Ⅴ 左目の記憶
俺の左目はガラス玉だ。
あいつにとって大切な、すでに他界した祖母との思い出が詰まった品。
何かを見る事は出来ないけれど、そこら辺にあるようなただのガラス玉じゃない。
光によって色が変わる、変色ガラス。
あいつはこれを俺の『核』にした。
だから俺は、前髪で左目を隠している。
外から見える場所に『核』があるというのは、誰かの悪意によって壊される危険があるからだ。
『核』の破壊は繋がっている『マスター』の精神崩壊を意味し、すなわち『マスター』の『収容所』行きは免れない。
『収容所』というのは、俺みたいな『ペア』を持つ事さえ出来ない程に精神に異常をきたした人間を管理する場所の事だ。
ガラテイアの森へ行ったまま戻って来ない人間というのは、おそらく森で待ち構えているという試練に耐え切れずに『収容所』へ送られてしまったのだろう。
単純に、ガラテイアの森に行けばそれでいい、という訳ではないのだ。
森では人間にとって難しい試練が待ち構えているといわれている。それでも、めでたく『ペア』を人間にする事が出来たという先例をいくつか耳にした事はあるから、俺が人間になれる可能性は少なからずあるかも知れない。
あいつはそちらに賭けた。
だからこそ、時折過去の悪夢に苛まされながらも、ガラテイアの森を目指すのだろう。
俺も普通の『ペア』と同じように、『デュオ』になったばかりの頃は全く理解できず、ただ現象として眺めるだけだった人間の「感情」というものが、最近はあいつの思考と一緒に分かるようになってきた。
十年という長い月日をかけ、最初は『核』に刻まれた記憶と知識しか持たずクオリアを持たなかった俺は、あいつのおかげでたくさんのクオリアを獲得して、今では自然と「感情」が芽生えるようになった。
ただ、あいつの見ている世界や感情を共有するというのは、最初苦痛の連続だった。
寂しい、怖い、痛い…そんな負の感情ばかりが流れ込んでくる毎日。
それでも俺はあいつの『ペア』として傍にいなければならなかったし、でなければ俺の存在する意味がない。
『マスター』の心が壊れないようにするため、『ペア』は存在する。
俺は鏡に映る自身のオッドアイを見つめ、ほんの少しだけ懐かしく思う。
俺が『ペア』として来たばかりで、まだ『デュオ』としてぎこちなかった頃、あいつは俺とどう距離をとっていいのか分からず敬語を使っていたっけ。
そして、だんだん敬語が抜けて砕けた話し方になってきた頃、俺は覚えたての数少ない感情に突き動かされるまま、人を殺しかけた。
ある意味、『デュオ』として繋がっている『ペア』は『マスター』の感情に忠実だ。
あの時はあいつに止められて未遂に終わったが、止められなければ確実に殺していた。
それほど、この感情は激しく屈折していた。
『どうせ殺すなら私を殺して』
泣きながら俺を抱き締めるあいつの感情が理解できず、俺は訊いた。
『お前の苦痛の原因を消去するだけだ、何の問題がある?』
『駄目なの、それじゃ駄目なの…』
その時流れ込んできた感情は複雑に絡み合っていてよく理解できなかったけれど、根底にあったのは「愛されたい」という、殺意とは真逆のものだった。
今、こうしてガラテイアの森へ向かうと決めたのは、あいつなりの決別なのかも知れない。
俺を人間にしたい、とあいつは言っているから、当然それもあるだろう。
けれど、執着していた「愛されたい」という感情を捨てて旅立つ日の朝、あいつは少しだけ泣いていた。
それを考えると、この旅は果たして本当にあいつのためになるのか、俺は今でも迷っている。