすらいなかったので、すっかり頭から抜けていた。


(どうりで城へ続く通りが混み合っているわけだわ。儀式はもう始まっているのかしら?)


 ローブのフードを深く被って、身を隠しながら城へと歩む。帰城のついでに、コルビーの新たな婚約を見届けるとしよう。


 元婚約者の見納め、というとおかしいが、似たような思いである。婚約の儀を、彼との関係の終着にしようと思ったのだ。


 城門が開かれ、謁見のバルコニー広場に民が集まっている。人でごった返す広場の中に、ルミアスも体を滑り込ませた。


 ちょうど王のスピーチが終わったところだ。


 バルコニーに立つ王が下がり、代わってコルビーと妖精の君が前に出てきた。


 神官が二人の側に寄り、婚約の儀式を進める。


(懐かしいわね……わたくしもあのバルコニーに立って、誓いを交わしたのよね)


 自分が婚約を結んだ時のことを思い出して、しみじみとしてしまった。


 神官の言葉が終われば、いよいよ誓いの口づけだ。広場に集まった人々は大きく盛り上がり、その時を待つ。


 神官の言葉が終わり、二人が向かい合った。


 コルビーが妖精の君の頬に手を添える。ゆっくりと、両者の顔が近づき――……


 ……――コルビーの唇と、妖精の君の唇が重なった。


 なんとも甘やかな口づけだった。優しく、たっぷりと時間をかけて、コルビーは深い愛を妖精の君へと贈った。


 今ここに、若い二人の新たな婚約が結ばれた。唇が重なった瞬間、広場の人々はドッと歓声を上げた。



 ――が、その歓声は、直後に悲鳴へと変わったのだった。


 

 突然、ボフンと空気が弾けて、黒い煙がバルコニーを覆った。


 ルミアスはギョッとした。


「えっ……!? あの煙って……!」


 もう二度ほど、見たことのある煙だ。ざわつく気持ちを抑えて事態を見守る。


 煙は嘘のようにサッと消えて、ゲホゲホと咳込むコルビーの姿が露わになった。


 コルビーは苦しげに咳をするだけで、特に変わりない様子。だが、口づけを交わした妖精の君の姿が見えなくなっていた。


 ――と、思ったが。


 なにやら、コルビーの鼻の上に若草色の大きな虫がくっ付いている……。


 スラリとした姿で、宝石のような美しい若草色の――巨大なバッタが、へばり付いていた。


 バッタはコルビーの鼻の上で、バサリと美しい四枚羽を広げた。長い足でビョンと飛び上がり、そのままファッと飛んで行った。


 あまりの光景に広場はシンと静まり返る。


 が、一時の静寂の後。

 すぐに大衆の大声で満たされるのだった。


 集まった人々はバルコニーを指さして、口々にげんなりとした声を上げた。


「何だあれ、魔法!? 魔法で虫を美女に仕立て上げてたってのか!?」

「殿下は虫とご婚約なさるの!?」

「やだ~、バッタと口づけを交わすなんて……鳥肌が立ってきたわ」

「殿下は宝石の君ルミアス様より、バッタをお選びになったというのか……!?」

「ルミアス様に振られてしまったから、虫を美女に仕立てて見栄を張ったんじゃない?」

「しょうもないなぁ……この国大丈夫かよ……」


 バルコニー広場はお祝い会場から一変して、大ブーイング会場と化してしまった。


 ルミアスは遠い目をして、盛大なため息を吐いた。


 どうやら、あの日悪魔の呪いを食らったのはルミアスだけではなかったようだ。中庭にいたバッタも、変姿の呪いを受けていたみたい。


 どうにも人間らしからぬ静けさの人だなぁ、とは思っていたが……バッタもバッタで、大いに困惑していたのかもしれない。


 ルミアスは飛んで行ったバッタを労いつつ、さっさと歩いて広場を去る。


 バルコニーには目を向けないでおく。人々の罵声から察するに、気分を悪くしたコルビーがリバースしたようだ……。


 猫の粗相は可愛いものだが、彼の粗相は愛せない。無理である。

 スッパリと気持ちを断ち切り、ルミアスは背を向けて歩いていった。


 





 その後しばらく、我が王城は沈鬱な雰囲気に包まれていた。


 美しさを尊び至高とする王家が、民衆の前でとんでもない醜態を晒してしまったことで、皆、立ち直れずにいるようだ。


 もちろん、その筆頭はコルビーである。

 あの日から具合を悪くして寝込んでいるが、眠ると虫の悪夢にうなされるらしく、昼夜苦しんでいる。


 見かねた王が、『美しさを取り戻したルミアスを側に――』なんて言い出したが、ピシャリと断っておいた。


 王の機嫌を思い切り損ねてしまったことで、ルミアスは罪に問われた。そして、軟禁と相成った。


 棟への軟禁だが、毛玉生活をしていた頃とさして変わらないので、ごくごく普通に暮らしている。


 あの時と違うのは、黒ちゃんがいないということだけ。


 ……そのことだけが、どうしようもなく寂しかった。





 ――が、そんな寂しさもすぐに散らされたのだった。


 ある日、隣国バレスティーが兵を寄越して、あっという間に街を占領した。サラリと城を落として、我が小国は大国バレスティーの一部となってしまったのだった。


 寝込んでいたコルビーは寝間着のまま摘まみ出され、風呂に入っていた王は素っ裸で連行された。


 その間、わずか半日である。


 朝に兵が押し寄せて、昼には我が街の民たちと共に、親睦のランチタイムを取っていた。


 民衆は、虫を(めと)ろうとしたおかしな王子に落胆し、国の未来を憂いていた。その最中(さなか)に隣国が使いを寄越したものだから、あっさり寝返ってしまったようだ。


 バレスティー国の兵が、街の端に潜んでいた悪魔を無事封印したことも、民衆の歓迎を後押しする要因となったよう。


 城の者たちはまるっと全員ひっ捕らえられ、ひとまず捕虜の身分となった。今後、使える臣だけを残して、その他は城から降ろされるとか。


 もちろん王家も解体されて、臣になるか、平民に下るかだ。もしくは遠い地に飛ばされて、わずかな施しをもらって慎ましく暮らしていくか。という三択だそう。



 

 そんな急転直下な王城の面々を横目に見つつ。ルミアスはバレスティーの兵たちの歓迎を受けていた。


 すっかり占領された城の中で、ルミアスはポカンと呆けた。


 目の前には黒ちゃん――シャノアが、笑顔で立っている。


 彼はピシリとした黒い騎士服をまとい、兵を率いて現れた。『早速ですが、会いに来ました』なんて爽やかに笑いながら。


 猫の姿と素っ裸の印象が強かった彼だが、新たに騎士服姿の印象も加わった。精悍で格好良い姿だ。


 ルミアスは未だポカンとしつつ、シャノアに話しかけた。


「恐れながら、『バレスティー国は平和を是として、他国を侵略しない国』と、存じておりましたが……一体、どういう風の吹き回しでしょう?」

「私がルミアス様を望んだ結果、こうなりました」

「は……?」


 思わず、ルミアスは変な声を出してしまった。


 シャノアは構わずにペラペラと喋り出す。 


「ルミアス様を我が国に迎え入れたく、そちらに何度も使いを出したのですが……王家はルミアス様を手放してくださらないようでして。交渉の中で、なにやらあなたのお立場も危ういように感じられましたので、手っ取り早く、国ごと頂くことにいたしました」


 彼は照れた笑顔で、なんてことないという風に言ってのけた。

 

 こうして大国の力を間近に見ると、我が小国はなんとも非力な国であったな、としみじみと思う。


 我が小国――なんて呼び方は、もう相応しくないけれど。もうここは、先ほどバレスティー国となったので。


 シャノアはまるっと奪い取った城をグルリと見回して、機嫌良く頷く。


「ふむ。なかなかよい城ですね。ここをそのまま、私の家にしてしまいましょうか。ルミアス様と暮らしたあの棟にも、またお邪魔したいので」

「え……? っと、あの、シャノア様はこれから、この城で過ごされるのですか?」

「えぇ、ルミアス様のお側にいたいな、と。『ずっと側にいてね』と乞われてしまいましたし」

「なっ……!? 言葉を解しておられたのですか!? 猫だったのに……!」

「いえ、音の響きを覚えておりました。人に戻ってから思い返して、言葉の意味を正しく理解いたしました」


 解呪に至る前に、ルミアスは黒ちゃんに『ずっと側にいてね。大好きよ』なんて言葉を伝えていた。


 こうして時間を空けて返事が返ってくるとは思わなかった。ルミアスの言葉と気持ちは、しっかり黒ちゃんに届いていたらしい。


 シャノアはおもむろに片膝をつき、ルミアスに向けて手を差し出した。


「ルミアス様。あなたの望みのままに、私がずっとお側におります。黒ちゃんの世話を焼かせてしまったお詫びと、諸々の粗相の責任を、私に取らせてくださいませんか?」

「それは……プロポーズのお言葉でしょうか?」

「そのつもりで申し上げました。……あの、いまいちでしたか?」

「お詫びと責任のため、ということでしたらお受けいたしかねます。黒ちゃんのお世話はわたくしがやりたくてやっていたことですから」

「言葉を変えます……」


 シャノアは目を泳がせて、スンと静かになった。


 少しの間を空けて。

 なにやら力が抜けたような顔をして、ごにょごにょと喋り出す。


「……すみません、先ほどのプロポーズはお忘れください。つい、格好をつけようとしてしまいました。ええと、責任うんぬんというのも、考えていないわけではないのですが……それは置いておき」


 彼はもう一度ルミアスを真っ直ぐに見つめて、言葉を紡ぎ出す。


「私はもう、ルミアス様の虜になってしまいました。暮らしの中で与えていただいた、あたたかい優しさと愛情に、私はいつもたまらない心地を感じておりました。あなたに撫でられると、もう幸せで仕方なく」

「光栄でございます。シャノア様は猫の姿の時のことを、とてもよく覚えていらっしゃるのですね」

「えぇ、覚えておりますよ、猫なりに。猫にも深い心がありますから、私はルミアス様のことを、それはもう心の底から愛しておりました。あなたの膝の上で腹を晒して、爪切りを許すほどに」


 体裁を捨てて気取った言い回しをやめたシャノアは、ふにゃりと笑って喋る。


 その笑顔が、書類ケースの上でだらけていた時の姿と重なって、ルミアスは笑ってしまった。


 ――あぁ、やっぱりこの人は黒ちゃんだ。と、そう感じた。


 シャノアは改めて、ルミアスへと手を伸ばす。


「猫だった時から想いは変わらず、人に戻った今でも、ルミアス様のことを深く愛しております。毛玉同士の愛も大変に心地良いものでしたが……今度は人同士でも、愛を交わしてくださいませんか」


 彼の言葉を受け取って、ルミアスは同じようにふにゃりとした笑みを浮かべた。


 美しい宝石の笑みではなく、へんちくりんだった時の茶目っ気にあふれた笑みで、返事をする。


「シャノア様は、もしわたくしの姿がまた毛玉になってしまったら、どうされます? そんな姿になっても、わたくしのことを愛して、口づけをくださいますか?」

「ルミアス様がまた毛玉になられたら、私は思い切り抱きしめてしまうでしょうね。素晴らしく可愛らしい毛玉姿でしたから。ふわふわに顔を埋めて、毎日口づけをお贈りいたしましょう!」


 力強く言い放ったシャノアの手に、ルミアスの手が重なった。


 毛玉姿ではないけれど――シャノアは今の返事の通りに、ルミアスを思い切り抱きしめた。


 そうして彼に導かれるまま――……ルミアスは、唇も重ねてしまった。



 

 つい婚約の儀を飛ばして、口づけを交わしてしまったけれど。


 この口づけの機会は、神から与えられた祝福ということにしてしまおう。


 とんでもなく珍妙な災に遭った二人なのだから、きっと神も見逃してくれることだろう――。


お読みいただきありがとうございました。

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