Ⅷ 診療所
柔らかい木の香りが充満する診察室は、どこの『診療所』でも一緒だ。
幸い『人形師』は中年の優しい男性で、私にいくつか質問をした後、お兄ちゃんを診察台へ寝かせた。
「うーん…とりあえずは片目だけ交換しようか」
それ以外の場所は実際に診てから決めよう、と私に向かって言いつつ、たくさんある壁の引き出しから紫色の部品を探し出す。
「…お兄ちゃん、準備は大丈夫?」
「俺は何の準備も必要ないだろ」
「それはそうだけど…心の準備とか」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
お兄ちゃんと小声で話していると『人形師』が「もういいかい?」と尋ねたので、私は慌てて頷いた。
「は、はい!」
私はお兄ちゃんの顔へ手を伸ばして目蓋を閉じるよう促し、それから囁くように強制スリープの呪文を唱える。
「お兄ちゃん、いくよ…『おやすみ』」
その瞬間、お兄ちゃんの身体からは力が抜けて急速に温もりも失われていく。
それを見た『人形師』は、改めてお兄ちゃんの腕を持ち上げて強制スリープ状態にあることを確認すると、私に向き直って安心させるように微笑んだ。
「はい、ありがとう。頭開けるからちょっと時間かかっちゃうけど大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「待合室で待ってる?」
「いえ、温泉に行こうと思ってたんですけど…私、いた方がいいですか?」
「ううん、大丈夫だと思うよ。もしかすると他の部品も交換するかもしれないから、それだけ確認しておきたかったんだ」
「あ、はい。どこか悪い場所があるようだったら、交換をお願いします」
「分かった。じゃあ、徹底的に検査しようか」
「よろしくお願いします」
私は小さく頭を下げてから、ちらりと今は意識のないお兄ちゃんへ視線を移す。
「心配?」
さすがというべきか、『人形師』は私の視線が一瞬さまよったのを見逃さなかった。
「あっ、いえ、そういう訳じゃ…」
「いや、いいんだよ。心配するなっていう方が無理だ。自分の半身を他人にいじられるんだから」
私から不安を取り除くように優しく微笑みながら語りかけてくる。
「えっと…どちらかと言うと、心配とか不安というよりは落ち着かない、です…」
私は返答に困って、曖昧な苦笑いでごまかした。
『人形師』もそれ以上は追及せずに「多分…そうだなあ、全身検査となると二時間くらいかかっちゃうと思うから、ゆっくり温泉につかってくるといいよ」と、私に背を向ける格好で明るく言いながら、てきぱきと必要な道具を並べていく。
「分かりました。じゃあ、そのくらいの時間で戻ってくるので、よろしくお願いします」
私は再度頭を下げてから、木の香りで満たされた診察室を出た。
誰もいない待合室を通り抜けて、受付にいた女性に行き先と帰る予定の時間を告げる。
「あら、温泉に行かれるんですか?」
「あ、はい」
「だったら…そうですね」
そう言って立ち上がると、女性はわざわざ市街地の地図を取り出してきて広げ、すっと整えられた指先で迷うことなく一点を指した。
「温泉ならここ、ここがおすすめですよ」
「はー…温泉なんてひさしぶり」
平日の昼間ということもあって、私以外にはお婆さんが一人いるだけ。
最近の宿泊先では狭い浴室が続いていたので、ここでは思い切り手足を伸ばして広々とした浴場を堪能する。
「んー、気持ちいいー…」
お湯が少し熱くて肌が赤くなってしまったけれど、その分寝落ちの心配はないし頭もスッキリとした気分だ。
「《美肌の湯》っていわれると反射的に行きたくなるのは女心ってヤツかなぁ…」
最後はぶくぶくと湯に沈んでいった独り言。
「…いつか、お兄ちゃんと一緒に来られたらいいな」
その願いを叶えるため、私達は旅をしている。
そのためには、少しくらい夢見が悪くても我慢しなくちゃ。
「…あんまり長湯してのぼせても困るし、そろそろ出ようかな」
ぱちんと軽く両手で挟むようにして頬を叩き、気持ちを切り替える。
「まだ先は長いんだ、頑張らなきゃ」
湯船へと注がれる温泉の音にかき消されるほど小さな声で自分を鼓舞すると、私は湯から上がって先客のお婆さんに軽く会釈をし、手早く身支度を整えた。
「綺麗になったお兄ちゃんを迎えに行かなきゃね」
鏡の中の自分に言い聞かせるようにして、にっこりと笑顔を作る。
「さて、どんな風になってるかな」
私は足取り軽く『診療所』へ向かった。
「若干退色していた右目は新しくして、それ以外は右肘関節と両膝の関節に摩耗が見られたから、そこを新しくしておいたけど…確認してみてくれる?」
「はい、分かりました」
『人形師』に言われるまま、私はいまだ診察台で意識を失っているお兄ちゃんへ近づいていく。
「…お兄ちゃん、『起きて』」
私の言葉に反応して、お兄ちゃんの指先がぴくりと動いた。それからゆっくりと体温が戻り、お兄ちゃんが目を覚ます。
「…おはよう、お兄ちゃん」
「あぁ…おはよう」
私と違ってお兄ちゃんは目覚めがいい。
「『診察』、終わったよ。今回は目だけじゃなくて右肘と両膝の関節も交換してもらったから、ちょっと動かして確認してみて」
「分かった」
そう言うと、横になっていたお兄ちゃんは上体を起こして診察台に座り、右肘を回してみたり足をぶらぶらさせてみて、一通り動くことを確認する。
「…よし、問題はなさそうだな」
「それは何よりだ」
それまで椅子に腰掛けて私達のやりとりを眺めていた『人形師』が、ほっとしたように笑みを浮かべて言った。
「ありがとうございました」
私がお兄ちゃんの隣で頭を下げると、『人形師』は手を顔の前で左右に振って謙遜する。
「いやいや、僕は自分の仕事をしただけだから」
「でも助かりましたから…これからも『長旅』になりそうですし、足の『診察』をしていただけて良かったです」
「『長旅』?どこか旅行に行くの?」
うっかり『長旅』なんて言ってしまったせいで、『人形師』に聞き返されてしまった。
『人形師』相手に嘘が通じるとは思えず、私は諦めて告白する。
「…ガラテイアの森に行くつもりです」
途端、『人形師』の顔から笑みが消えた。
「ガラテイアの森、か…そうか、ガラテイアの森…」
何かを模索するように口の中で何度も呟きながら、数回とんとんと指先で机を叩く。
「んー…あんまりおすすめはしないけど、行きたいなら無茶しない程度に行っておいで」
今までの『人形師』は否定的な人ばかりだったから、私は思わず聞き返していた。
「…止めたりしないんですか?」
「それは僕が決めることじゃないし、本人が自主的に何かをしたいって思ってるなら、それに任せるのもありだと思ってるから」
だから僕は止めないよ、と最後に付け加えて、『人形師』は笑った。
『診療所』を出た私達は、街のメインストリートを歩く。
「なんか、すごい大らかというか…優しい『人形師』だったね」
「そうだな、腕もいいし」
「まだまだ旅は続くからね、『診察』できる時には、なるべくちゃんとやっておかないと」
「俺は壊れても何とかなるけど、生身のお前はそうもいかないだろ。ちゃんと自分のことも考えろよ」
「分かってるよ、だから長旅なんじゃない」
最短ルートなら、ガラテイアの森まで一ヶ月半あれば辿り着けるだろう。
けれど比較的安全な街を経由している私達は、街の間隔が離れている時に乗合馬車に乗るくらいで、基本的な移動手段は徒歩だ。
「私だって疲れたら休むよ。次の日動けなくなったら困るし」
「そこは安心しろ。最悪、俺が運んでやるから」
「いい、遠慮しとく。肩に担がれそうだし」
「あ、ばれたか」
わざとらしく肩をすくめてみせるお兄ちゃんに溜息が出る。
「はぁ…やっぱりね」
「冗談だよ、ちゃんとお姫様抱っこしてやるから」
お、お姫様抱っこ!?
想像しただけで顔が真っ赤になりそうだ。
「…荷物どうするのよ」
動揺を悟られないよう、わざと不機嫌な時ぐらいまで声のトーンを落とす。
「んー…無理か?」
「無理でしょ」
嬉しいけどやっぱり恥ずかしいので、希望も可能性も潰しておく。
「…さてと、お喋りはこれくらいにして、そろそろ出発しようか」
「昼飯は?」
「適当に何か買って歩きながら済ませるよ、時間勿体ないし」
「お前がそれでいいならいいけど…まぁ、夜までに着かないと危ないのは事実だし、仕方ないか」
どこか納得がいっていないというような表情のお兄ちゃんを見上げる。
「…ん、どうした?」
訝しげに私を見返すお兄ちゃんに「何でもないよ」と笑って返し、私はスキップでもしそうな勢いでおいしそうなパン屋を探す。
「やっぱりアイシングのかかったドーナツは外せないよねー」
だったらドーナツ屋へ行け、という声が後ろから聞こえてきたけれど、それは無視してどんどん進む。
私は、振り返らない。