タクシーの男①
翌朝は六時に目が覚めた。この時間に起きるのは私にとって早いのか遅いのかは分からない。
しかし一つだけ確かなことは、私にとって、水川千重子としての新しい朝だということ。
アパートの住人は今日も帰って来ていない。
歯磨きをして顔を洗い、服を着替えてコンビニエンスストアに新聞を買いに行った。とにかく自分に関係無いにしても情報が欲しい。
新聞を選び、ミネラルウォーターと飴を籠に入れ、お菓子を選ぶために真ん中の陳列棚を見ているとき、店に入ってきた男性に気が付いて驚いた。
入ってきたのは、昨日ドアフォンを鳴らしてドアを蹴り、通り過ぎる私の体を舐め回すように見ていたあのキツネ目の男だ。突然のことで怖くて隠れることも逃げ出すことも出来ずに、ただ見つからないように祈るだけだった。
男はイライラした様子で煙草を買うと、直ぐにアパートの方に向かって歩いて行った。
見つからなかったことにホッとする。
屹度、あの男はまたあの部屋を訪れるに違いない。そして、留守なので直ぐに引き返して来て、ここで煙草を吸って帰るのだ。
私は慌てて会計を済ませ、アパートには戻らずにコンビニエンスストアが正面に見える縦の通りを奥に走り、丁度電柱の傍に駐車していたワンボックスカーの陰に隠れて、あのキツネ目の男が帰るのを見張った。
ワンボックスカーの後ろのガラスは黒いスモークガラス。
だからコンビニエンスストアからは、その後ろの景色は見えない。
それに万一車が動いたとしても電柱もあり、そして電柱の奥は直ぐに曲がり角で、そこには私の背が隠れるくらいの高い塀があって身を隠したまま見張るには格好の場所だ。
携帯とか持っていると、ここで立っている間も目立たないだろうが、買い物袋一つでは我ながら少し怪しい。
暫くすると男は戻ってきた。男は私の予想通り、お店の前でイライラした素振りで煙草を吸い始めた。
他愛もない事だけど、こんな状況でも自分の予想が当たると、なんだか嬉しくなる。
“所詮キツネ目の男は狐、いくら人間を騙そうと企んでいても、こっちが油断しなければそう簡単に騙されはしない”
別にキツネ目の男が、私を騙しに来たのではないとは思うが、勝手にそう考えながら見ていると可笑しい。
ところが次の瞬間、急に男の視線がこちらに向いた。
一瞬動揺したけれど、後ろのガラスは黒いスモークガラスなので見えるはずもない。
ところが、車の影に隠れて見ている私と、タバコを吸いながらこっちを見ているキツネ目の男との視線が、ピッタリと合っている。しかもそれは一瞬目が合うだけではなく、私が耐えられなくなるくらい長く。
咄嗟に後ずさり、後ろの電柱の陰に隠れたが、まだ男は私を見ている。
追いかけて来て捕らえられてしまう恐怖に、逃げ出せずに固まっていた。
暫くそうした時間が続いたあと、キツネ目の男は私をあざ笑うように口角を上げ、口から煙草を離すとそれを道端に投げ捨てて、駅のほうに向かって歩いて行った。
キツネ目の男が去った後も、その場を動けずにいた。
再び戻って来ないとも限らない。そう思うと怖くて動けなかった。五分経ったか十分経ったか分からない。ただ、この場でコンビニの前の道を電柱の陰から見張っていた。
「あの……」
急に背中越しに声を掛けられ飛び上がるほど驚き、そして後悔した。私の隠れている場所を知っているのなら、わざわざ直ぐに気付かれる正面から来る必要はない。疚しい心の持ち主なら、寧ろ回り道をして背後から忍び寄るのが普通ではないだろうか。
とっさに逃げようとした私の体は目の前の電柱に阻まれた。そしてその前にあるワンボックスカーが狭い住宅の塀伝いに逃げるスペースを阻んでいる。自ら選んだこの場所が逃げ道を閉ざしていた。