Ⅲ 日常の憂鬱
こまごまとした物を買って店から出た途端、またか、と思った。
贔屓目かも知れないけれど、お兄ちゃんは格好良い方だと思う。
だから偶にこういう風に女の人から声を掛けられたりするんだけれど、私はいつもどうやって割って入れば良いのか解らなくて困ってしまう。
でも、大抵はそうやって私がおろおろしている間にお兄ちゃんが私に気付いて自分で切り抜けてくるのに、何だか今日は様子が違った。
お兄ちゃんと視線は合っているのに、相手が食い下がっているのかなかなか戻って来ない。
こうなったら仕方がない、私から声をかけるしかないかな。
「…あの、すみません。彼は、その…私のデュオです」
女の人は大して驚いた様子もなく私を見た。
「あら、可愛いお嬢さんね。でもアタシ、そういうの気にしないから」
あっさりと言い切った女の人は肩まである赤髪を耳にかけ、にっこりと笑った。
だからお兄ちゃんは上手くかわせずに困った顔をしていたのか。
私はそう納得すると、相変わらずお兄ちゃんに熱い視線を送っている女の人に対して、改めて勇気を出して口を開く。
「あ、あの!お兄ちゃん、もう十歳になるんです…けど」
最後は消え入りそうになったけれど、十歳、という単語が引っ掛かったのか、再び女の人の視線が私へ移る。
女の人は思案顔で私をじっと見つめた後、ようやく諦めてくれたようで、大きな溜息を一つ吐いた。
「そう…じゃあいいわ」
そう言うとくるりと踵を返して、ひらひらと手を振りながら人波の中にまぎれて消えて行った。
「…災難だったね」
「あぁ、久々にしつこい女だったな」
「お兄ちゃんも、ああいう人は苦手?」
「苦手というか、かかわり合いたくないな」
「それを苦手って言うんだよ」
疲れたと言わんばかりに額へ掌を当てて盛大な溜息を吐くお兄ちゃんとは対照的に、私はお兄ちゃんが私を選んでくれた事にただただ安堵していた。
冷静に考えればお兄ちゃんが私を見捨てるなんて有り得ないのに、こんな些細な事で不安になるなんて、やっぱり私は自分に自信がないんだと再認識する。
「…ん、どうした?ぼーっとして」
自然と俯き考え込んでしまった私の顔を覗き込みながら、「おーい、聞いてるかー?」とお兄ちゃんは私の顔の前で手を振る。
「え、あぁ、ごめん。ちょっと考え事してただけ。何でもないよ」
「…お前さぁ、嘘つくの下手だよな」
くしゃくしゃと若干乱暴に頭を撫でられた私は、その手を振り払うようにして首を捻って逃れた。
「あぁもう!止めてよ!髪ぐちゃぐちゃになっちゃったじゃない!」
すぐ側にあるパン屋さんのショウウィンドウに映る自分の頭がとんでもない事になっているのが見えるけれど、最悪な事に私の両手はさっき買った荷物でふさがっていて直したくても直せない。
「ははっ、悪い悪い。今直してやるから、ちょっと待ってろ」
そう言うと、お兄ちゃんは私の髪を結んでいたリボンをほどいてざっくりと手櫛で髪を梳き、ぱぱっと髪をまとめてしまった。
「…お兄ちゃんてさぁ、無駄に器用だよね」
「無駄に、は余計だ」
「じゃあ…器用貧乏?」
「大して変わらないだろ」
さっきの女の人に続いて、私より髪をまとめるのが上手なお兄ちゃん。
陰鬱な気分はなかなか直らない。
「…羨ましいな」
「ん?何がだ?」
結び付けたリボンを整え、お兄ちゃんが私の頭を軽くぽん、と叩いて「はい、完成」と呟く。
「なんでも器用にこなせるお兄ちゃんも、さっきの女の人も」
「俺はともかく、なんでさっきの人?理由は?」
「んー…よくわかんないけど、自分の『好き』って気持ちを素直に表現できるところ、かなぁ?」
俺はともかく、と言った部分はあえて聞き流して、胸中のもやもやとした何かを説明しようとするけれど、なかなか適当な言葉が見つからない。
「ふーん……あ、そっか。そういう事かぁ」
お兄ちゃんは私を見ると何か納得したように数回頷き、それからニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる。
「もう何?気持ち悪い笑い方しないでよ」
私が思い切り眉間に皺を寄せると、お兄ちゃんは子供をあやすように私を優しく抱き締めて小さく囁いた。
「そこはさ、素直に『嫉妬した』でいいんじゃないの?」
私は真っ赤になっていく顔をお兄ちゃんに見られないよう、慌ててお兄ちゃんの腕から逃れると、少しだけ俯きながら早足で今日泊まる宿へと向かう。
背後から笑いをこらえているお兄ちゃんの気配がついてくるけれど、そんな事お構いなしに私はどんどん先を歩いていった。
「もうっ…ばかっ」
「ははっ、そんなむくれるなって。仕方ないだろ?デュオなんだから」
こういう時、強制スリープで黙らせてしまいたくなるのは、きっと私だけじゃない筈だ。
宿についたら即実行してやる。
そんな事を考え、私は荷物をお兄ちゃんに押し付ける事も忘れて、ただ黙々と下を向いたまま宿を目指した。