たまおくり
カクヨムの短編賞向けにこの短編を執筆したのが四月の上旬。その後インターハイの中止が決定したため、今読むと違和感のある箇所も多いです。
ですが、少しでも気晴らしになればと思います。
たんたん、と黄色のボールを弾ませながら、相手センターは左手を高く挙げた。
「ディフェンスしゅーちゅー!」
こちらのキャプテン、桜田の大きな掛け声がコートに響き渡る。後半も残り十分を切ったというのに、まだ体力が有り余ってるらしい。相手のポストプレーヤーに体を密着させながら正面を見据えている。
「マークしっかり!」
後半初めからマークの受け渡しが曖昧になっていたことを思い出し、キーパーの私も声を出す。試合の中で自然に修正できればいいが、これがなかなか難しい。
緩いパスが何度か交わされ、そして敵は動き出した。逆サイドの選手が中央に走り込み、懸念通りこちらもつられてスペースが空いてしまう。向こうはそれを見逃さず、走りこんだ相手のエースにボールが渡った。
させるか。素早く距離を詰め、コースを狭める。近め、つまりニアサイドにくると予測。相手を観察しながらタイミングをすり合わせ、思い切って左の手足を上げた。
「っ!」
短髪の相手は荒い息とともにシュートを打ってきた。読み通り近めにきたものの、向こうには勢いがあった。ボールは脇の下をすり抜け、すぱんとネットに突き刺さった。
切り替えないと。次の攻撃に繋げるべく急いでボールを取った瞬間、ブザーが鳴った。タイムアウトの合図だ。一分間の休息と、そして反省の時間が私達に与えられる。
「まだリード、切り替えてこ」
すぐに桜田が周囲に声をかけてきた。確かに、リードはあと二点ある。ハンドボールはバスケと違い一点ずつしか入らないし、一本のシュートで逆転されるようなことはない。
しかし、裏を返せばあと二点しかないということだ。普段はもっと差が開いてる筈なのに、今日は違う。他のメンバーも同じように違和感を覚えているのか、首を傾げたり眉をひそめたりしていた。
「今更言い訳考えんなよ」
異様な雰囲気を察知したのか、監督が舌打ち交じりに呟いた。濃い顎鬚をさすりながら椅子から立ち上がってボードを取り出し、直前にマークを外された左サイドの二人に指示を与える。二人はそれに何度か頷いたものの、依然顔は晴れない。
「いいか、向こうもこっちも十分に練習できてない」
だからイーブン、臆病になるな。檄が飛んでくる。勿論、言われるまでもなく全員それは分かっている。分かってはいるのだが。
納得のいかないままタイムアウトが終わる寸前、突然桜田が素っ頓狂な声を上げた。
「オリンピック、いこ!」
え、と一瞬の静寂。その後、チームは大きな笑いに包まれた。
「今言うか?普通」「あたしら代表じゃねぇし!」「延期になったでしょ」
全方位からツッコミが入り、その度に空気が弛緩していく。
ブザーが鳴り、そっかと笑いながら桜田は持ち場に戻っていった。天然なのか計算なのか、とにかくチームの士気が高まったのは間違いなかった。
最近、桜田は変わった。
私と彼女は中学の時に知り合い、以来ずっとその腐れ縁は続いている。その頃からずっと、彼女は将来の『おりひめ』、つまりは日本代表として期待されていた。高校生になってさらに実力をつけ、世代別代表の司令塔として活躍している。
だが、まだ17歳。いかに彼女といえども、代表への壁はそう容易く乗り越えられるものではない。あくまでも目標は東京の次のパリ。少なくとも数か月前まではその筈だった。
オリンピックの延期。そのニュースが報じられてすぐ、桜田はわざわざ私の家まで走って来て、こう宣言した。
「雪ちゃん、私、東京に出たい」
初めはただ、練習自粛中の私達を元気づけるために大口を叩いたのだと思っていた。しかし自粛も終わり、大会直前に取材を受けた時も、彼女の口から出てきたのは同じ言葉だった。驚く記者の視線を意に介さず、桜田はただその宝石のように黒い瞳を輝かせていた。
私には桜田の気持ちは分からない。世代別には二、三度呼ばれたことはあるが、その先なんて見えやしなかった。
きっと、私達二人の視線は交わってないんだろう。そう考えるたびに、どうしようもなく胸がきゅっとする。
「一本取ってこー!」
叫ぶ彼女の背中は、やけに大きく感じた。身長は春まで私と大差なかった筈なのに、いつの間にか置いてかれているような気がする。
相手チームは二人が前に出てディフェンスを行う。パスカットした後にすぐさまカウンターを狙う攻撃的な布陣だ。残り時間も考えると、早めに追いつきたいのだろう。
対して桜田は、左手の人差し指をぴんと立てた。詳しいサインは私にも分からないが、それに呼応してポストの月島が僅かに立ち位置を変えた。
左バックの泉からパスを受け取った桜木は、そのまま切り込む。その正面を任されているらしい大柄な選手が対応するべく、体を寄せにきた。ギリギリまで引き付けてパスを狙っているのだろうか。
しかし、私の予測を裏切り、彼女はボールをつきながら右へ大きく体を捻った。強引に相手を引きはがすと、そのまま高くジャンプしてシュート。ボールは左上隅に吸い込まれ、呆気ないくらい簡単に得点が入った。
「ナイシュー!」「ディフェンス切り替えてこ!」「サイド見て!」
ついさっきまで漂っていた妙な雰囲気はどこへやら、チームはいつもの姿に戻りつつあった。その中心にいるのは勿論桜田だ。声とプレーの両方で、あっという間に流れを変えてしまった。
集中力が切れてきたのか、相手チームの攻撃は雑になってきた。ややずれたパスをカットし、慌てずゆっくりと攻撃に移る。焦らず一旦ゲームを落ち着かせるのが大事だ。勿論チーム全員それは分かっており、後ろの三人でパスを回しながら相手の出方を伺う。
うまくディフェンスをずらし、月島が空いた。カットインした泉はノールックでパスを出す。彼女の十八番のプレー。今日も一度決めていた。
だが、ばちんという音とともに、横から伸びた手がそれを阻んだ。ボールは転がり、相手キーパーの手に渡る。相手もパスを警戒していたようだ。
相手の速攻。疲れからか、こちらは総じて戻りが遅い。向こうもそれを確認し、素早くこちらの右サイドを使ってきた。長いパスは難なくつながり、一転してピンチを迎える。敵は素早くドリブルしながら私の動きを見る。そして一歩、二歩と助走をつけ――。
瞬間、視界の端から綺麗な黒髪とキャプテンマークを付けた腕が飛び込んできた。彼女はそのまま相手を巻き込み、だんっと勢いよく床に倒れこんだ。続けて、笛の冷たい音色が空気を切り裂く。
顔を上げた桜木は、すぐにこのプレーの代償に思い至ったのか、丸い目を大きく見開いた。そこに小走りで近づいてきた審判はぴんと二本指を立て、逆の手を彼女に伸ばした。
二分間の退場。しかも七メートルスローのおまけ付き。向こうのベンチと応援団からわっと歓声が上がった。このままでは、取り戻した流れがまた向こうにいってしまう。
宣告を受けた桜木は立ち上がるが、その足はがくがく震えている。いつもの明るい笑顔は急に引っ込んでしまっていた。普段の彼女ならありえないようなミス。
桜田も緊張していたんだ。私はようやくその考えに思い至った。それでもチームを鼓舞し続けていたんだ。チームの為に、インハイ優勝の為に、そして、おそらくはその先にある、彼女の目標の為に。
とにかく、何か声をかけないと。頭の整理がつかないまま、のろのろとコートを去るキャプテンの、友人の背中に向かって無我夢中で叫んだ。
「春香!」
振り向いた彼女の瞳は潤んでいた。折角の美人が台無しだ。ふとそう思った。
「オリンピック」
私が口にした言葉に反応し、肩が一瞬だけ上がった。目に力が戻る。
ああ、やっぱり本気か。本気でオリンピックを目指すのか。桜田春香は、私の好きな桜田春香は、そうでないと。
置いていかれたくない。私は決意を固め、そして笑顔で告げた。
「オリンピック、私と出よう」
その答えを待たずに、私は彼女に背を向けゴールに戻った。答えなんて分かっていた。ならば私にできることは一つだけだ。深呼吸し、前に出る。
相手はエースが投げるらしい。タイムアウト前に決められた一発が頭をよぎった。あの時は勢いに圧されたが、今度こそ止める。
優勝して、実力を示して、二人でオリンピックに出るんだ。
お互い構えた後、笛が鳴った。向こうは一瞬フェイントをかけてくるが、あえてその動きに反応し、少しだけ身体の軸を右に動かす。そして振りかぶった瞬間、私は思い切って左に飛んだ。
「っぅ!」
想いが通じたのか、シュートは私の身体のどこかに当たり、ボールはそのまま高く舞い上がった。オーライと声を出し、月島がそれをがっしりと掴む。
やった。やったんだ。ほっと胸を撫で下ろしていると、ベンチから大きな声が聞こえた。
「ナイスキー雪ちゃん!」
そちらを向くのが妙に照れ臭かったので、私はただぐっと右拳を作った。
「ありがと、雪ちゃん」
試合を終えてロッカーに引き上げる途中、桜田が話しかけてきた。勿論、いつものように笑顔を浮かべて。
「いいよ、別に。あれがキーパーの役目だし」
「えっと、そうじゃなくて。さっき初めて下の名前で呼んでくれたから」
頬を桜色に染めながら、彼女は私のユニフォームの袖をつまんでくる。確かに、私は出会った時からずっと名字で呼んでいた気がする。
「ああ、次はお返しに、桜田が私を冬野って呼んでね」
「なんかよそよそしくてやだよー」
そこで彼女は足をぴたりと止めた。目の前に掲示されていたのは、オリンピックのポスターだ。ゼロの数字が消され、一本の縦線が引かれていた。
春香の、そして今日からは私の目標でもある。
「雪ちゃん、頑張ろうね」
「うん」
頷き、私達は再び歩き出した。戦いはまだ始まったばかりだ。