Ⅳ ブラインド・ドール
旅の途中、知人の住む町の近くへ泊まった。
折角だから久しぶりに会って話がしたいな、と思った私は、本来のルートからは少し外れるけれど、そんなに遠回りをする訳ではないので一応お兄ちゃんに訊いてみる。
「ちょっと寄りたい所があるんだけど、いいかな?」
「いいけど…まさかアイツに会いに行くのか?」
「そうだけど…嫌?」
「嫌って訳じゃないけど…」
お兄ちゃんは渋い顔をしながら言葉尻を濁した。
「しばらく会ってなかったから、元気かどうか様子見たいだけだし、そんなに長居するつもりはないよ?」
駄目かな?と問いかけると、しばらく思案顔で何か考えているようだったお兄ちゃんが、ようやく口を開いた。
「…分かった、お前の好きにしろ」
何だかんだ言っても、心配性なお兄ちゃんは私に甘い。
「うん。ありがと、お兄ちゃん」
これから私が会いに行こうとしている彼は、親名義の別荘に彼の『ペア』と二人だけで住んでいる。
いや、正確には「隔離された場所で監視されている」と言うべきかも知れない。
彼も色々あった結果、私と同じように『デュオ』になり、でも彼は決して『ペア』を表に出さなかった。
というより、出せなかった。
「ごめんね、突然来ちゃって」
すすめられたソファーに座りながら、事前に連絡しておけばよかったね、と改めてそう謝ると、彼は頭を振って笑った。
「ううん。確かにびっくりはしたけど、うちにお客さんなんて滅多に来ないから嬉しいよ」
だから気にしないで、と続ける彼の隣には、静かに彼の『ペア』が座っている。
その姿は以前と変わらず、黒いレースで目隠しをされたままだ。
「最近どう?元気?」
彼の『ペア』をちらりと盗み見ながら、私は無難な質問を投げ掛けた。
「うん、元気だよ…オリンピアも、ほら」
彼が『ペア』の手をそっと撫でると、それに促されるようにして「オリンピア」と呼ばれた『ペア』が私達に挨拶をする。
「本当にお久しぶりです。お二人にお会いするのはいつ以来でしょうか…お変わりないようで何よりです」
淀みなくそう言うと、「オリンピア」は柔らかく口角を上げて微笑んだ。
彼が『ペア』を外に出さない理由、それがこれだ。
彼は『ペア』に固有人名、つまり名前をつけてはいけないという禁を犯してしまった。
その上、『ペア』に目隠しをして視力まで奪ってしまったので、もう外に出せる訳がない。
彼の『ペア』は、この家の中で飼い殺しにされている。
初めて彼の『ペア』を見た時、彼は私に「世の中は汚いものだらけだから、彼女がそんなものを見なくてすむようにしたんだ」と言った。
それから、愛情を込めて傍らにいる目隠しをされた憐れな『ペア』に「…ね?オリンピア」と囁いた。
いつから「オリンピア」の視界が閉ざされているのかは分からないけれど、おそらく名前をつけてしまった時から、彼はこの別荘という家に軟禁されたんだと思う。
外出は最低限にとどめ、「オリンピア」の存在はひたすら隠して生活する。
それでも幸せそうな彼は、むしろこれが何の邪魔も入らない楽園だと思っているようだった。
思い切って私は訊ねる。
「変な事訊くようだけど…今、幸せ?」
彼はきょとんとした顔をして、それから笑いだした。
「ふふっ…うん、幸せだよ。だって…」
その続きは言われなくても分かる。
『…オリンピアがいるから』
本当に幸せそうに言った彼に、私は何だかやるせない気持ちになった。
「君は幸せじゃないの?」
思いもよらぬ彼からの質問に、私はどう答えるべきか迷う。
「んー…それなりに幸せだとは思うよ」
当たり障りのない返答に、数秒、会話が途切れる。
「私ね、ガラテイアの森に行こうと思ってるの」
ガラテイアの森、と聞いた途端、彼の顔色が変わった。
「ガラテイアの森?!そんなの危ないよ!」
ほんのわずかに非難が混じった声で反対される。
「うん、分かってる」
「望みを叶えて戻ってきた人なんかほとんどいないんだよ?それでも行くの?」
念を押すように私の覚悟を問う彼は困り顔で、その瞳には心配の色が見えた。
「うん。私、決めたから」
「そっか…」
重苦しい沈黙の後、先に口を開いたのは彼だった。
「これが今生の別れにならないように祈ってるよ」
ガラテイアの森へ行くと言って森へ入ったまま行方不明になる人間は多い。噂では、そのほとんどが『収容所』に送られるという。
予想外の応援の言葉が、何だかくすぐったかった。
「…ありがとう、そんな風に言ってくれて」
私をちゃんと理解してくれる人なんて、多分お兄ちゃんと彼ぐらいだ。
「本当に行っちゃうの?」
彼は悲しげに眉間に皺を寄せ、気遣うように私を見る。
「うん…でも大丈夫。何とかなるよ、きっと」
私も、彼みたいに『ペア』を閉じ込めてしまえば幸せになれるのかも知れない。
でも、私はガラテイアの森へ行くと決めた。
お兄ちゃんを人間にして貰って、もう未来について心配しなくてすむように。
「じゃあ、行ってくるね」
ばいばい、と私はなるべくいつもと同じように明るく手を振る。
「うん、気をつけて。無事に帰ってきてね」
手を振り返す彼に笑って見せてから、私は前を向いた。
「…本当に短かったな」
歩きだしてすぐ、お兄ちゃんがぼそりと呟く。
「長居しないって言ったでしょ?」
「まぁな」
ぽん、と軽く手を乗せるようにして頭を撫でられる。
「ん、何?」
「…何でもない、気にするな」
見上げたお兄ちゃんの表情からは何も読み取れない。
「…何それー」
釈然としない気持ちを隠す事もせず、私はぶーぶーと文句を垂れる。
それでも私は、例えお兄ちゃんや知人が反対しようと、ガラテイアの森を目指して歩みを進める事を止めるつもりはない。
ガラテイアの森に行けば、きっと私なりの幸せが見つかると思うから。