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男の部屋⑥

「ただいまー」

 またアパートのドアを開けたが、中には誰も居なかった。

 直ぐにキッチンに立ち野菜サラダとオードブルを作ってラップして冷蔵庫に入れ、あとはスープとサンドイッチを作り、その一部を自分用の夕食にして食べた。

 押し入れにアイロンが有ったので昼間に洗濯したワイシャツとシーツにアイロンを掛けてシャツはクローゼットのハンガーに掛けておいた。

 ベッドはまだ少し湿っていたので、今日洗ったシーツは敷かずにエアコンを除湿運転にしておいた。

 財布からレシートを取り出して今日使った分と持ち出したお金、それに残金を買ってきたノートに記入してレシートをクリップで挟んだ。

 用事らしいものが大体終わった頃には、時計の針は深夜一時を指していた。もう終電は終わっているので、これから帰って来るならタクシーだろう……。

 男が私の衣服を持ち去ったのは明らかだったけど、その他の物も全て持って行ったのだろうか?他人の部屋や、引き出しを探るのは良くないことだと分かっていたし抵抗もあったが、これだけは調べておかないといけない。

 机の引き出しの中には、この部屋の主らしい男の運転免許証と勤め先らしい社員証があった。運転免許証には原付から大型特殊まで取得できる全ての免許の欄にチェックの印が付いていた。

 社員証には『創造科学研究所、生物化学博士、山岡聡一』と大変な肩書が書かれてあり、そのどちらのカードにも整った顔立ちの若者の写真が貼られていた。

 切れ長の目は鋭く印象的で、どこかの歌舞伎役者みたいに見えたが、善良な市民という面影はなく、野心家という印象を受けた。

 山岡総一の生年月日は平成元年四月二十八日と記載されていた。しかし記憶を無くしている私にとっては困ったことに平成元年の人が今何歳なのか分からない。

 昼間に行ったスーパーで、九月十一日と言う月日だけ分かっただけではどうにもならない。

 だからと言って、外に出て見ず知らずの人に「今は平成何年ですか?」と聞くのも変だ。

 あいにく、この部屋の住人は新聞を取っていなかったし、部屋にはテレビもない。パソコンはノート型とデスクトップ型の二台があったが、どちらともスイッチを入れるとパスワードを入力しないと動かないので諦めた。

 なんとなく勝手にパスワードを打って、それが間違いだった時に爆発してしまう。そんなサスペンス映画の様なシーンが頭に浮かぶ。

 買い物の時にもらったレシートを見ると、2019年と西暦で記載されているので西暦と年号の相対関係が分からないのでは話にならない。

 二段目の引き出しの奥に女性用の長財布が包装紙に包まれていた。

 どこかの有名なブランド物の財布なのだろう洒落た絵が内側に印刷された私好みの財布だった。財布のカード入れには保険証があり、そこには水川千重子という名前が書かれ、下には生年月日、資格取得日、世帯主、それに住所が書かれてあった。

 水川千重子は平成九年六月生まれだったので山岡総一より9歳年下になる。世帯主の欄にも水川千重子と書かれてあるので一人暮らしなのだろう。住所は山梨県の知らない街が書かれていた。

 その他には交通系ICカードと銀行のキャッシュカード、それに現金が二十万円もあった

水川千重子の名前と生年月日が分かると、もしかしたら私がその水川千重子なのではないだろうかと思い、妙に興奮してきた。

 しかしレシートは西暦なのに、運転免許証も保険証のどちらも西暦ではなくて年号で記載されている。

 ふと、アパートの一階に共同のゴミステーションが在ることを思い出した。

 もしかしたら、そのゴミステーションに回覧板のような張り紙があるかも知れない。そしてそれに年号が記載してあるかも知れない。

 新しいサンダルを履いて一階のゴミステーションに向かう。そこには予想通り本年度版の使用規約や収集日の書かれた紙がパウチされ貼り付けてあり、そこにはH30年と記載されていた。Hという記号が平成を指すなら、あの部屋に住む男は30歳で、私は21歳と言うことになる。

 私は階段を駆け上がり部屋に戻ると直ぐに姿見の鏡に自分の姿を映した。

 鏡の向こうには、保険証の持ち主である水川千重子に相応しい瑞々しい体が映っていた。

“屹度、私は水川千重子なのだ”

 そう思うと、嬉しくて体の芯から熱いマグマが噴き出してくるようで止められない。自分の名前がこんなにも凄いエネルギーと希望を持っているなんて思いもしなかった。

 水川という苗字を付けてくれたご先祖に、そして千重子という名前を付けてくれた両親に感謝したい。感動の高まりを押さえられなくてベランダに出た。

 今、目の前に見える街の中に私、水川千重子が居る。

 それは、当たり前のようでもあり、ある種の奇跡のようでもある。

 名前を知っただけで急に生きている喜びが満ちてきた。

 目の前の町並みから向こうの町並みを見ると、暗い闇の中に幾重にも重なる建物がどこまでも果てしないように続き、やがてそのいちばん奥のほうで永遠に果てしない夜空と重なり無限に広がっている。

 街並みを眺め夜空を眺め、そして自らを眺めているうちに、だんだんと心が落ち着いて来る。

「水川千重子」

 小さな声、しかし確りとその名前を呼んでみる。

 中秋の心地好い風が、私の頬を撫でるように流れて行った。

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