4話 壱 『震えて、守った』
──その日は、いつもとは少し違う朝日を迎えていた。
雨である。深々と降る雪が止み、その代わりに、今朝は雨が降っていた。雨は地面を濡らし、滑りを良くする。雪とは違ったその感触を味わうかのように、子供たちは大口を開けて遊び回っている。
ふと、畦道に目を向けると、百姓達が嬉しそうに笑い合っている。 雪から水へと濾過する作業が省かれたから、と言うこともそうだろうが、やはり久しぶりの雨に、心が疼いているのだろう。自然な笑顔が見える。
──雨は、人に恵みを齎す。
──雨は、人を容易く変える。
──雨は、人に感情の波を与える。
しかし、そればかりでは──良い面ばかりではない。これで困り、混乱している人間は、いつの時代もいる。時期が悪かった──そうとしか言いようがない。降る雨を恨めしげに眺める少女。彼女の心中を推し量ることは出来ない。しかしその握り締められた手を見れば、彼女の覚悟は垣間見得るだろう。
「絶対に、わたしが止めてみせる……」
──その雨は、『預言』に含まれた惨状の始まりだった。
──
「おい! トロマのレイ! 酒持ってこい酒ぇ!」
「うるせえクソジジイ! こんな朝っぱらから飲んべってる癖に大口叩きやがって!」
「何だよ『飲んべってる』ってよ?! んなことどうでもいいから酒持ってこい! 酒!」
「うるせえんだよくそ親父!そもそもあんた仕事は何やってんだよ毎日毎日きやがって!」
「んなもんな何だっていいだろ?! それにお前の相談にちょくちょく乗ってやってんだから文句言うなよオラ!」
「──っ! それは言ったら駄目な奴! アカンやつ! 恥ずいやつ! おやっさん、勘弁してくだせえ」
「急に手を揉んでくんな気持ち悪い! とにかく酒! 酒用意してくれ! いつものやつな!」
「はあ、本当、よくやるよ」
「まあまあ、別に良いじゃねえか、な?」
そんなふうに言って、親父はレイの肩を叩く。それにレイは不服そうに頬を膨らます。しかしそこには親愛の心が篭っている。それぐらい、この親父も分かっているはずだ。
そんな彼らの言い合いに、客の一同が大笑い。周りから見ると、その光景はまるで親子のようなのだそうだ。もちろん、これは酒場で飲んだくれている男の言葉である。
と、
「やばい、レイ。後ろ見ろ」
親父が何か気付いたのか、ハッとした表情になった。レイもそれの瞳を追う。それで、レイは目を見開いた。
「お、おう。すまねえな、勘定済ましてくれ」
財布を取り出し、親父は急いで金を取り出す。ふと見えたその指は震えている。いつもなら、それにちょっかいの一つは出すレイだが、今日は絶対に無理だ。馬鹿にする余裕なんてない。レイは、震える手を抑え込んだ。
「じゃ、またの来店を……」
そう言うと、レイは体を硬直させて、息を何度か吸って吐く。それを四度繰り返す。深呼吸すらままならないので、代理でそうしてみるが、効果なんて皆無。マラソン選手の凄さがわかる。彼らはこの緊張感を維持したまま走り抜けるというのだから、凄まじい。
と、レイは自分の頬を思い切り叩く。息を何度か吐いて、覚悟を決めた。振り返って、営業スマイルを作る。息を大袈裟に吸ってから、大きな声で一言、
「いらっしゃいませ、今日はどんな要件で……」
そう言って、深く深く礼をする。声が震えているのがわかって、情けなさに泣きそうになる。大きな声だから余計に、泣きそうだ。
何故、こんなにもビクビクしなくてはならないんだろうか。とふと思う。しかし事情は、シンドロからもルビアからもドワイトからも既に聞いている。だからもう、仕方が無いのだ。だからもう、これは、郷に入っては郷に従えと言うやつなのだ。そんなふうに思って、レイは男の懐──携えられた剣と、その鞘に描かれた満月の紋章に目を向ける。
「あー、えっと、MR.ムーンライト団です。一週間の泊まりでお願いします」
その一言を聞いて、レイは頬を固める。失敗は許されない──そんな覚悟が、腹の奥底で固まるのを感じる。いつもは不真面目な彼らの、あの真剣な瞳。あんなものを見てしまえば、失敗などやっていられない。だから、本気で。だから思い切りやってやるのだ。そう決めて、レイは息を吐く。作った笑顔で荷物を受け取り、名前の欄を差し出した。すると、男は慣れた様子でサラリサラリと書いて、
「えーっと、ラウル・サードです。よろしくお願いします」
と、名乗った。柔和な笑みで、男は手をさし伸ばしてくる。握手を求めているのだ、とレイは三秒後くらいで気付いて、それに応える。心臓がまるで耳に移動したかのようだ。
「まあ、その……とりあえずいったい緊張するの辞めてもらっていい? 気持ちは死ぬほど分かるけど」
そんなのわかるはずがない。この緊張はレイだけのものなのだ。否、レイ達のものなのだ。虐げる側の人間が、そんな軽々しく言われると困る。
「あのーえっとね、とりあえず、目を合わせるだけでして欲しいというか、なんというか……と、とりあえず対等に話をしよう」
男はそんなふうに言って、レイの顎に手を触れる。そのままクイと上げられた。自然、男と目と目が合う。レイはそれで、「げ」と声を出した。
人生初の顎クイ。それの相手は、驚くほどの美青年だった。透き通るほどの美青年と言った方がいいかもしれない。 本当にビビるくらいに、気味が悪いほどの美青年だ。
一体、どこがどうなって、どうして美しくみえるのかサッパリわからない。しかしパーツだけで言うと、髪の毛は赤一色──とは言え、アニメで見るような爛々と輝く赤ではなく、ただ黒に少し赤みがかったようなもの──で、瞳の色は、右が黒で左が碧のオッドアイ──まるでアニメの主人公みたいなビジュアルだな、とレイは静かに嫉妬する──。
しかし、その表情はあくまで柔和。穏やかさ、と言うか弱々しさが全面に出ている。何だが、どれだけ顔が整ってていても人は人なんだよなぁ、と認識させられる。それほどに、その男にはオーラがない。
「えっーと? ラウルさんでしたっけ?」
「いや、ラウルで良いから」
「あ、ならラウル。そろそろ顎から手をのけてもらっても?」
「あ! こ、これはすまない。ちょっとこれはキモかったな……」
「うん、俺はそう思うね」
「じゃ、じゃレイ……くん? 案内してもらってもいいかな」
適当に話を変えられたので、こちらも適当に受け答えする。手に取った荷物の上に鍵を置いて、レイはラウルに一言。
「右から三番目です。ありがとうございます」
「あは、ありがとう……」
そう言って、ラウルはその荷物を持ち上げた。その荷物で、わざとらしく『えっちらほっちら』いいながら持ち上げた。ちょくちょく振り返っては、遠い目をしてこちらを見てくる。癪なので、それには触れないようにしよう──と、そんな時にふと、疑念が走った。
「あの?」
「はい!?」
と、声をかけると嬉しそうに振り返ったラウル。無邪気だしキャラ濃いなと思いながらも、レイは渋々その荷物を受け取る。聞きたいことが、たった一つだけあった。
「俺、あなたに自己紹介しましたっけ? してません、よね?」
そう、この男、何故かレイの名前を知っていた。先程、何故かラウルは、レイのことを悩みながらも明言した。これは、嫌な予感がする。本当に嫌な予感がする。本当なら、シンドロに言われているとおりスルーするべきだ。厄介事は避ける。それがモットーなのだが、これはやはり駄目だ。もしかしたら、レイ個人の──つまり異世界召喚に関連している可能性がある。
「あー、それはね、さっきあの酔っ払ってた人が叫んでたからで……」
すると、ラウルはそんなふうに応えた。目が泳ぎまくっている。これは嘘だな、とレイは思うも、下手に追求してイチャモンをつけられても困る。ここは清く引こう。
「ああ、そうですか。まあ、そんなところで納得しておきましょう」
「う、うん。ありがとう」
そんな言葉でこの会話は終わり。サッサと彼の部屋に荷物を置いて、レイは厨房へと向かう。やはり疑念は消えないままだが、仕方が無い。下手に干渉して、やけどでもしようものなら、自分以外にも迷惑がかかるのだから。
ともあれ、何とかなったな、とレイは心から安堵する。手先の震えは半端じゃないし、あの男の最後の一言に、震えが止まらなかったが、とりあえず何とかやり切った。
「いやぁ、怖いな、ほんと」
そう呟いて、レイは一杯の水を飲んだ。
──ヤマシタ・レイが異世界に召喚されてから早一ヶ月。今日は『来訪祭』を明日に控えた大事な日であった。
レイ達がビビる理由はそこである。 『来訪祭』──言ってしまえばこの世界における最高峰の祭りらしい。まるで『復活祭』みたいだな、と思ったが、レイは基督教では無いのでその規模を知らない。
ただ、世界最高峰の祭りとなれば、警備員が入ってくるのは至極当然の話。それが、MR.ムーンライト団である。初め聞いた時は、正直笑いそうになった。これは認めよう。いやだって、MR.ムーンライトに団を付けただけって、なんという安易さ(笑)である。
ちなみにそれを言うと、シンドロに『お前殺られるぞ』とガチの目で言われたので言わないことにしている。
と、それはともあれ──いや、ともあれではないか。少しそれと話は繋がってくるのだが、MR.ムーンライト団というのは、いわゆる自衛軍らしい。言ってしまえば公私の内の『私』の方。国からの直属と言う訳では無いそうだ。
しかし、その実績が違う。
比べている対象がいったい何かわからなかったが、彼らはそれの百倍の行動力と実績を有しているらしい。しかも、彼らが出来たのが千年前──つまりMR.ムーンライトが死んだくらいらしいので、歴史も深い。
つまり、国でさえ彼らに逆らうことはできないという訳だ。そして、問題は次からである。
「え?! あ、あんな間抜けな名前した連中がここの領主?!」
「──っ! お、お前殺られるぞ!」
「はっ! 危ない危ない。誰にも聞かれてないよね……」
とは、一週間前のレイとシンドロの会話である。
そう、彼らはこの始まりの村を──というらしい。この時初めて知った。何とも都合のいい名前である──含む土地の領主である。領地とか領主とかの制度は正直全く理解していないが、この村が属する国では、地方分権(?)が進んでいるらしい。
つまり、地域ごとの領主が、絶対的権力を持っているという訳だ。いやはや末恐ろしい。それは気に入られなければ速攻死刑とかそういうやつではないか。と、レイは思ったのだが、そこまででは無いらしい。しかし、死刑は無くとも、店を潰すことくらいは出来る。
というわけで、毎年『来訪祭』の直前直後は、店主が従業員達に、日頃の数倍気を付けるよう呼びかけるそうだ。初めは全く信用しない従業員達も、毎年一つは消える店を見て、こう自覚する。──この店を、守らなくては、と。レイにもそんな経験があった。
それはつい一週間ほど前のことである。ちょうど、レイがシンドロからその忠告を受けた頃だ。風呂屋からの帰り道、しょうもない話をしていたレイは、ふと啜り泣く声と暴言の数々を聞いた。驚いて、目を見開いた後、レイはそこに向かった。思えば、あの時シンドロが止めなかったのはそういう事だったのだろう。
レイがその場に到着した時には、全て終わってしまっていた。
一度この言葉を使ってみたいと思っていたが、まさかこんなところで使うことになるとは。驚きと情けなさに恥ずかしくなる。
──目の前で土下座し、必死に懇願する青年。彼の後ろでは幼い少年が一人、泣いている。母親の姿も見えない。父親の姿も見えない。そこには二人。それだけだった。
青年の目の前──そこには一人の少女が立っていた。レイと同年代くらいだろうか。薄い黄色の髪に、柔らかい緑の瞳。まるでアボカドのようだとレイは思った。
端正な顔立ちは、何処か冷たく、人間味がない。薄気味悪さだけだ。そんな少女が、冷たく暗い瞳で青年を見下している。そこに慈悲の念は皆無。ただ、虫けらを見るような瞳だった。
「残念ですが、これは自分の決定ではないので」
そんなふうに言って、少女はその場を立ち去ろうとする。それに、青年が組み付いた。足に絡み付いて、離さない。
「お、お願いします! ど、どうかどうかあと少しだけ──!」
「いや、だから自分の決定じゃないので、どうしようも出来ないんですよ。……あ、あの? き、気持ち悪いんで離してくれません?」
少女と青年の対話は、たったそれだけで終わった。いやそれは対対等な会話だったのだろうか。圧倒的な少女の圧が、青年を支配していたように思える。強者と弱者の対比がレイを更に怯えさせる。
だからその時、レイは動けなかった。聞いていた通りの世界に、レイはただ戦慄して、動けなかった。足が震えていたことは覚えている。あの時声を出していたら、どうしようもなく上擦っていただろうとも思う。けれどやはり動き出す勇気はなかった。だからレイは動けなかった。
やはりあの時一歩前に出るべきだったのかもしれない──いや、そうしたら今度はこちらが潰されていた。レイやシンドロには、この状況に対して何もすることが出来ないのだ。変えることの出来ない。否、変えてはならないのだ。そんなことを、その時思い知らされた。
だから、今もあの紋章を──満月の記された紋章を見る度、全身が震えてしまうのだ。怖くて怖くて仕方がなくて、どれだけ拭おうと汗が流れてしまうのだ。
──ちなみに、であるが。
あの少女が去ったその後、シンドロは彼らの元に向かった。その足取りは重く、一歩一歩に確実性を求めているように思えた。レイはそれをただ見詰めていた。すると、シンドロが涙を流す青年に手を伸ばした。
「大丈夫か?」
そんなふうな言葉をかける。
「そんなわけがないだろう! 家も店も何もかも無くなった! も、もう僕は終わりだ! ──シンドロさんには、わかりっこないですよ……」
そんなふうに涙を流す青年。それにレイはどうしようもないやるせなさを感じた。ふと、そんな時に青年の後ろにいた子供と目が合った。
「わかってる、オレには理解できないのは、わかってる。でもな、お前は大丈夫だ、チャート」
「な、何が大丈夫って──!」
「オレのとこで働け」
「────」
「住み込みでもいい。しばらく、再開店の目処が立つまでは、そうしろ」
「────」
「──いいな?」
「は、はい……」
そう言って、青年は──チャートは頷いて笑った。それに、レイは何の感情も抱けない。ただ、何故かその瞬間、何かしなくてはならないような気がして。レイは子供の方に駆け寄った。情けない走り方で、駆け寄った。
その少年は、泣いてはいなかった。泣いていると思ったのは、レイの錯覚だったらしい。きっとそれを求めていたから、そう見えたのだろう。情けない話だ。
まるで自分を鏡で写したようだと、レイは少年を見て思った。あまりにも現実を認識していない、その無垢な瞳は──しかしレイのそれとは違う気がして、一気に心が寂しくなった。
それでレイは思わず、その少年を抱き抱えた。それはまるで、寂しい心を埋めるかのようだった。──震える腕が、涙で濡れる。それはもちろん、レイのものだ。少年は、尚も呆然と立ち尽くしている。レイはそれが、たまらなく羨ましく思えた。震える手を、握りしめた。
……その時の震えは、ずっと続いている。ふと思い出す度に、心がぎゅっと締め付けられる。
けれど──、
「レイ兄! 今度はどうすりゃいい?」
「あー、そうだな。次は買い出しだし、一緒に行くか、ネイブル」
嬉しそうに笑う少年──ネイブル。それを後ろから微笑む青年──チャート。彼らは一週間で随分変わった。明るく、前を向き始めていた。その表情は本当に綺麗で、レイは思わずため息を吐いてしまう。それは羨望の息なのかもしれない。そんなふうに思う。
明るくなった、前を向くようになった兄弟。レイと全く同じように働いているはずの二人だ。だと言うのに、レイは──。
「どうしたの? レイ兄?」
「──ん。なんでもない」
笑って、レイはそう誤魔化した。手の震えは、尚も収まらない。自分の情けなさがどうにも悲しく思えた。淋しく思えた。
──それが、レイの震える理由である。




