1話 壱 『既読感』
今日の晩御飯、カレーだから──「だから」なんなのだろう。
いやもちろんその意味はわかり切っている。だが、やはり現実逃避したくなるのが実情だ。ここから続くカレー地獄──おそらく軽く一週間は超えるであろうそれにため息。彼の親指は返信への迷いと恐怖で震えていた。
ピコピコピコピコと、空中で親指を動かす。自分にとって迷いが顕著に出る場所は、どうやら親指のようだった。と、そんな馬鹿らしい考えの結果、彼は返信は適当で良いやという結論に至る。つまるところ、返信の内容は、
──了解。と一言。二文字。以上だ。
なんとまあ適当な。とは言え下手にこねくり回した応えでも面倒なことに極まりないし、おそらくこれが無難だろう。
もちろんその「面倒な」と言うのは自分も受信者もという訳だが。
そんな適当な二文字を入力し終えると、彼は送信ボタンを押した。人によってはあんなに緊張するそれが、身内に大してだと屁でもない。それは何だか当たり前の話だが何か矛盾点を抱えているような気がして──ただ、結論としては、人は人、家は家というわけである。それはもう結論になっていないしそもそも意味を取り違えている。
と、そんな阿呆な思考に、一つ風が吹いた。多分、風。そのはずだ──実はこれ一度言ってみたかった──とそれは良いとして、その風は妙に冷たかった。半袖の標準服には中々に沁みる。
確かに初夏はたまにこんな風が吹くとはいえ、今は夏も真っ只中の八月。塾なんて行っていなければ、今頃友達と海にでも行っているような時期だ。とは言えそんな友達がいるかと問われると中々に返答に困るがそれはいいとして。その妙な風が体を走った途端、彼はふとメッセージが未送信なことに気付いた。
どうやら電波が悪いらしい。会社名の横に表示された電波状況は零になっている。これは何かあったな、とここら近辺のWiFiスポットを考える。とは言えここは駅だから、そんなものあるのか──と、彼は顔を上げた。
「……はえ?」
素っ頓狂な声で彼は目を見開く。その視線は右往左往して、そこにある有象無象の全てを認識しようと働く。つまりその一瞬で眼球へかなりの負担があった。元からドライアイ体質なので、パチクリと何度か瞬く。ただ、それは無意識の話。有意識は既にそんな所に向いていない。言わば、心と頭が別の箇所を見ているという異常事態。
とは言えそれが当たり前と言えば当たり前なのだ。異常事態であれば、身体も異常事態になるに決まっている。エマージェンシーがさらなるエマージェンシーを引き起こすと言う事態。彼はそんな当たり前のことが当たり前には思えなくて、思わず頭を抱える──そこらでようやっと気付いた。
「はあ……マジか……」
天を仰ぎ、彼はそう呟く。言わば今までの言葉は全部現実逃避。恥ずかしい限りだ。彼は辺りを見渡し、ため息。それは白く色付いて空に登っていく。
──鎧甲冑を身に着けた人々、長いローブに背丈よりも高い杖を手にした人々、軽装だが、腰に剣を携え歩く人々、鍬を肩に担ぎ、談笑している人々、そして彼らの中を遊ぶ亜人の子供たち。
正直後ろから二つ目のは少し参考にならないが以上五つ、それが彼の驚愕の理由である。もちろん、初めはコスプレイヤーの大会的な何かに紛れ込んだのか? と現実逃避をした。
しかしそもそも自分は駅にいたはずだし、まずコスプレイヤーでここまで現実的なものは無いだろうと判断。次は目の錯覚を疑ったが、この規模だ。それもどうやら違う。
夢かと思えばドライアイ体質が残っているので違うし……と、数多ある可能性を一つづつ虱潰しに潰して行った結果、一つの答えに辿り着いた。とは言えそもそもそれが正解なことは確定だったのだ。何故って、
「こんな深々と雪が降ってるなんて、それ以外ありえないんだよな……」
とまあ、そういうわけである。そこに一応、こんなにも雪が──周囲一面が真っ白に染まるほどに──積もっているにも関わらず、寒さの度合いが軽いという点もプラスアルファ。よく見ると空にはバリアみたいなものがあるし、きっとそれで寒さが軽減されているのだろう。論理性皆無な思考である。
──ここまで理由が揃ってしまうと、もう認めざるをおえない。
これは、つまるところ──異世界召喚。ラノベでよくある奴だ。声に出せず、ただ心の中でそう呟く。彼は震えた肩を落とすと一言。
「カレー食いてぇ……!」
そう言ったら、白い息が大量に零れた。なんとまあ、都合のいいことであると、我ながら思った。
──
さて、と彼は近くのベンチに座ると呟く。もちろん小声でだ。それを大声で出したりなんかしたら洒落にならない。
あの召喚された場所から徒歩で一分。言ってしまえばすぐ側にあった広場のベンチで、彼は今座り込んでいる。
「なんともまあわかりやすい所に」
と、自分が召喚された位置を見て呟く。あんな所に突然人が現れたなら、みんな驚いて当然なのに……どうしてみんな冷たいのだろう。まあ、見知らぬ他人に優しくできる人間なんてそうそう居ないし、そもそも居たとしても疑いの目を掛けてしまいそうになる。そんな自分のひねくれた部分に呆れて、彼はため息を吐いた。
「マジなんで俺が」
首筋を撫でて、ため息を吐く。何ともまあ、在り来りなものだなと呟く。辺りを見渡してもやはりそこは異世界。何度瞬きしようともそれは変わらない。ため息ばかりが零れて仕方がない。
「ただなあ……在り来りなのは別にいいんだけどね……」
諸々の世界観は在り来りなものだ。正直殆どに既視感──否、既読感がある。少し、雪と言うのには違和を感じずにいられなかったが。
故に適応するのには困らないはずだ。まあマナー違反とか諸々まではわからないが、とりあえず雰囲気だけは大丈夫。
しかし、
「どうして召喚者が居ないのかね……」
どこを見渡しても、そう言った雰囲気の人はいない。レイはため息を吐く。
確かに、最近はそういったものが多い。召喚者不在の異世界召喚──昔なら有り得なかったそれが今ではとにかく多い。
そういった作品はやはり郡を抜いて面白かったり、奇抜な発想があったりして、読むこちら側からしてみれば大変興味深い。
ただ、それを実際にやられるとたまったもんじゃない。
いや勿論、召喚者を美少女にしてくれ! なんて事は言わない。
いやもしヨボヨボの老爺に召喚者されていたら、そんな思いが少なからず芽生えたかもしれないが、それはタラレバの話。とにかく、今は召喚者が必要だ。
「まあ、意思の疎通は多分大丈夫なんだろうけどな……」
遠くで聞こえる亜人の親子の会話。それも大体聞き取れたし、おそらくご都合主義的な奴が働いていると推測。
これで意思の疎通さえ取れなかったら最悪なので、まだマシということか。
何とか思考を楽観的に持っていこうとするが、やはりなかなか難しい。ではどうしようかと顎に手を添える。
と、
「……あ?」
何だか今日はヤケに『……』を多用しているなと思う彼の視界の先。そこに、アタフタと辺りを見渡す少女がいた。ジィーッとその少女を見詰めていると、唐突に目が合った。ギョッと目を見開いてパチクリ。目を丸くする。可愛い、と下心がペラリ。何とか頬を叩いて自制する。
と、少女がゆっくりとこちらに近付いてくる。だいぶ警戒されているようで、ノソリノソリと、重心を後方にズラしながら向かってくる。
「あの……すみません……」
少女は口を開いたかと思うと、杖を身体に引き寄せ、言葉を続ける──、
「え? もしかして召喚者?」
とその前に彼の声が被さる。自分で言うのもなんだが、興奮が抑えきれなかった。キョトンとした顔の少女。その間には沈黙が流れる。流れること数秒後、少女はやっとこさ口を開いた。
「いや、召喚者って言うのが具体的に何かわからないんですけど、とりあえず名前だけ……私は、ドワイトです。お見知り置きを」
そうペコリと頭下げ、少女はドワイトは杖を握り締める。ドワイト自身の身長を軽く超える長さの杖。それを纏う彼女の姿がローブであることも相まって、まるで魔法使いのようだ。と言うか実際そうなのだろう。一応ここは異世界だし。
「ああ、俺はヤマシタ・レイ。この場合レイ・ヤマシタの方が良いのかな、まあなんでもいいや。宜しく、ドワイト……さん?」
「いえ、呼び捨てで結構です。ただのしがない仙術師なもんで」
ペロリと舌を出し、ドワイトは笑う。美少女がやると凄いなと感嘆しかない。これを自分がやっても……とほとほと悲しくなる。
やはり異世界。辺りを見渡しても、見る人見る人みんなが美形だ。やはりそもそもの遺伝子が違うのだろうか……なんて思うが当たり前の話。違わない訳が無い。
と、レイの視線が右往左往としているうちに、ドワイトは舌を戻すと杖の先端で足を突き始めた。
コツコツコツコツ、プニプニプニプニ。とその姿はかなり奇妙だが、癖と言う認識でいいだろう。
と言うかそれ以外の認識は無理。何だか新しい分野が開けそうで怖い。
と、
「あの……一つ質問なんですが」
しばらく悩むような表情を見せていたドワイトはそんなふうに口を開いた。杖を抱きかかえ始めている。どれだけ不安なんだと突っ込みたい。
そんなふうに思っていると、ドワイトは固めた頬でこちらを見る。決意に揺らぎはないと言わんばかりに爛々と輝く瑠璃の瞳。ああ、月みたいで綺麗だなとレイは思う。
「その……もしかしたらあなたにとってこの質問はかなり奇妙なものなのかもしれませんが、私にとってもそうなんです。そのモヤモヤを解消したくて、問います」
何だか要領を得ない。しかし決意は揺らがぬようで、真っ直ぐとこちらを見詰めている。
駄目だ、目を逸らしそうで怖い。これで逸らしたら大恥だ。
ドワイトは一度息を吐くと、大きく息を吸い込んだ──深呼吸。それの逆を行い、大きく口を開いた。
「──どうして私の事が見えてるんですか?」
「はい?」
緊張で固まったドワイトの言葉。それに思わず聞き返してしまう。訳が分からなかった。この女はなにを言っている?
──困惑するレイを、ドワイトはただ疑念の目で見ていた。
よろしくお願いします