タクシーの男③
車が見えなくなるまでアパートの前で見送った。
手渡された名刺にはタクシー会社の名前と、川原宗次と書かれた運転手の名前があり、その下に会社の電話番号が書かれてあった。
部屋に戻ると直ぐに、ベッドに体を投げ出すように横になる。
時計を見る。
部屋を出てからまだ三十分しか経っていないというのに、既に気持ちは疲れ果てていた。
少し休んだあと、昨日作っておいた残りのサンドイッチとスープで朝食を摂りながら新聞を読んでいた。記事には、つい先日通り過ぎたらしい台風の被害が多くの紙面を使って報道されていたが、その他にも交通事故や放火、殺人など、痛ましい記事ばかりが目につく。
ため息をつきながらテーブルに新聞を置き、台所で食器を洗い洗濯機を回して部屋の掃除をした。掃除が終わると、昨日買ってきた干し物用のハンガーに洗濯物を干す。
時計を見ると丁度八時。世の中のお母さんたちなら朝の連続ドラマかワイドショーを見る時間なのだろうと思ったけど、テレビもないこの部屋ではそういう余暇も過ごせない。
昨夜は財布が見つかり、自分が保険証に記載されていた水川千重子であることが分かり舞い上がってそのまま寝てしまったけど、財布のほかにもまだなにか自分に関する物がないか引き出しを探してみた。
鍵があった。
女ものの可愛いキーホルダーが付いていたので、おそらく山梨にある私のアパートの鍵なのだろう。
ほかには、私宛の名前の書かれた厚い封筒があり、閉じられていない中身を見ると百万円の現金が入っていた。何故私宛にこんな大金が用意されてあるのか一切分からない。手掛かりになるようなことを書かれた紙は何もなかった。
お金の入った封筒を元の場所に戻して、いったい何のためのお金なのだろうと考えた。借金の返済金、旅行代金、賠償金、報酬……。
借金の返済なら普通は振り込みをお願いするはずだし、山岡と言う男の暮らし振りからみて借金は似合いそうにない。
二人で旅行をするか、結婚をするためのお金だとしたら、気が変わるなどして激しく喧嘩をすることも考えられるし、その結果山岡さんが逃げ出すことは有るかも知れない。
衣服や靴までも持ち去る理由はない。
賠償金なら払ってしまえばお終いで、これも逃げ出す理由はない。
報酬のためのお金なら、何となく理由が付けられなくはない。このアパート自体が山岡の住処ではなく、何か特別な意味を持つ仮の宿。そこで私は……急にゾクゾクと寒気がした。
私が思いついたのは、何らかの取引か、あるいは実験。
そして、その場合この私以外に誰も居ない部屋には、監視カメラが仕掛けられているはず。
そう考えると恐ろしくなり、部屋のどこかに隠されているかも知れない監視カメラや盗聴器の類を慌てて探した。
棚の隅々は勿論のこと部屋にあるコンセントタップのひとつひとつも、ドライバーで外して、そこから余分な配線が出ていないか確認する。何かの番組で見た記憶が確かなら、そのような装置には必ず電源がいる。そして、その電源は目立たないようにコンセントタップの裏側から目に付かないように配線されているらしい。
しかし、いくらさがしても、そのようなものは何一つ見つからなかった。
探し終わっても何も出てこなかったことに、安堵はなく不安だけが残る。
何が起きているのか分からない不安。
呆然と部屋の真ん中で座り込む。
ふと、本棚に目が行った。
その本棚にぎっしり並べられているのは全て私には何も理解できないような難しい科学や医学などの専門書。そう山岡聡一は生物化学博士なのだ。