タクシーの男④
山岡と私が、どこで知り合い、どういう間柄であったかは分からない。だけど、もし彼の研究……いや実験材料として私が協力したとするならば、これまでの不条理なことは全て解決するのではないだろうか?
つまり、一時的に私の記憶を奪い、その私がどのような行動をとるのか観察する。
部屋には監視カメラは無かったけれど、山岡聡一は屹度どこかで……嫌、何らかの手段を使って私を監視しているのに違いない。衣服を奪ったのも恐らくそのためだろう。前の衣服が残っていると新しい感性の邪魔になる。
ある決められた期間、私の記憶を奪い、観察した後に彼は現れ、そしてこう言うのだ。
『ご苦労様。それでは約束通り記憶を元に戻してあげるね』と。
そして私は元通りの水川千恵子として、この報酬を頂戴し今までの生活に戻って行く。
自分で勝手に考えてみたストーリーに、まるで有名な探偵小説の主人公になったように頭が冴えていると思った。そう思ったとき、急に頭の中で稲妻が走るような閃きがあった。
さっきのタクシー運転手の名前。
もらった名刺を確認する。
名刺に書かれたその名前は『川原宗次』
そしてこの部屋の男の名前『山岡聡一』
確か赤穂浪士が暗闇で敵味方の確認のために使った合言葉が「山」と言えば「川」と答えるはず。山の麓に岡があるなら、川の傍には原っぱだろう。そして下の名前も「聡一」に対して「宗次」
山岡聡一の写真を見たときに、その切れ長の目が印象に残った。タクシーの運転手はサングラスをしてその特徴的な目を隠していたし、アパートまで送ってもらった時も私がキツネ目の男の幻影に囚われて車がアパートの真横まで来ても気付かなくて慌てて場所を言ったとき、車は既に止まる用意をしていたようにスムーズに停まった。
つまり運転手は、私に言われるまでもなく停車する場所を知っていた。
そう。あの川原宗次こそ山岡聡一かも知れない。
聡明な山岡なら、あの時キツネ目の男が私に気が付いた理由が分かるかも知れない。
そう思うと、部屋を出て近くの公衆電話に向かって、貰った名刺に書いてあった番号を押していた。
私のような凡人なら、そのトリックは分からない。
そして生物化学博士の称号を持つ、聡明な山岡なら屹度即座に応えてしまうのではないかと思った。
つまり、あのタクシーの運転手川原宗次が答えられたら、それは山岡である可能性が高いということ。
数回のコールで直ぐ川原さんは出た。
「ハイ。○○タクシー川原です」
まるで思い立ったまま行動してしまい、どのように話を切り出すかなんて全く考えていなかった。
「車の手配ではなくて、少しお聞きしたいことがあるのですが、いま大丈夫でしょうか?」
仕事の邪魔になるのなら諦めようと思ったが、川原さんは気さくに「あー大丈夫ですよ。いま品川駅に並んでいますから、僕がお客さんを拾うまで、まだまだ時間は掛かるでしょうから」と言ってくれた。
「実は、今朝の事なんですけど――」
そう言って、今朝電柱に隠れるようにしていたのが、体調不良ではなくて、怪しい男から隠れていたことと、その男が何故か隠れて絶対相手から見えないはずの状況で私を見ていたことを話した。
川原さんは、まず体調不良でなかった事を安心してくれたうえで、最近東京ではストーカー被害が増えていることを心配してくれた後に、怪しい男に気付かれた理由も、いとも簡単に答えてくれた。
「それは屹度、カーブミラーですよ」
「カーブミラー?」
「そう、住宅街の路地にはカーブミラーがよく設置してあります。あの路地もそうでした。そして貴女が隠れていた車は、その路地ギリギリの所に止めてありましたから、その後ろの交差点に近い方に隠れている貴女はそのカーブミラーに映るんです。つまり、その男は貴女を直接見ていた訳ではなくて、カーブミラーに映った貴女を見て、実際に居るはずの位置を見ていたのでしょう」
川原さんは、そう言ったあと「とんだ、頭隠して尻隠さずって奴ですよ」と笑っていた。
そして、そのアパートが仮の住まいだとしたら、ストーカーと接触してしまう前に、本当の家に戻る事です。と付け加えた。
お礼を言って電話を終えた。
迂闊だった。
隠れたつもりの自分の後ろ姿を見られていたなんて。
あのキツネ目の男からすれば、さぞや滑稽だったことだろう。
公衆電話の扉を閉めて、アパートの階段を登り、部屋のドアに手を掛けたとき漸く気が付いたことがある。
それは、川原さんが最後に言った言葉。
『そのアパートが仮の住まいだとしたら、ストーカーと接触してしまう前に、本当の家に戻る事です』
私は、このアパートの事など、何一つ話していないと言うのに……。




