男の部屋③
このままここで待っていても、財布を持っていない私は自分のアパートに戻れないし、こんな変な格好で昼間の街を歩くのは恥ずかしい。
どうしても私の衣服や財布を返してもらう必要があるから、怖くても男に合わなければ何にもならない。
幸い通勤通学の時間帯に差し掛かり、人通りが多くなってきたから、部屋のドアを開けて中から男が出て来たら大声をあげて助けを呼べば何とかなりそうな気がしてきた。
覚悟を決めて階段を上る。
部屋の前まで来て、いざドアノブに手を掛けようとした時、また怖くなって躊躇ったが目を閉じて深呼吸をしたあとで思いっきり強くノブを回してドアを開けた。
ドアを開け放したまま、中の様子を窺う。
なにも物音がしないので、恐る恐るゆっくりと中に入ってみると、そこには誰もいなくて私が出ていった時のままの散らかった部屋があるだけだった。
男が居ないことが分かると急に緊張が解けて腰を抜かすように玄関でしゃがみ込んでしまい、そのまま部屋の中を眺めた。アパートとはいえ二十畳くらいの広いワンルームで築年数もまだ若いのだろう。
白い壁もフローリングの床も新品の様に綺麗で、駅に近い場所なのだろう電車の音と共に駅のアナウンスの声も小さく聞こえてきて妙な懐かしさを感じた。
そう言えば、私はこの部屋に何度も来たような気がしてきた。
それは台所の換気扇のスイッチを場所も確認しないで入れたことや、普通にシャワーを浴びたこと。知らない家だとボディーソープやシャンプーやコンディショナーは、いちいちラベルを確認しないと分からないはずなのに自然に使っていた。
“何故!?”
そしてここの住人は、何者?
ドアに凭れ掛かるように座ったまま考えていた。
背中が少しだけドアに隙間を作っていて、会社に向かうのであろう、廊下を通るビジネスシューズの音がカツカツと冷たく尖った刃物の様に私の心を刺した。
私は心臓が切り裂かれるような恐怖を感じ、慌てて立ち上がりドアをキチンと閉め、そこにチェーンロックを掛ける。ホッとすると同時に、何故か急にモヤモヤとした妙な気持ちに包まれ部屋に立ち尽くしていた。
今まで、男への恐怖に支配されていたが、肝心なことに漸く気が付いた。それは……。
私は何処へ帰れば良いのか?
そもそも、私は誰なのか?
ここに連れて来られるまでの、一切の記憶が無いことに気が付いた。
幸い殴られたり蹴られたりといった暴力を受けた形跡はなかった。
薬の副作用による一時的な記憶喪失かも知れない。
兎に角私に関する手掛かりがここにまだ残されているのか、それともこの部屋の男が私の衣服などと共に全て持ち去ってしまったのか。念入りに部屋を調べれば自ずと答えは出てくるだろう。それに男が帰って来た時、直に聞けば分かるだろう。
私が誰なのか、どこから来たのか、何故記憶を失っているのか、そしてこのアパートに住む男との関係も。
その全ての鍵を、男が握っている気がした。
私はもう逃げないで、このアパートの住人と対決する決意を固めた。