2.5話 零 『苦くて甘い』
──そう、きっと自分は怖かったのだろう。あの少年に、心開いてしまう自分が。
けれど、信頼する気持ちは止められない。何故信頼する? と問われても答えることなど、出来ないのに。 ルビアは一人、悶々とベッドの上を転がる。自分は、あの少年を疑うべきなのだろうか。本当に、そうするべきなのだろうか。
あの少年に──ヤマシタ・レイに、村長を殺すことなんて出来るはずがない。ピートにコテンパンにされていた彼だ。きっと返り討ちにされて終わりだろう。
それに、そもそも村長はそんな並大抵のことでは死なない。『始まりの大樹』さえ守り抜けば、例え体が死んだとしても復活出来る──それは村長の警護が緩い理由の一つである。ルビアが何度言おうと、村長はこれを理由に警護の強化を断っていた。
そう、だから……村長が殺されることなど、有り得ない。そのはずなのだ。けれど、あの『預言』の内容が一体何において死を決めるかが重要だ。もしかしたら、この村の完全な停止。それを村長の死と捉えるかもしれない。もしそうなら、ヤマシタ・レイでもそれは可能だ。と言うか、そんなこと、きっと彼なら容易で出来る。
何故、自分はあの少年を怖がっているのだろう──ふと、ルビアは思う。怖がる理由なんてありえない。けれど、あの少年と相対する時、心はずっと震えている。あんな状態、今までなら有り得ない──訳では無いのか。
きっと、そうだ。それが原因だ。この震えの、その既知感が、ヤマシタ・レイに対して恐怖を思い出させるのだ。
ルビアはそこでようやっと、自分の感情を理解した。
そんな時である。
「あの……ごめん」ヤマシタ・レイが、ひょっこりと顔を出した。「便所って何処かな?」
──
便所から戻ってきたレイを、ルビアはため息混じりで迎え入れた。ニコニコと、笑う彼の姿は何だか奇妙で、少し浮き足立っているかのような印象を受ける。
「どうしたの? こっちにわざわざ?」
「いや、教えてくれてありがとうくらいは言いたくってね」
「気持ち悪い」
「何故そうなった?!」
と、ルビアの冷たい一言にでさえ、レイは大袈裟な反応で茶化してしまう。何故、とルビアの心に罪悪感が押し広がる。これで、ジメッとした表情になってくれるなら、まだマシだった。逆にこっちは少し快感を得ることが出来ただろう。けれどこの少年は、何故か敢えて棘のある言葉に茶化す。きっと、それが彼の処世術なのだろうと思った。
「そういやさ──」
と、レイはわざとらしくルビアの元に近付いてくる。急にどうしたのだろうと、ルビアは隣の席を開ける。案の定、そこにレイが座った。
「容疑者候補って、どれくらいいんの?」
「それを容疑者自信が聞く? ちゃんちゃらおかしいわね」
「いや、だって気になるだろ? 自分と同じく疑われてる人物……あ。こういうのって見ちゃ駄目なんだったけ?」
「別に良いわよ、どうせこれを知っても、あなたに対処出来るはずがないだろうしね」
「サラサラと酷いことを言わない。で? それがその資料?」
サラリとルビアの毒舌を避けると、レイは資料をひったくる。 「あ」なんて声を出してしまう自分を恥ずかしく思いながら、ルビアはその資料を眺めるレイの表情を見詰める。
本当に珍しい顔立ちだ。こんなにも彫りの浅い顔、見たことがない。それに、真っ黒の髪と言うのも奇妙だ。東の方ではよくあると聞くが、あちらはまだ未開拓だからよく知らない。一応、ここはユーノー王国の最北端だから、特に東のことはわからない。まあ首都である南側も、それは同じだろうが。
「へー、サラッとだけしか見てねえけど、割と少ないんだな」
「ええ。おかしな挙動の人間の中でも、国籍不明とか、滞在理由とか、経歴とかわからない人だけに絞ってあるわ。まあ、後は犯罪歴とかも考慮してね」
「それってもしかして序盤の方、俺への嫌味?」
「ええ。あなた、国籍不明で滞在理由とか、経歴とかサッパリだからね。ホント、何処出身なの?」
「何処、って聞かれたらお決まりで、東の島国としか応えられねえな……」
「はぁ。まあ、何となく東だろうなとは思ってたけど、『しま』って何よ、『しま』って」
「え? いや、『島』だよ? ほら、海の上に浮かんでるちっさな陸地……」
「はい? 陸地はこの大陸だけでしょう?」
「マジかよ、確かに中世ヨーロッパだか仕方ないのかも……いやそういう訳でもないのか?」
何を言っているんだろう。と、ルビアは首を傾げる。『しま』とか『よーろっぱ』とか言われてもサッパリである。やはり、挙動不審な人間としては一番だな、と静かに心で拍手。こんなのただの嫌味でしかない。
ルビアは受け取った資料を開き、付箋を貼り付けた頁を開く。
「あ? 何だこの厳ついやつ」
「『あ』に濁点が付くくらい疑問なら自分で読めば? って、読めないんだっけ?」
「ハイハイ申し訳ないですね、識字出来ませんよ、ハイハイ」
「まあ東の野蛮人だって言うなら仕方ないけどね……」
「いつから俺は野蛮人になってんだよ、東と人しかあってねえじゃねえか」
「でも三つ中二つ合ってるでしょ? ほら? 過半数あってるんだから良いじゃない」
「いや、野蛮って言葉って強いからね? 東とか人とかすぐ食べられちゃうからね?」
何だか呆れた調子でそんなことを言うレイ。話が大きく逸れていることに気付いたのか、彼は手を叩いて資料をもう一度指さした。
「それで? この大男って誰なんだよ」
「こいつが、今のところ最有力候補よ。まあ、顔付きからして危なそうだけど、その実、彼はただの行商人だったはずよ。確か専門は……鏡だったかしら」
レイ自身が、その鏡を覗き込んでいたことに一体いつ気付くのか。おそらくもう気づいているのだろう。ハッとした表情でこちらを見た。
「名前はガイヒ・ウエスト。表の顔は行商人。裏の顔は、死の商人」
「死の商人……」
「まあ、これはシンドロさんからの受け入れだけどね? 死を売りさばく商人だから、死の商人。そんなのが今、村の中にいる──疑うな、って言う方が難しいでしょ?」
そう、この男──ガイヒならばやりかねない。そう、シンドロは言っていた。その確証が一体何処あるのか、シンドロはそれを最後まで応えなかったが、おそらく、兵役時代に知り合ったのだろう。前も、少し話をしていたようだし。
「はー、まあ大変ですな、ルビアさんも」
「当たり前じゃない。出来ることなら野蛮人の手でも借りたいくらいよ」
「俺を猫と同類にするな、てかこの世界猫っているのか? 全く見たことないんだけど」
「何をグチグチと? 猫くらい探せば幾らでもいるわよ……まあ、避けられたら絶対見つけられないけどね」
「それ暗に猫が俺のこと嫌ってるって言いたいの?!」
「アハ、どうかしらね」
「腹立つけどまあ、それは良いとしてだ」そう言うと、レイは一拍息を吸った。「──お前、正直俺のこと嫌いなんだろ?」
「──っ!」
唐突に、尋ねられた言葉が、ルビアの心に侵食する。駄目だ。堪えなくては。そう考える頭はもうない。溶けだしていく思考は、そのまま彼方遠くの記憶へと移行する。暗い、真っ暗な世界が見え始める。
「──っ!」
──母さん!
あの日の、母の記憶が回帰する。声が声が聞こえる。それは──、
「ルビア、正直母さんのこと嫌いなんでしょ?」
違う。違う。そんなわけがない──! 意識の中で藻掻く藻掻く。溺れる溺れる。しかしその度に、絡みつく言葉の縄は首を締め付けていく。これでは死んでしまう。心が死んで──。
「おい! ルビア?! 大丈夫か?! おい!」
声が聞こえる。けれどもうその色を区別することが出来ない。全てが灰色の声に思える。ルビアは、
──ごめん、なさい。
ルビアはとうとう意識を失った。
──
──暗い暗い暗い暗い暗い。
認識できる全てが真っ暗だ。息をすることだって窮屈だ。
それでも息を吸わなくてはならないから、大きく息を吸い込む。苦い、苦い。まるで昔呑んだ珈琲のような味がする。
「いい、ルビア」
「何? 母さん?」
「強く、生きるのよ」
「……え」
掠れた声が聞こえる。乾いた笑みが見える。それはどちらも母の言葉で、それはどちらも母に関する最後の記憶だった。
強く、生きろ──そんな言葉を吐かれて、ルビアはおいてけぼりにされた。本当においてけぼりだ。待てども待てども母は来ない。否、誰一人来ない。
暗い暗い森の中で一人、ルビアはそう、一人きりだ。全てが真っ暗だった。心も真っ暗に染まってしまいそうだった。
──どうして、母は自分を棄てたのだろう。三日目くらいから、ルビアはずっと、そんなことを考えていた。彼女の中で棄てられた、というのは確定事項だった。幼い彼女に、それ以外の可能性を発想し、理解する術は無かったのだ。だから彼女の中で母は、自分を棄てた悪魔ということで処理された。
寒くて寒くて仕方がない。最後に残された食料も、もう食べ切ってしまった。あの暖かいスープを、もう一度だけ飲みたい。食べたい。飢餓、というものを、おそらく彼女はこの時初めて体験した。もう、身動きを取ることすら出来ないほどの飢餓。気が狂うの『気が』はもしかしたら、ここから派生されているのかもしれないと、幼心に思った。
それほどに、そんなおかしな発想に至るほどに、彼女は飢餓に苛まれていた。喉が、乾いた。お腹が、空いた。喉が、渇いた。お腹が、空いた。全てが、灰色の、味になる。
もう生きているのが辛い。いっそ殺してくれとルビアはしきりに思っていた。ただそれは決して、幼き彼女が防弱だったのではない。空弱だった訳でも、飢弱だった訳でもない。
それは仕方の無いことだったのだ。それは、どうしようもない、自然の摂理だったのだ。だから、仕方がない。だから──、
「……え?」
──人を殺してまで、食料を手に入れようとしたルビアは間違っていない。
気付くと、周りが血塗れだった。手にはパンとベーコンが握られていた。そこまでの記憶は、ない。ただ森の中を歩いていた。記憶としてはそれだけしかない。ルビアは呆然と立ち尽くした。幼心でも、自分の行為に罪悪感を感じてしまったのだ。
だから、もう償おうと思った。否、そんな具体的な感情は彼女にはなかった。もう既にヤケになっていたのだろう。ルビアはその老婆の死体に手で触れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
ルビアはそう言って、老婆の持っていた杖を手に取ると、首元に添える。鋭利なそれは、幼子の力でも、首を断ち切ることは容易だろう。ルビアはそのまま、その杖を首に付けて、勢いよく──、
「──待ちなさい!」
刺そうとしたそれは、老婆の声で止められた。それは本来、死んでいるはずの老婆の声だった。ルビアは戸惑った。何故、生きているのか。何故、動いているのか。何故、声を出したのか。主な疑問はそれらだったが、混ざり混ざり、グチャグチャになって、世界を汚す。
──この時、ルビアが襲った老婆は、運悪く、亜人だった。それも亜人の中でも生命力の高い、エルフという種族だったのだ。老婆は体の節々を徐々に修復していき、最後、完全に再生した状態でルビアの眼前に立った。それでこんなことを言った。
「お主は今から、わしの所にこい。それで、ちゃんと育ててやろう」
老婆がルビアの肩に触れると、フッと、糸が切れたように彼女は倒れた。そのまま、ルビアは老婆に連れられて『始まりの村』へと向かう──。
──握られた手は、暖かくて、何故かそれだけが現実味を帯びていた。
「──っ!」
思い出した記憶は、そう、消されていたはずの母の記憶。そうだ、思い出した。何故、この少年を前にすると胸が燻るのか。
きっと、それは──。
「お、おい、ルビア大丈夫か? 突然ぶっ倒れるからビックリしたんだけど……」
「大、丈夫。少し調息したら、治ると思うから」
込み上げる苦味。暗い昏い苦味。それをルビアを喉元で感じながら、一言呟く。
「最悪だ……」
思い出した記憶への悪態。それを、ルビアはわざとらしいため息に乗せて吐いた。
「おい、本当に大丈夫なのかよ?」
アタフタと、こちらを見るレイ。その様子は何だかおかしくて、何だか懐かしくて、ルビアは心が落ち着くのを感じた。
何だか癪だった。『何だか』と原因の一つも見つけられない自分にさえ腹が立つ。けれど、落ち着く心は止められない。
息を吐いたら、鳴り響いていた鼓動がゆっくりとしたものに変わっていった。
「ありがとう。もう、大丈夫だから」
震える心臓を抑え、ルビアは舌に手を触れた。
──苦く甘いその味の理由は、終始分からず仕舞いだった。